「睦実が、風邪を引いたらしい」
クルルズラボの中、この部屋の主であるクルルはまるで世間話をするようにそう言った。正に世間話。けれど、わたしは借りに来た本を彼の本棚から探し出している途中だったので、そのことにリアクションを返している暇がなかった。人が借りに来るとあらかじめ言っておいたというのに、彼は本をわざわざ一番高いところにしまいなおしたようだ。脚立にのぼり背伸びをしながら「へぇ」と生返事をする。彼はいつものようにコンソールに向かったまま話しているのだろうか。わたしが来たときには顔さえ向けてくれなかったから、わからないけれど。 ようやく本を抱きしめたときには、足がつりそうに痙攣していた。文句の一つも言ってやりたいが、わたしのために本をしまい直す曹長の姿があまりにも可愛らしかったので、やめておこうと思った。
「へぇって…………それだけかぁ?」 「うん。あ、本ありがとう」 「淡白だねぇ。…………それとも、単に情が薄いのかぁ?」
脚立をしまい、クルルに向き直る。彼はいつのまにか椅子をこちらに向けていた。わたしは彼に淡白だ情が薄いだと言われたことよりも、彼がそう言った感情の機微について指摘したことについて驚いた。けれど、それがどのようなベクトルで話されていることかもわからなかったから肩をすくめるしかない。
「風邪なんて、誰でもひくじゃない」 「まぁな。でもアイツは一人暮らしなんだよ」 「へぇ。若いのに偉いね」 「お前いくつだ。…………はぁ。女なら、介抱の一つでもしてこいよ」
心底呆れたというように、クルルはため息をついた。わたしはその言葉に眉根をよせる。なぜわたしが睦実さんのために看病しに行かなければいけないのかわからない。というか、そんなものは他の人に頼めばいいじゃないか。けれど「わたしでなくともいいじゃない」と言ってやると「日向夏美になんて頼んだらおっさんがうるさい」と正統な回答をされてしまった。頷くしかない。可哀相な伍長のためにもわたしが行かなければいけないのだとでも言うように、クルル曹長が不気味に笑った。
「というわけで、来ました」
所変わって、睦実さんの自宅に着いた。彼は寝巻きの代わりだろうスエット姿でわたしを出迎え、辛そうに笑ってベッドに横になっている。クルルの話を聞くと、まるで自分の兄弟の不始末でも謝るかのように「ごめんね」とやっぱり笑った。
さて、どうしよう。わたしは看病というものがどういうものかわからなかったので、とりあえずクルルに言われたことを一通りやることにした。彼のためにおかゆを作り、冷えピタを貼り、あるのに使っていなかった氷枕をタオルで巻いた。彼はそれにちゃちゃを入れるのでもなく、動くわたしの動作を見つめ、そうして質問に答えながら時々小隊の話をした。
「…………ごちそうさま。美味しかったよ」 「はい。お粗末様でした。じゃあこのお薬を飲んでくださいね。そしたらもう寝るだけなんで、わたしは帰りますから」 「…………もう、帰るの?」 「帰りますよ。わたしは睦実さんの看病をしに来たんです。風邪は寝なきゃ治りませんから」
即答し、わたしは彼から下げたお皿を持って台所に向かった。そうして少ない洗い物を片付けながら、先ほどの睦実さんの表情を思い出す。そうして、クルル曹長の声も蘇るように頭の中で反芻してみた。「淡白だねぇ。…………それとも、単に情が薄いのかぁ?」 水を止める。タオルで手を拭きながら、少し考えて部屋に戻った。
「睦実さん」 「あ、
ちゃん。もう帰るんだよね。…………でも、出来るならもう少し居て欲しいんだけど」
困ったように笑われて、わたしはちょっと驚いた。この人に頼まれごとをするなんて、夢にも思っていなかったから。
「いいですよ。でも、本当に寝なきゃ治らないんですから、少しだけです」 「うん。ありがとう」 「あぁ、そういえばクルルに睦実さんが退屈だろうからって、CDを預かってきてたんでした。…………中身ってやっぱり、電波じゃなきゃわからないやつなんですか?」
CDの袋を渡し、睦実さんが興味深そうにパッケージを見ている横で、尋ねた。彼はわたしのその質問に一瞬沈黙して、やがて静かに笑い出す。
「なんだい、ソレ」 「だって、お二人って電波な友達って聞いてたから。そーゆー特殊な意思疎通の仕方があるのかなって」 「電波…………。うん、そうかもね。でも、
ちゃんが考えるような特別なものはないよ。クルルから来る連絡手段といえばメールだけだし」
わたしがあまりにも真剣なので、睦実さんも苦笑しながら答えてくれた。そうしてCDを取り出すと、コンポにセットする。ボタンを押せば柔らかな女性の声が聞こえてきた。知らない歌手だったし、あきらかに外国の人のものだったけれど、穏やかな音楽は聴いているだけで気分がいい。
