「とても」 小さく、けれど相手に届くようはっきりと明瞭に出したつもりだった。相手の耳が人類の規格外でない限り聞けたはずだし、なにより彼は先ほどからわたしの返事を待っている。わたしは、次の言葉を言おうとして息を吸い直した。こんなにも会話に体力を消耗させる人は始めてだ。 「気が、散るんですけど」 市の図書館、ゆうに身長を越える本棚に挟み込まれ四方を書籍で埋め尽くされた部屋で、わたしは息を切らせる。漏れる木漏れ日がきらきらと優しく足元に降り注いでいる。温かくもなく、湿度も調整された図書館にはゆったりとしたクラシックがかけられていた。聞き覚えはあるけれど名前など知らない名曲が、無作為に流れているここはとても穏やかに時間が過ぎていく。けれどそれもこれも、一人であった場合の話である。 「なぜ? オレはとても楽しいけど」 「楽しいか楽しくないかで言えば、わたしはとても不愉快です」 きっぱりと答えながら、周囲に気を配って声を出す。平日の昼間であったから人の影はまばらだ。けれど余計に静けさを求めてやってくるような人ばかりで、気をつけなければいけない。目の前の少年はそんなことお構いなしに微笑んで、少しだけ肩を竦めた。本棚に戻そうと思った本を押し込みながら、次の本を探そうと視線を走らせる。気が散ると言ったのに、露骨に嫌な顔をすることもできない自分はとても臆病だと思う。眉を跳ね上げ、ひと睨みし、鼻を鳴らして去っていけたらどんなに清々しく勇ましいだろう。 「わたしは本を選んでるのよ? あなたは何をしてるの」 「決まってる。君が本を選ぶように、オレはを見ているんだ」 結局臆病なわたしは、下手な質問をしてこの少年の愉快な答えを聞く羽目になった。昼下がりの図書館に溢れていた眠気さえも吹き飛ばす言葉を、彼はまるで普通のことだとでも言うように口にする。たとえばドラマの俳優が、とんでもない台詞を言うときに似ている。どんなに突飛なことでもその世界では真実になり、真実に変える力をその俳優は作りだしてしまう。それと一緒だ。彼のペースに乗せられては、彼の世界の住人になってしまう。 「そう。それとさっき言ったことは聞こえた?」 「気が散るってこと?」 「そう。よかった。聞こえていて。耳が悪いんじゃって思っていたところなの」 「大丈夫だよ。オレの耳は壊れちゃいないし。の声を聞くときだけ高性能になるんだ」 にっこり微笑む彼の、空々しい瞳のまつげは長い。心の中で「嘘つき」となじりながら、わたしは本棚の間を移動する。彼はわたしの後ろをひっそりと、でも確実についてきた。足音が消えたと思うと実は故意に消していて、彼がいなくなったと喜ぶわたしを落胆させる。彼に興味を持たれてからというもの、通っている図書館にたびたび姿を現すようになった。はじめは偶然だと思っていたのに「こんにちは」が「久しぶり」に変わり、「今日は何していたの」に発展するまでそう時間はかからなかったように思える。仕事をしている彼は会いにくるペースも時間も予想がつかず、出会う確率など低いに決まっているのに二回に一度は彼に会ってしまう。 「わたし、前にも言ったとおり睦実君には興味がないから」 「オレはあるよ。の分も補えるくらいに」 「補わないで。その耳は高性能になるんじゃなかったの?いい加減、気まぐれに付き合ってる暇はないのよ」 振り向いて、瞳を見据える。色素の薄い綺麗な目にわたしが映った。少しだけ睦実のほうが背が高い。首を少しだけ曲げて、背筋は伸ばして、足の指先に力を込めた。 「ここに来るたびに睦実くんはわたしばかり見てる。からかって楽しい?」 「からかってないよ。オレの行動ってそんなに可笑しいかな」 「可笑しい。だってわたしが図書館にいるといつのまにか近くに来て、当たり前のように挨拶するのよ?」 「挨拶くらい普通だよ」 「普通じゃない。それからわたしが帰るまで、本には目もくれないもの。それで帰ろうとすると見計らったように『送るよ』って言う。何のために?」 「本を借りすぎる君の手を守るためだよって理由じゃ、いけないのかな」 「いけないわよ。そんなことするためにここに来てるわけじゃないでしょ」 「うん。それはそうだ」 ようやく彼は頷いた。わたしは自分の会話をもう一度リピートさせてみて、なんて自惚れた発言だろうと頭を悩ませる。わたしの常識が正しければ、こんなのは妄想が激しい女の狂言だろう。彼の意思を無視した発言に他ならない。けれど彼は何度も頷きながら、わたしへの返答を練っている。つまりはすべて事実だと、そういうことだ。 「。オレの言いたいことは、最初に言ってしまってるんだけど」 「なに」 「君が本を選ぶように、オレはを見ている」 質問の答えを、彼はまた繰り返した。眉をひそめ、わたしは彼を見る。 「意味がわからない」 「うん。わかりやすく言うと…………そうだな。……この図書館を世界だと例えよう」 「あまりにも小さな世界ね」 「人の認識している世界は狭くて脆いものだよ。そしてこの世界にはたくさんの人が居る。本棚に詰め込まれ並べられる本のように、つくりは一緒のくせに中身も外見も違う種類が大勢だ。それで本を手に取るように人は人と出会っていく。君が素敵な本と出会うように」 目線と同じ高さにあった本の背表紙を、睦実は人差し指でなぞる。細い指がなまめかしく上下するようすから、目を離せない。 「。本は開かなくちゃ読めない。そうだろ?」 彼が同意を求めるように、優しい声を出した。口を動かすことに躊躇いが生じる。ペースにのせられているぞと体のどこかで警報がわんわん鳴っている。長い彼の指が背表紙からわたしへ、止まり木を見つけた鳥よりも正確に移動する。前髪を撫でながら彼はひっそりと笑った。 「オレは君を選んだ。この世界の誰よりも」 「わたしは」 「今は選べなくてもいい。知っていけば面白いかもしれない。たとえ好みじゃない表紙でも、中身は気に入るかもしれない。そうだろ?」 答えを待たず、彼はわたしの返事を用意する。普段慌てることも取り乱すこともない彼が必死にそういう様子は新鮮だった。 わたしはそこでようやく笑って、「そう、ね」と答えてきびすを返した。 |
きみが囚われたフィルター
(07.11.22)