わたしの彼はとにかく完璧だった。頭脳はわたしと比べ物にならないし、背はすらりと日本人離れして高くて細い。それなのに痩せすぎているわけでもなく筋肉が適度についた腕はいつもわたしを守ってくれた。真摯なまなざしはわたしにひたりと据えられて、ふわりと微笑むその優しさはきっとわたしにしか向けられたことなどないのだろう。わたしの名前を呼ぶ、声変わりして太く掠れた声は毛布よりも温かだった。
「
」 「なに?」 「どうしたの。今日はやけに楽しそうじゃない」
かけられた友人の声に、わたしは思わず自分の顔に手をやった。
「彼に、会うのよ」
無意識にあがる口角は、自分でもどうしようもない。彼女は呆れるように納得して、視線をわたしから外した。「幸せだこと」と呟いたのは、彼女なりの皮肉をこめたエールだったのだろうと思う。
「ごめんなさい。遅れてしまって」
出かけたときには余裕だと思っていたのに、目的地までの道のりで少々より道をしてしまった。焦ったわたしはミュールがカツカツと五月蝿い音を立てるのも無視をして、急いで人々の間をすり抜け階段をかけあがる。あがる息を整えるのに必死なわたしに、当然のようにそこにいた彼は怒るでもなくゆっくりとこちらに顔をむけた。
「ひでぇ髪」 「あいさつもなしに、それは酷いわ」
左手で心臓を押さえ、右手で前髪を掻きあげる。ばくばくと鳴る心臓は小学生のとき以来だきっと。 彼は、彼特有の喉の奥を鳴らすような声で笑う。「くっくっ」彼に言わせれば嫌味のつもりらしいが、長く付き合っていればそれほど気になるものでもないだろう。
「まぁ、座れよ」 「言われなくても」
へたり込んだまま腕で体を支えるようにしていた彼は顎をしゃくって自分の隣を示してみせた。わたしは「せっかくのプリーツスカートなのに!」なんて嘆くこともなく、無造作に彼のそばに腰を下ろした。足が二本並んで投げ出されれば、ミュールが意味もなくはずれた。こんなところにそんな靴で来るなんて、自分でも馬鹿馬鹿しいくらいの快挙だとわかっている。
ここはとあるビルの屋上だった。たまたま鍵が壊されたまま放置されている、たまたま不運が重なり倒産してしまった会社の、たまたまわたしの気を引いた、なんてこともない5階建てのコンクリートの塊だった。両隣前後にここよりも高いビル群が立ち並んでいるから、わたしたちは月が出ていないとお互いの存在さえ確認できない。だから、会うときは自然と晴れた夜だと決められていた。晴れた夜、時間はきっかり八時、いつ決まったと聞かれても答えられないけれど。 あぁそういえば、彼と会ったのも偶然だった。
「
?」
意識を飛ばしていたわたしに、彼が不思議そうにこちらを覗き込む。眼鏡をかけているからわからないけれど、その瞳はわたしを映しているのだろう、たぶん、そう、きっと。わたしは「なんでもないわ」と軽く笑って、鞄と一緒に持ってきた袋に手を突っ込んだ。
「ワインを買ったの」
「へぇ」 「ここのワイン、美味しいのよ。でもあなたには甘すぎるかも」 「あれは男の酒だぜェ」 「えぇ。火のつくようなお酒を飲まずに済んで、女でよかったと心底思ったわ」
紙コップじゃ味気ないからとついでに買ったグラスに酒を注ぎながら、以前飲ませてもらったアルコール度数99%の味を思い出す。喉が焼けるように熱くなったと思ったら、舐めただけなのに次の日声がでなくなったのだ。あれに比べればこんなワインなど、彼にとってはぶどうのジュースくらいにしか感じられないのだろう。けれどわたしは美味しいと感じたから、なんとなく彼にもそれを知っていて欲しかった。
「どう?」 「・・・・甘ぇなァ。こりゃ、ほんとに酒かァ?」 「そうゆうお酒もあるってことよ」 「クーックックッ!・・・・・いい勉強になるぜェ」
