恒久


(あの影は永遠に僕の中から消えないだろう)

 

 




彼は、とても賢い人でした。


何千何百と産まれる赤ん坊の中で、一握りの才能を開花させた人でした。頭の回転の速さでは誰も敵いません。けれど人との交流は下手で、いつもお一人でおられました。ずば抜けた彼の心は、きっと幼いながらに達観されていたのでしょう。


しばらくして、かの方は軍に入られたようでした。


異例の出世にざわめく軍部内は、まるで毎日が浮き足立った祭りのようです。彼が廊下を歩くたびに静かな戦慄が走り、誰も話してはいないはずなのに空気が揺れました。そこにいるだけで周囲を落ち着かなくさせるのが、どうやら彼のさがのようです。小さな体で歩く姿は誰にも引け目や負い目を感じてはおらず、むしろそこに何十年も居続けたように堂々としていらっしゃいました。川の主のような、住み続けた部屋のような、自分が居て当然の場所のようだったのです。軍服が大きいのか、少し不恰好ではありましたがそれもお可愛らしかった。


どんな珍事や大事件が起こったとしても、月日は流れます。あのお方が軍に所属してからいくらばかりか季節を越したときのことでした。そう、唐突にわたしたちは出会ったのです。
もう貴方は少佐という地位にお付きで、わたしなど目もあわせてはいけないような立場だったのですが、そのときはそんなことを考える暇もありませんでした。
ただ突然出会ったわたしのことを彼はひどく気に入り、その場で手を引かれた―――――――――それに対応するだけで精一杯だったのでございます。


「アンタ、名前は?」


引きずられるように連れて来られた部屋の中央で、貴方はわたしに聞きました。わたしは驚きで目を開き、虚構と現実の区別もつかなくなっておりましたので、大層聞きづらい声をしていたと思います。けれど貴方はそのよく聞こえるヘッドフォンのおかげで何でも聞き取ることが出来たのでございましょうね。はっきりとわたしの名を呼んでくださいました。


。………………聞かない名前だねぇ」


それから、わたしたちの奇妙な共同生活は始まりました。少佐であられた貴方様はわたし一人を養うくらいは朝飯前のようでした。研究室の端にわたし用の寝床を与えていただき、薄暗いそこがわたしの部屋となりました。なんどか、わたしについて他の方から言及されたこともあったのでしょう。珍しく言い争うような声が、研究室の外から聞こえることがございました。そんなときわたしに出来ることはございません。ただ、少しだけ苛々した様子で戻られる貴方を笑って出迎えることが精一杯の感謝の証でした。


「なぁ、アンタまさか喋れないのかい?」


ある日、コンソールに向かっていた頭を突然こちらに向けて尋ねられました。わたしは否定を表すように、首を振りました。そうすれば貴方は矢継ぎ早に質問を重ねます。じゃあどうして話さない。ここが気に入らないのか、言語を知らないのか、アンタの故郷はどこか―――――――――そうして、最後に零すように一つだけ仰いました。


オレとは喋りたくねぇか。


「い、いえ」


そんなことはありません。えぇ、本当にそれだけは。


「それじゃ、なんで話さねぇんだよ」
「わたしごときが貴方様と話せるはずもございません」
「はぁ?何言ってんだ。そんなんどうでもいいから、話せよ。それからオレは、クルルだぜぇ」


これが、わたしと貴方が交わした始めての会話らしい会話であったのを覚えていらっしゃいますでしょうか。いつも不機嫌気味な貴方様――――――いえ、クルル様がそのときだけ綻ぶように笑ってくださったことをわたしは生涯忘れません。

その日から、わたしはクルル様と沢山の話をしました。主にわたしの故郷の話ばかりでしたが、軍のことも御自分のことも話したくないクルル様では仕方のないことでした。ケロンに来た経緯などを話していくうちに、わたしがアブダクションという行為により連れ攫われたのだと知りました。しかも通常のそれとは異なり、赤ん坊だったわたしは売られるためにここに来たのだと言います。確かにわたしには小さいときから軍のお世話になっておりました。自分の体がこの国の方とは違うことも充分承知しておりました。しかし、それが自分の意思とはまったく別のものに動かされた結果なのだということはそのとき初めて知ったのでございます。あぁ、そうなのですか。わたくしがいつも一人だったのはそういうわけがあったのですか。


