期間命令が下ったのだと、告げたのは出発を明日に控えた午後だった。
コーヒーの匂いがする部屋に、いつものようにアンゴル族の娘と
が並んでいる。隊長の部屋は大抵こいつらの休憩所だ。広いフローリングの床に敷かれたカーペットの隅、パソコンに向き合い彼女たちに背を向けながらオレは作業を進めていた。いつもの情景だ。背後で世話しない笑い声が、他愛無い会話によって作られる。作業に集中しながらも、その実会話を聞き漏らしもせずに聞いているのはもう癖のようなものだった。
幸せな会話だった。ケーキ屋がどうの、隊長がどうの、女らしい会話。まるで花でも飛んでるんじゃないかってほど、笑いに満ちた。平和な風景。今からそれをぶち壊そうと言うのに、オレはその会話をじっくりと聞いていた。背後にある彼女の笑顔は想像するまでもなくまぶたの裏にある
「あ〜、そうだ。モア」 「はい。クルル曹長……なんですか?」
突然、オレはまるで今気づいたように声をあげた。本当はこの部屋に入ってきたときからそのタイミングを計っていたのに、驚きの声をあげるオレはさぞ滑稽だろう。モニターに映る自分自身を眺め、けれど決して手は休めない。あくまでも何でも無いふうに、言い切ってしまいたかった。
「言い忘れてたが、本部から撤退命令が下ったらしいぜェ。お前に伝えてくれって、隊長から伝言だ」 「え、本当ですか?!てゆーか、吃驚仰天?!」 「本当も嘘もねぇだろ。事実は事実だ」
そーゆーことだから、お前も早く荷物まとめろよ。声のトーンは落とさず、言い終える。パソコンをしまう動作をしながら、オレは突き刺さるような視線に耐えていた。わかっている。
が見ているのだ。先ほどから痛いほど、その視線に込められた意味をわかっているのにオレは振り向くことができない。モアが何か言いたそうに、「あの」と声を出すがやっぱり振り返れなかった。オレたちの間に挟まれた、こいつが一番可哀想かもしれない。
「いつ、行くの」
鋼の声ってのはこんなかもしれねぇなぁ。 しばらくして、
は声を出した。先ほどまでの幸せな声ではない、固いものだった。冷水を浴びせられたような感覚に陥る。罪悪感を感じながらも、オレは振り向けなかった。
「明日の零時だ」 「クルル」
なんとか平静でいようとするのに、彼女の声は追い討ちをかけるようにすばやかった。心臓がもたない。いっそなじってくれれば清々するのに、
はそんなことはしなかった。 冷静に、淡々と、彼女は口を開く。
「なんだよ」 「こっち、向いて」
言葉は優しげに聞こえるのに、その声音には命令の色が濃い。正直に言えば向きたくなかった。振り返ればそこにあるのは彼女の絶望に満ちた瞳だ。それとも憎悪か、憤怒か、はたまた哀愁か。しかし、そのどれもに非難が混じることは確信できていた。なぜ直接彼女に撤退命令が下ったことを言わなかったのか。なぜ、遠まわしに伝えたのか。お見通しのはずの
の顔を、オレは怖くて見ることが出来ない。 しかし、あちらも頑なだった。振り向かないオレにもう一度、「こっち、向いてよ」と彼女は言う。仕方なく、全身の筋肉という筋肉をフル動員して半身をひねった。ことさらゆっくりと、出来れば彼女の瞳を最後に見るように。
振り向いた先、オレの瞳に
が映る。いつもの瞳、頬、髪、輪郭、唇………、太陽のように笑う姿しか見たことのなかった少女の、そのどれもが涙で濡れていた。
「………っ」
驚きに声が出ない。静かに、嗚咽さえ殺して
は泣いていた。モアの様子から、きっとオレが会話を始めたときすでに泣いていたのだろう。はらはらと、こんな風に静かに泣く女をオレは見たことがない。
「……
?」 「………っの!……大馬鹿!!」
戦慄が走った。一瞬唇を噛んでオレをにらみつけた
に、次の瞬間には引っぱたかれていた。もうそれは張り飛ばす行為に近かった。無様にカーペットに倒れこむオレのメガネが歪む。割れたなと理解したときには、もう
は部屋から出て行ってしまっていた。 あぁ、やっぱりオレは酷い男だな。
「クルル」
日向家の屋根の上、夜風を受けながらギロロが隣に立つ。もうすぐここに来る宇宙船を待ちながら、なんとなく手持ち無沙汰な時間。
「なんすか」 「お前………その頬、どうにかしたらどうだ」
言いにくそうに、視線もくれずに言われた言葉になんとなく自分の左頬に触れた。途端に痺れるような痛みが走る。顔を歪ませながら、それでも頭を振って拒絶を示した。
「これはこのままでいいんだよ。それに、あんたに言われても説得力ねぇしなぁ」