月明かりにチラチラと赤く輝くワインを傾けながら、彼は笑ってそれでも飲み続けた。これは気に入ってくれたということだろう。読みにくい表情も、慣れてしまえばコツが掴めてくるものだ。わたしは自分のグラスに映る月を揺らしながら、弱くはない風に耳を澄ませた。遠くで、車の音と喧騒と笑う人の声がした。
『そこにいるのは誰?』
思えば、どうしてそこで逃げてしまわなかったかがわからない。ふらりと魅かれたビルの屋上で、自分ではない誰かの気配に気付いて思わず声を上げた。そのときは恐かったのかもしれないけれど、興味のほうが勝っていたのは間違いないだろう。月明かりに現れた彼は、そんなわたしの興味を知ってか知らずか笑って答えた。
『クーックックッ!誰ってそうだな・・・・いわゆる宇宙人てやつ?』
彼の言うとおり、見た目は宇宙人そのものだった。けれどそれはわたしが宇宙人に詳しかったからとか、彼が映画で見るような奇妙な生物だったからではない。黄色い体はむしろ小さく可愛らしかったし、大きな眼鏡はこちらで言うところの瓶底眼鏡、話す言語だって日本語だった。けれど彼の持つ雰囲気が、そこに立っていて不自然だと思ってしまったわたしの直感が、彼を異性人だと告げていた。可笑しなことと言えば、恐ろしいとは微塵も感じなかったと、それだけ。
「ねぇ、クルル」 「なんだぁ?」 「わたし、何か変なところがあるかしら?」
小さいグラスを選んだはずなのに、それでも彼は両手でグラスを持ちながらわたしを見る。視線の下にある彼の体は小さくて、少し顔を傾けなければお互いの表情は読み取れない。
「別に?いつもと一緒じゃねぇの」 「そうよねぇ。友達がね、可笑しなこというのよ。今日のわたしは楽しそうって」
独り言のように呟いて、甘いワインを舌先で舐めた。彼は気のないように「ふぅん」と呟いて、「大方、彼氏のことでも考えていたんだろ」とまるでどうでもいいことのように投げ出した。その声があんまりにも自然だったから、その意味に気付かないようにわたしは頷く。
「そうかもね」 「出来たヤツなんだろ?」 「えぇ。自慢の彼氏よ。みんなが羨ましがるわ」
頭脳はわたしと比べ物にならないし、背はすらりと日本人離れして高くて細いの。それなのに痩せすぎているわけでもなく筋肉が適度についた腕はいつもわたしを守ってくれて、真摯なまなざしは誰よりも綺麗なのよ。ふわりと微笑むその優しさはきっとわたしにしか向けられたことなどないのでしょうね。わたしの名前を呼ぶ、声変わりして太く掠れた声はとても素敵なの。
性格は温厚で素直、あなたとは大違い。
そして何より・・・・・いいえ、それより。
「真面目でね、いつもわたしのことを一番に考えてくれるの」 「・・・・・」 「電話も二日に一度必ずくれるわ。前は毎日だったんだけれど、ずっとそれじゃほら、お互いもたないじゃない?」 「・・・・・」 「恋人関係を長続きさせたいなら、初めから飛ばしすぎないことが大事だと思うの。思いって冷めやすいものでしょう?」
彼が黙っているのをいいことに、わたしは一人で捲くし立てた。そうして言い終わってから大して渇いてもいない喉を潤すように一気にワインを飲み干した。甘い、濃い赤紫の液体が喉を通っていくのがわかる。
「狡猾な恋だな」
しばらく黙っていた彼が、ぽつりと漏らした。彼らしくない静かな声で、笑いを含むこともなく、もちろんわたしを蔑むでもなく発せられた言葉の意味を一瞬理解できなかった。 薄雲がかかって月の光が弱くなる。ちょうど彼の表情を読もうと首を傾けたというのに、下を向いた彼の顔は見えなかった。けれど「ねぇ」と声を出すことが恐くてたまらない。
「恋なんて、そんなものよ。きっと」