「普通でしょ」 「はい。…………ただ、普通じゃないのはこれをチョイスしたのがクルルってことですね」 「…………ふふっ。それはそうかも。でも、アイツって結構音楽には五月蝿いよ」 「なんでも拘りますよね。どうしてそこまでってところまで」 「そうそう。根っからの凝り性なんだよなぁ。そういうところはケロロ軍曹と気が合うんじゃない?」 「あ、そうかも。だからあの小隊はやってけるのかな………」 「あとは冬樹君や夏美ちゃんみたいな、良くも悪くもストッパーがいることも大事だね。凝り性って言うのは、誰かが注意してあげないとどこまでも行っちゃうから」
睦実さんの声は音楽と一緒で穏やかだった。熱が高くて寝ていなければいけない人とは思えない。けれど苦しそうな顔はしない彼の横顔が、少しだけ憂いを帯びているような気がした。
「淋しい、ですか?クルル曹長が日向家に行ってしまって」 「どうかな…………。俺ってそういうのに疎いから」 「忙しいと忘れちゃいますもんね。そういえば今日、ラジオは?」 「おやすみ。さすがにドクターストップがかかっちゃって」 「そっか。じゃあ、夏美ちゃんはがっかりですね」
言いながらわたしは矛盾していると思う。夏美ちゃんのことを考えるならここには彼女を寄越すべきだった。ギロロの感情しか考えず、行動したのはわたしの勝手だ。誰に褒められるものでもないし、押し付けていいものじゃなかった。途端に、悪いことをしているような、誰にも言えないことをしているような、そんな危うい感情が胸に去来する。
「睦実さん、なんかやってほしいこと、ありますか?」 「え?なに?」 「もう本当に遅いから、わたし帰ります。でもその前にやってほしいことがあったらやっていきますから」
早口にそう言った。帰ってしまえば、わたしはまだ平然として明日夏美ちゃんに会えるような気がした。どちらを取るのだと言われたらわたしは友情を取りたかった。 睦実さんは少しだけ惜しいような顔をした後、真剣に悩んでいるようだった。可笑しな人だと思う。電波な感じは理解できないけれど、クルルよりは人間らしい。(当たり前か)
「よし。じゃあ、一つお願いしようかな」 「わたしが出来ることですよ?」 「うん。大丈夫。出来るよ」
そうして、彼はわたしに微笑んで、
「おやすみのキス、してほしいな」
先ほどのわたしの思考をすぐに撤回したいくらいの、電波な会話をし始めた。 わたしはそう言った彼の表情を数秒マジマジと見て、冗談だよと言ってくれるのを待った。しかしいくら待っても彼はにこにこと笑うのをやめずにわたしの反応を窺っている。時間は止まってなんかいないのを、流しっぱなしの音楽が強調していた。
「本気ですか?」 「うん。本気」 「えーっと…………」 「困るだろうと思ったし、やめようかなとも思ったんだけど。でも、やっぱりしてほしいなって思って」
あっけらかんと、彼は言う。その顔からは悩んでいることなんて微塵も感じられなかったのだけれど。
「案外、我侭なんですね」 「うん。俺も初めて知った。自分がこんなに我侭だなんて」
わたしは呆れたように、息をついた。昨日のわたしならきっと拒否しただろう。でも、今日この人に会って、話をして、わたしは彼を知ってしまった。上辺だけじゃなく彼の本心を見て、考えて出した結果なら後は野となれ山となれ、だ。 一瞬、逡巡したけれど。 腰を浮かせる。そうして軽く、けれどしっかりと彼の瞳を見つめて頬に唇を近づけた。唇を離すと、予想外に顔を赤くさせた睦実さんがいる。少し、気分がよかった。
「これで、お願いはお終いですか?」 「う、うん。まさか本当にやってくれるとは思わなかったよ」 「わたしもです。本当にやるとは思わなかった」
腰を浮かせたまま、わたしは笑った。睦実さんも笑って、少しだけ照れたような顔をした。 わたしたちは少しおかしい。それは電波じゃなくて、狂っているということでもない。けれどわたしたちはどちらも宇宙人に心配されて此処にいる。そんな可笑しい螺子の外れた人間もこの世には必要なのかもしれない。 あぁ、そうか。わたしはようやく理解したように、声を上げた。
「なに?」 「わかっちゃいました。人間の進化が遅いわけ」 「へぇ。その答えは?」
わたしの突飛な発言に怯むことなく、睦実さんは先を促した。わたしはいつのまにか沈みかけた日を見つめて、呟いた。
「人は一人じゃ完成しないから、きっと進化も二倍時間がかかるんですよ」
睦実さんはその答えいいねと言って、君も充分電波だよ、とわたしの頬に唇を押し付けた。 渇いた唇が彼の熱をわたしに移す。その熱に浮かされたように、わたしは顔を赤くした。
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