指差せば、そこにも自分と同じ傷跡。誰につけられたかなど聞かなくてもわかる。本物のソルジャーにこれほどまでにくっきりと手形を残せる女など地球に一人しかいない。
「そうか。それもそうだな………」
ギロロは自嘲気味に笑って頬をかく。照れているはずも無いが、こんなときどんな顔をすればいいのかわからないのだろう。それはこちらも同じだった。彼女のように泣くことも、怒ることも、もちろん走って逃げ出すことなんて出来ない。ケロロ隊長がからかうようにオレたちの前に来て、「女性を泣かせると、こーゆーあとが出来るんでありますねぇ」なんて挑発してきてもオレにはのってやる元気も無い。ライフルを打ち鳴らす、このセンパイは別として。
「………イヤだねェ」
先ほどから彼女のことしか考えていない。最後に泣いて見せた彼女の、涙の一つ一つが明瞭に浮かんでいる。脳裏に焼きついた思い出の最後のページを飾るには、いささか悲しすぎないか。それともこれがオレたちに与えられた宿命というやつか。あぁ、そんな言葉、嘘みたいな幸せな日常には訪れるはずも無いものだったのに。
「………きたか」
強烈な光が現れて、ギロロがケロロを追う足を止めた。首をあげればケロンの円盤が、似つかわしくない地球の空に浮いている。まるで合成写真。まったくお笑いだ。
「クルル曹長」
ケロロ隊長が、真面目な顔でこちらを見る。オレは待っていたように、その手に小さな鉄の塊を差し出した。小さな小さなこのボタンを押せば、記憶が吹き飛ぶあの装置。自分自身で幸せな記憶を消そうってんだから、本当に馬鹿馬鹿しい。やってられない。 ここを去るには、あまりにも大きなものを手に入れすぎたのだ。 ギロロがゆっくりと、痛ましいような視線をオレにくれる。
「本当にいいのか………?」 「いいもなにも。あんたの大好きな軍法にこう書いてあるんだから仕方ねぇよ」 「別に好きなわけじゃない。……だが、そうだな。仕方ない、か」 「そうそ。この世は仕方ねぇことばっかなんだよ。なんならセンパイ、ヤケでも起こしてあの宇宙船落としちまうかい?」 「ばっ!上官の耳にでも入ったら軍法会議ものだぞ!」 「ほうら、やっぱりな……。だったら仕方ねぇって諦めるしかねぇじゃねぇか」 「う、うむ………。だがな?その……」 「? なんだよ、おっさん。気持ち悪ぃな。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
暴言を気にせずに、ギロロはクルルの顔をちらりと見た。そうして確信したように、肩を落とす。
「お前、今自分がどんな顔しているか。……わかっているのか」 「………知らねぇよ。あんたと一緒じゃねぇことだけは確かだけどな」
「あのなぁ、お前……もう一生幸せになれないような顔してるぞ」
何を言われたか初めわからなかった。そうして理解してからは、皮肉にも笑いがこみ上げてくる。あまりにも可愛らしい発見だ。乙女チックなこのソルジャーにはお似合いだが。
宇宙船がそこまで迫ってきていた。ケロロ隊長が神妙な顔つきで、オレが渡した装置に手を伸ばしている。すべてがスローモーションで進んでいく。なのに、まだはっきりと
の泣き顔が情景にかぶってくる。女の涙は本当に武器になるのだと、こんなところで知るなんて。 これから幸せになれないような顔だって?言ったもんだな。当たり前だろ。なにせ、オレには――――。
「それ、押したらタダじゃ済まないわよ。ボケガエル」
パキィン! 金属のはじかれる音がこだまして、小隊全員が驚いて視線を向ける。そこにはありえないものが浮かんでいた。パワードスーツを装着した夏美なんて、何の悪夢だ? うろたえるギロロセンパイが鬱陶しい。記憶削除の装置はどうやら壊されたようだった。隊長が悲痛な声をあげている。宇宙船が様子を見守るように動きを止めた。 けれどオレは、そのどれにも興味がなかった。ただ一点、武装もせずに降り立つ不思議な少女に目を奪われていた。頼りなげに屋根に立ち、夏美と笑いあう。そうしてこちらを確認すると、少しだけ迷うように困り顔をした。そうして最後に、やっとやっと……笑ってくれた少女。
あぁ、センパイ。あんたの言ったことは正しかった。
これだけは認めてやるよ。オレはこいつがいなくちゃ、幸せなんてものにはなれねぇんだ。
夏美が発砲する。 さぁ、道化になる時間だ。せいぜい、善戦する侵略者を演じようじゃねぇか!
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