のそりのそりと彼が行く。緩慢な動作は敵に悟られぬように、低くした腰はやがてその跳躍で相手の上に立つために、隠した爪は喉笛につきたてるそのためだけに。 のそりのそりと彼は行く。草に視界を覆われながら、肩を上下に揺らす様をそれになぞらえ慎重に歩を進める。常には見下ろす瞳が見上げる先には、美味しそうな獲物が一匹。
「それ、面白いかい?」
黄色い蛙は部屋に入るなり単調にそれだけを聞いてきた。だからわたしも単調に、ことさら感情を込めずに答える。
「面白いよ」 「どこが?」 「大自然の、驚異ってところが」
視線の先、テレビの中のドキュメンタリーではジャングルの王者と呼ばれるライオンの姿。背を低く、唸り声も息さえ殺して彼が狙うのは一匹のガゼル。こちらからでもわかるほどガゼルは若く、落ち着きがない。しかも好奇心に飛び回り群れをはずれて今や一人きりだった。 のそりのそりと彼が行く。
「そういや、隊長はどこだ?」 「出かけたよ、みんな」
クルルは小さく舌打ちをした。けれどそれはテレビから一度も視線を外さないわたしへのものではなく、彼の頼りない上司へのものだろう。わざわざ彼が地上に現れるのだから、またはた迷惑な発明品でも作ったのだろうか。彼の作るものは面白いけれど、その分だけ酷薄に思うときがある。ケロロが笑顔で使うときなどそれだ。
「ねぇ、知ってた?クルル」
ガゼルの子が、草を食むのを突然やめて首を上げた。狩人の足も自然と止まる。獲物が耳をそばだてた。若い彼がそれを知ったのは、経験からではない。単に恐怖への本能だろう。
「俺の利益になるようなことか?くーっくっくっ」
狩人の辛抱は続く。ガゼルがまた心底安心するまでその体勢でいるのは至難の業だ。けれどそれはこの喉の渇きを癒すため。石のように固まった彼の、躍動する鼓動が唯一生きている証だった。ガゼルの耳が左右に動く。レーダーか何かのように、必死に恐怖の原因を捕まえようとする。
「肉食動物と草食動物の対比はね、1対1000なんだよ」
つまり箱の中の彼らが出会ったのは、千分の一の確率だったのだ。この広いアフリカの大地で、サバンナを駆け抜け地平線を見下ろし、たどり着いた先に見つけられた哀れな獲物は二、三度瞬くような速さで周囲を見渡した。
「なんか、凄いよね。そんなふうにバランスが保たれてるんだなぁって思うと」
ガゼルがようやく本能の中の不安を打ち消した。首をまた下げ、草の中に顔を突っ込む。風が吹いて、ガゼルの耳がそよぐのがわかった。けれど狡猾な狩人は、風上からその柔らかそうな毛並みを見つめている。ガゼルの鼻には、かぐわしい緑の匂いだけが届いているのだろ
う。生臭い息がひたりひたりと近づいていることなど知らずに。
「ふぅん」 「・・・・・興味なかった?」 「別にぃ」
どちらでもいいような声で、クルルが答えた。わたしはわたしなりに色々と考えてこの番組を見ているのだけれど、そんなことを彼に話すのは面倒だったので都合がよかった。同じ体勢のままいたせいで腰が痛い。もう少しだ。 カメラがライオンの瞳をとらえる。その黒い大きな瞳は、もう獲物しか見ていない。
「どんな気持ちだろうね」
独白気味に呟いて、それでも「何が?」と返ってきた答えが嬉しい。
「そんな確率で、自分を食い殺す何かに逢うって」
のそりのそりと歩んでいた彼の足が止まった。それは一瞬で、けれど彼の一歩の跳躍で獲物を捕らえられる絶好のポイントだ。行くと思った次の瞬間に、彼の筋肉は固めていたとは思えないほど伸びやかに動き力強く大地を蹴った。ガゼルがようやく異変に気付く。視線を上げ、つぶらな瞳に戦慄が走った。
「体験してみるかぁ?」 「え」
ライオンがガゼルの背に爪を立てつんざくような悲鳴が部屋を満たしていく中で、何故だかわたしは天井を見上げた。一瞬なにが起きたかわからない。感じるのは、ぬいぐるみよりも重くてライオンよりも軽いものが胸の上に一匹のっているとそれだけ。 驚いて動けないわたしの肩を押さえて、クルルが顔をのぞく。その一瞬悪寒が走った。 瞳が、わたしだけを見ている。
「どうだい。捕食者に捕らえられた気分はよ」
口元は笑っているはずなのに、彼の眼鏡の奥の瞳は笑っていない。むしろ何よりも現実を突きつけるようにわたしを見る。指が、わたしの肩に食い込んだ。 わたしは笑おうかどうか迷って、結局出来ずに目を見開く。
「今は、誰もいないんだよなぁ」
ことさらに強調する彼の、真意など知りたくはない。
彼の牙が首筋に、鮮血が喉を潤した。
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