変わりに悟ったような声で言った。けれどそのはずなのに、なぜか震えて聞こえた。
ちがうちがうちがう。こんなことが言いたいわけではない。狡猾だと言われたことを否定したいわけじゃない。恋を論じたいわけでもない。だってわたしとクルルの間にそんなものは不要でしょう。彼は宇宙人であるのだから、見苦しい地球人の恋なんてそんなもの超越してしまっているはずなのだ。でもこの流れはなに。なぜ、彼は黙っているの。
「クルル」
お願いだから、こちらを向いて。
「・・・・・・・・お前、今の彼氏のことを愛してるか?」
海の底よりも冷たい声だった。
わたしは彼にわからないくらいに顔を歪ませて、答える。
「否定する理由がないわ」
するりと出た言葉はあまりにも卑怯なものだった。でもそのときのわたしには自分の愚かさを悔いる時間も余裕もなかった。本格的に曇る夜空。月が隠される。二人の距離がわからなくなる、彼がそこにいるのか、わたしがここにいるのか、果たして二人ともそこにいるのかさえ不確かでもろい事実になる。暗闇の中でなぜか泣きそうになりながら、わたしは彼の言葉を待った。待ち続けてる間、彼の声が聞こえてこなければ窒息してしまうんじゃないだろうかとさえ思った。迂闊に空気を吸ってしまえば、その音で彼の声が聞こえないかもしれない。そんなことないのに、あるわけないのに、彼の隣で必死に泣くまいと唇を引き結んだわたしにはもうクルルのことしか考えられなかったのだ。
早く早く、月よ顔を出して。
「
」
声がして、あぁやっぱり彼はまだ隣に居てくれるのだと確信する。 クルルの声は優しくて、(それは彼とは違う優しさで) クルルの腕は小さく細くて、(わたしを守ったことなど一度もなくて) クルルの考えは深すぎるのだ。(単純なあの人はわたしに嘘さえついたことがない)
だからわたしは彼の考えが理解できない。でも理解できなくていい。 なにより彼は宇宙人。そうしてわたしの彼氏は地球人であると、事実はそれだけで充分なのだ。
「もう、遅いな」
クルルの呟きは、暗闇に吸い込まれて溶けた。それは単純に時間のことを言っていたのかもしれないし、もっと違う別の何かのことを言っていたのかも知れない。けれどわたしは「えぇ、そうね」と軽く相槌を打った。どちらの意味でも同じことだと感じてしまっている自分がひどく滑稽だ。 雲の切れ間がようやく月の光を解放する。もう少し、もう少し、そうすれば先ほどと変わらない二人の影が二つ分、穏やかな空気と一緒に用意されているはずなのだ。
「
」
もう少し。
「なに」
早く早くはやく・・・・・・・・。
「またな」
ようやく現れた月明かりのステージの上で、わたしたちの影は一つになっていた。唇に、違う誰かの同じものが当たっている。でもそれは軽くて柔らかい感触を一瞬だけ残したあと、すぐに離れてしまった。わたしは驚いて目を見開いたまま、目の前の彼を凝視した。なぜとかどうしてとか、言ってしまえればどんなに気が楽だったのだろうか。まるで二人のことを理解していなかったように、振舞えてしまったらどんなにどんなにどんなに。
クルルはふらりと立ち上がって、初めて会ったときのように暗闇の中に戻ってしまった。しばらくしたらその気配さえもなくなってしまったから、もうここにはいないのだろう。わたしは彼の残した小さなグラスを見つめたあと、静かに静かに涙を零した。夜の静寂に呑まれるように、遠く聞こえる喧騒に誤魔化されるように、自分の愚かさに腹を立てて泣いた。
こうなることはわかっていましたと誰に懺悔すれば、この罪は許されますか。 (わたしは二人の男性を苦しめたのです)
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