鳥に恋をしているような気分だ。
人で溢れた改札口で、睦実は頭の中だけでそう思う。口にしたりはせずに、隣にいる自分の彼女がさきほどから見ているものを自分も追った。夕暮れの駅は、帰る人やこれから町に繰り出す人々で溢れかえっている。どこを見ても同じようで違う人ばかりの群れの中で、睦実もも埋もれるようにして立っていた。デートの帰りで、電車を待っていたはずだったのだけれど、はまったく動かなかった。
その視線の先を探して、睦実は納得する。


「睦実くん、ごめん。ちょっと待っててね」


言い終わるより早く駆け出してしまったので、睦実の返事は誰にも聞かれずに消える。いってらっしゃい、がんばって。誰にも聞こえなかったけれど、睦実はそれを毎回言うことにしている。
が小走りで走っていく後姿の先には、今しがた着いた電車からたくさんの人が出てくる改札がある。はそこで、大きな荷物を抱えた初老の女性に話しかけた。たぶん、彼女は一番初めにこう言うだろう。


「こんにちは。何かお困りですか?」


睦実は一人、壁に寄りかかりながら口真似をする。
たぶんはこんな台詞ではじめる。彼女は挨拶が人の警戒をほどくと考えている。効果のほどはともかく、のような女性に挨拶をされれば、強く警戒を抱くこともない。
睦実の視線の先で、初老の女性はほっとしたような表情を浮かべた。沈没船から助けられた人のような、ふと迷ってしまった山の中で誰かと出会ったような、救われた表情だった。奇妙な気分になる。は相変わらず笑顔で、電子掲示板を指差したり、身振り手振りでなにかを説明している。たぶん路線の説明だろうと思われた。が凝視していたときから初老の女性はあきらかに困っている様子だったし、大きすぎる荷物に戸惑ってもいた。けれどが走り出すまで待っていたのは、彼女がじっと固まっていたのがなぜかを知っていたからだ。


「あー………………改札一緒に入っちゃったなぁ」


は初老の女性に付き添うようにして、改札に入っていく。自分たちが待っている電車はもう数分で着いてしまうというのに。
こちらを振り向いたり、視線で合図を送ったりすることなく、は女性をかばうようにして睦実の視界から消えてしまった。はおそらく、エスカレーターに乗せるときも降りるときも細心の注意を払って女性を助けることだろう。それからきっちりとその後の予定まで聞きだすに違いない。困っていることがあれば自分に聞いて欲しいと願い出るかもしれない。そういうふうに、彼女の思考は働いていく。しかも嫌味な口調やこちらが疑うような失言もないので、相手はすっかり信じてしまうのだ。


「………遅い、なぁ………」


10分たっても、は帰ってこなかった。とっくに自分たちの電車は出てしまっている。その間に睦実は3度知らない女性に声をかけられた。ひどく肌を露出させた服を着た人たちで、一様に睦実の外見を褒めたあとでどこかに行こうと誘ってきた。けばけばしい化粧と、むっとするような香水の匂いが不快だった。それでも睦実が笑顔で対応できたのは、を待っていたからだ。
立っているのにも疲れてしまったので、睦実は駅の隅の壁に寄りかかってヒザをまげてしゃがみこむ。次々に進んでいく人々を、面白くもなく眺めた。


『こんにちは。あの、大丈夫ですか?』


蘇った声は、のものだ。こんなふうに混んでいる駅の中で、最初に出会った。
その日は体調が悪くて、駅までは着けたもののそれ以上進むことが出来なくなってしまった。とりあえずホームの隅で座り込み、ヒザを抱えてじっと気分がよくなるのを待ったのだが、効果はあまりなかった。けれどそれ以上に孤独だったことを睦実ははっきりと覚えている。人ばかりが溢れて交錯する駅の中で、けれど誰一人として睦実に手を差し伸べようとする人はいなかった。足元にいる他人に目を奪われる人間は存在せず、一人で耐える時間はとても長かった。だから不意に自分に向けられた声が届いたとき、驚くよりも先に嬉しかったことをよく覚えている。


『気分悪いんでしたら、医務室に行きましょう? 大丈夫。一緒に行きますから』


底なしに親切だった。は医務室に付き合ったあと、睦実を部屋まで送り届けた。あの優しさに焦がれて、睦実はを口説き落とした。熱心に電話をして、仕事の合間を縫ってデートに誘った。そこでわかったのは、彼女の優しさはすべてのものに平等に注がれているということだった。睦実だけに特別に注がれたものではなく、彼女は分け隔てなく人に接する。


「ごめん、睦実くん。遅くなっちゃった」


ようやくが現れて、睦実は顔をあげる。息を切らしているので、たぶん走ったのだろう。睦実はぼんやりとを見る。そして次の瞬間には腕をとって強引に引き寄せていた。まったく無意識のうちに。


「む、睦実くん?」


困惑した声が耳元で聞こえて、睦実は自分が座っていることも彼女をしっかりと抱いていることも、ここが駅の中であることもようやく思い出した。けれど、他のことはどうでもよかった。彼女が自分の傍に帰ってきたことで、睦実はやっと安心する。


「今だけは、こうさせて」


の親切がどこにばら撒かれようと、睦実に口出しをする権利はない。そんなのは傲慢すぎる。けれど、こうやって我侭をいうくらいなら彼氏と言う特権でどうにかならないだろうか。
は少し困惑した後で、強張っていた体の緊張を解いた。ゆっくりと睦実の背後に回される手はどうしようもなく優しい。


「しょうがないなぁ。睦実くんは気まぐれだから」


ネコみたい、とは言う。
笑っているのでこちらの我侭は受け入れられたようだった。あっさりと許すのは自分が特別だからか、それとも彼女の優しさ故なのか。それを理解するほど、自分たちはお互いを知っていない。ただ、お互いに少しだけ思い違いをしていることはわかった。
自由に飛びまわる鳥に恋をしているような自分が、果たしての止まり木になれる日はくるのだろうか。気まぐれなネコになりたいわけでは、ないのだ。
























となりの楽園



(08.09.15)