わたしには、家族はいないのですか。


そう問うたときのクルル様は少しだけ悲しそうなお顔をなさっておりました。ですから、それからその話はしないと決めました。帰されなかったのはつまりそういうことだったのでしょう。わたしは後悔しておりませんでしたし、むしろクルル様に出会えたことのほうが、故郷にいたときよりも随分幸せだったからです。



………」
「はい」
「お前、故郷に帰りたいかぁ?」



静かなお声でした。わたしの顔を見ずに、クルル様はそう言われると黙り込んでしまわれます。お付き合いの中から、クルル様がそうやってわたしの瞳を見ないときは言いにくいことや本心ではないこと仰っているのだとわかっておりました。ですから、クルル様の正面に回りこみわたしははっきりと瞳を見たのです。



「クルル様が帰れと仰るなら、帰ります」
「…………」
「ですが、そう仰られないのであれば………………わたしは死ぬまでお傍にいたいと、そう思っているのです」



そのときのわたしは例えるならば、列車を前に身動きもとれずにいる哀れな自殺志願者のようだったでしょう。もちろんわたしはそこで死んでもよかったのです。それほどの思いを込めて貴方様に伝えたのですから、そうなってしまえばむしろ本望だったのです。
ですが、クルル様は少しだけ間を空けてぼうとわたしの顔を凝視したあと「そうか」と呟かれました。そうして、小さく小さく、わたしが名前を告げたときと同じかもっと小さな声で仰ってくださいました。



「いいぜぇ。………一緒に居てやるよ」



幸せでございました。
そう仰ってくださったクルル様のお心が例え一時の迷いだったとしても、わたしは天にも昇る気持ちだったのです。貴方様と過ごす、薄暗い研究室での毎日がわたしにはどんな幸せよりも満たされていたのです。クルル様が仰ってくださることが、唯一わたしが生きているという証だったのです。本当に本当に、これほどの幸福が人生の中にあるとは思いませんでした。それもこれも、クルル様のおかげだったのです。


あぁ、だから、だからそんなお顔をなさらないでください。

 



………!」

 



これは仕方のないことなのです。当然の宿命なのです。ちっぽけなわたしには大きすぎる愛を頂いた報いなのかもしれませんが、けれど後悔などしていないのです。




「死ぬんじゃねェよ…………!おい!」


申し訳ございません。それはどうしても叶えてさしあげることは出来ません。
寿命というものでしょうか。薄暗い部屋の中で、太陽の光をまったく浴びずに過ごし続けたわたしはもう限界でした。ですがこれは貴方様のせいではないのです。ただわたしが幸せすぎて、息を吸うのを忘れていただけなのでございます。



「おいっ!返事しろよ!」
「ク、ルル様」



わたしは最後の力を振り絞りました。そうして、聞き取ろうと顔を近づけてくださった貴方に不意打ちのような―――――――――キスをしました。
掠め取るような一瞬でしたが、わたしはクルル様の体温をしっかりと感じておりました。
そうして呆然とわたしを見下ろすクルル様の頬に手を伸ばします。そこにはわたしなんかには勿体無いものが流れておりました。幸せだったはわたしは、欲深くなっていたのでしょうね。その涙を他の誰にも見せたくはなかったのです。見せるくらいならばわたしのあの世への手向けとして、頂いてしまいたかった。



………………?」



あぁ、優しい貴方。わたしは幸せに散ってゆきます。
けれど少しだけ心配があるのです。わたしが居なくなった後、貴方を迎えてくれる方の存在が、無礼ですが心配なのです。貴方を包み、柔らかく迎えてくれるような仲間。出来ればたくさん、頭のいい貴方が飽きないような方がいいですね。人の嫌がるようなことが好きなクルル様でございますから、お心が広いことも重要です。そうして多くの方とお会いください。出会うことは奇跡なのです。幸せになる権利は、生き続ける限り無限にあるのです。
貴方の幸せが、わたしの最後で最大の願い。



………………!」



笑ってくださいませ、クルル様。
貴方の腕の中で逝けるわたしはこれほどまでに幸せなのですから。

 






 

 

 

 

(06.10.30)