自分がそうだとわかった日から、彼女はそこにいた。目をあければそこにいて、座り込んでいる小さい姿。どこも見ていないような瞳は、一度もこちらに向けられることはない。お互いを認識する術もない。 薄い薄いガラスを一枚隔てて俺たちは、ただ二人だけの空間を持っていた。
白い部屋だった。時間も季節もそれがあることさえ知らなかった。 俺は彼女と話してみたかった。話す、ということがどういうことなのかもわからなかったけれど。
いつしかぱっと電気がつくようにそれは訪れた。彼女が俺と視線を合わせたのだ。 まるで今目覚めたばかりのように、カーテンを取り外されてまぶしい朝日を吸い込むように、彼女の黒い瞳が俺を見ていた。ひたり、と彼女の右足がそっとこちらに寄った。ガラスに人差し指をつける。 そう、お前が見ているのは俺だ。
声は届かなかった。俺とあの子の空間は、どこも繋がってはいなかった。 一人きりの部屋には何もなく、かといってガラス越しの彼女を無視するわけにもいかず、それでも彼女もこちらを決して無視しようとしないから、俺もそれに答え続けた。必死にガラスに指を押し付け、俺に何かを伝えようとする、その姿勢は立派だ。 けれど不運は、その言語は俺のものとは似ても似つかなかったということか。
彼女はいつのまにか笑顔を覚えた。 俺はいつのまにか彼女の名前を知った。 必死でつづった文字ではなくて、彼女の唇の動きでわかったことだけれど。 そうしていつのまにか、俺の部屋の白い壁にうっすらと色がついていた。
「クルル」
俺の名前を知ってほしかった。 知らない君が、知らないままそこにいることを許したくなかった。せめて俺の名前を呼んで、ここから出たらきっと覚えているように。
「クルルだ。
」
君の名前を俺はきっと覚えているから。記憶力には自信がある。 白い部屋はまるで俺を飲み込むようにドス黒くなってきていた。わかってる、ここまで来たら俺はここにはいられない。彼女とも離れることになる。それを彼女もわかっているから笑顔が減った。 ガラスにへばりつくことが多くなった俺たちは、どちらともなく手を合わせることが多くなった。 残念なのはどちらのぬくもりも、感じられなかったということか。
黒い靄が覆って、とうとう俺はここに居られなくなった。 飲み込まれるまで俺は彼女を見続けて、どうかと最後の願いを込めた。彼女は泣かずに、寂しそうに笑った。そういえば、彼女は綺麗な瞳をしていた。
「クルル」
ようやく聞こえた声にならない声に、俺は笑った。せまる黒い影に口元だけの表情を精一杯緩ませて、それは俺の名前だと言ってやりたかった。 彼女はやっぱりそこにいて、人差し指を俺に向け続ける。 寂しそうに笑って、笑ったまま彼女の体も黒い闇に溶けていく。 まばたきをしたら、もうそこに白い部屋も彼女も存在しなかった。
本物のまぶたを開ける。 あぁ、俺は死ななかったのだなと冴えた頭の隅で考えた。 人は奇跡の生還だと、嬉しくもない賞賛をあたえてくれたけれどどうでもいい。 肝心なのは、俺が彼女を覚えていると、それだけのこと。
「
」
お前は俺を覚えているか?
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