午前十時、スクランブル交差点前、深緑の帽子を被ってた。
気温が上がり始めるころだった。熱にはやし立てられるように歩く人々。すれ違うのに相手を確認する暇などなく、それなのにすいすいと泳ぐ魚のように行きかう群れはまさに壮観だ。時間がくればぱらぱらと少なくなり、規則正しく車の往来を眺めるなんて軍人みたいだ。とまれ、はしれ、左右をよく確認して、さぁ行くんだ。どこからか教官の声でも飛んできそうだな。 人がそれなりに規則正しく動く真上では阿呆みたいにでかい電光掲示板が昼間だというのにそれに負けないくらいの光を放っている。青空に喧嘩を売るように、笑う女が手に持った商品を説明していた。彼女は笑顔を振りまき、露出の多い服を着ながら、それでも喋り続けることはやめない。あんたの下では日に照らし出された人々がわらわらと動き回っているのに、誰も話など聞いちゃいないのに、彼女は笑顔を振りまき口を動かし腰をくねらす。可笑しな光景だ。ここから見える人の数だって少なくはないのに。世界にはここで暮らす人々なんか目じゃないくらい人間がいるってのに。あぁ、可笑しな話だ。 だって俺を知っている人間は一人もいやしない。歩く人々をどんなに目を凝らして見ても、見分けがつかない俺の姿なんてかき消されてしまっているに違いない。サラリーマンと女子高生とおばちゃんと、色さえも微妙で曖昧な他人の群れ。群集にかき消された個ってやつかな。本当はこの中には俺を知ってるやつがいて、俺が知ってるやつもいるのかもしれない。でも知らないんだ。知りたくない。俺はこのスクランブル交差点を歩く軍人どものように孤独を失いたくなんてない。この街ではその言葉さえもがもう、力を無くして弱って息を引き取ってしまった。誰もがなくした感情を、俺はそれでも大切だと思う。 例えばアンタの隣の席に座るやつは、隣人は、親は兄弟は、今どんな気持ちか知ってるかい。それを一度でも確かめたことがあるのかな。なぁ、それを確かめたいって思ったことだって、一度だけでもあると自信を持っていえるのかよ。
そうして最後にこれが一番大事な事なんだ。アンタ達は一度でも、ほんの一瞬でも、誰かに本気でそう思ってもらえたことがあったのか。
「睦実君?」
俺か。俺は、ないよ。それでもいいと思っていたよ。だけど。
「どうしたの?ごめん、ちょっと遅れたね。…………心細かった?」
こんな大勢の他人の中で、俺を見分けてくれる。あんただけが。
にとって特別であれば俺はこの街の孤独から唯一逃げ出せる。そう思うんだ。
午前十時すぎ、スクランブル交差点前、深緑の帽子を被った俺は、駆け寄る君を思い切り抱きしめた。
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