瞳を開ければあまりにも見慣れた鉄の塊たちとうねるコードの大群が飛び込んできた。
寝ていたのかと頭を振りながら起き上がり、この奇妙な機械たちのお化け屋敷と化しているラボの主を探す。こんな場所は知る限り彼の部屋だけだから間違いないだろう。
いつ来たのだろう、思い出せない。
毎日のように彼の部屋に入り浸っていたから、きっと今日の予定も昨日と変わらなかったに違いない。わたしは彼のラボを訪れて、パソコンに向かう彼の背中や横顔を見ながら時折雑誌に目を通す。ここで重要なのは彼に見惚れていることを悟られないことだ。コンソールをすべらかに走る小さな黄色い指先に目で追うことに夢中になって彼が意地悪な視線をこちらに向けていることに気づかなければ、だいぶ罰の悪い思いをすることになるのだから。
ひたりと騒音を嫌う彼の気に障らないように、床に降り立つ。
小さなソファで眠っていたせいで背中がやたらに痛かったけれど、ここで悲鳴をあげてもどうにもならない。とりあえずクルルに退出のあいさつでもしてゆっくり風呂で揉むしかないと考えて、ふと今が何時か気になった。
「あれ、ケータイが…………」
いつもポケットに入れているはずのケータイが見つからない。珍しくバックにでも入れていたのだろうか。そういえば手元にバックさえも見当たらないことに気づいて、わたしは首をひねった。
「よぉ、時間通りだな」
聞きなれた声に伏せていた顔をあげれば、そこにはいつもどおりのクルルがいた。
わたしはその姿を確認するなり笑顔になって、今まで起きてきた違和感など忘れてしまう。若干高いところでお気に入りの椅子に座りながら、手元のコンソールでまた難しげな画面にデータを入力しながら彼は笑っていた。
「おはよう、クルル。時間通りってなに?」
「クーックックッ、こっちのことだ。知りたいか?」
普通だったらお前には理解できないだのと屁理屈をこねて答えを教えてくれないのに、クルルはまっすぐにわたしを見てたずねた。わたしは首を縦に振って、とりあえず「知りたい」と答えた。彼がそうやって優しいときは何かあるときなのだけれど、その何かさえ最近では楽しみになってきている。惚れた弱みというやつだろうか。
クルルは「ついてきなぁ」と投げやりに言って、自分は椅子ごとすいすいと部屋の奥に引っ込んでしまう。その後姿をなんとか追いながら進むとひやっとした風と共に見知らぬ場所に出た。あたりを見回して、そこが随分広いことに気づく。けれど無駄な装飾はほどこされず、大きな画面がぽつんとあるだけの部屋は物寂しい。椅子のない映画館みたいだと、とっさに思う。
「ねぇ、クルル。そういえば、ケロロたちは?」
彼に会いにラボに来て、ケロロと顔を合わさない日はない。隊長は何かとクルルに用事を押し付けにラボを訪れて、わたしの他愛ない世間話に付き合ってくれた。それがないから、少しおかしな気分だ。しかも随分と長い間会っていないようにも感じる。広いラボと無機質な機械音と、人の気配がないせいだ。
「………………………隊長? さぁてねぇ、…………知りたいか?」
もう一度、先ほどのビデオの巻き返しみたいにクルルが問う。相変わらず少し高いところにいるクルルの表情は読めない。わたしはさほど気になってもいなかったけれど、彼の機嫌が損ねないように頷いて肯定を示した。彼の小さな指が動いて、巨大画面が鈍い音と共に光を放った。
驚いて瞳をつむり、恐る恐る開けるとそこに映し出されたのは日向家のリビングだ。
「……………クルル?」
名前を呼んでみたけれど、返事はない。彼はわたしに何を教えたいのだろう。
日向家のリビングには誰もいなかった。
しかも綺麗に片付いていて、そこには元から人など住んでいなかったような奇妙な清潔感さえ漂っている。きちんと整えられたテーブルに収まった椅子、食器棚に並んだお皿の一枚にいたるまで、数ミリの誤差さえないように感じるのは何故だろう。物音さえしない無音の世界は、機械ばかりのクルルのラボによく似ていた。生活品ばかり並んでいるのに、そこには決定的な誰かがいるという生活感がない。
「クルル、なに、これ」
「これだけじゃぁわからねぇか? じゃあお次はこれだ」
彼の指先に操られて画面は次々に纏う色を変える。
小雪ちゃんの家から始まり、いつもの散歩コースの小道を抜け、商店街の大通りを通って、西澤さんちにゴールイン! 彼が製作した割には面白みの欠片もない映像が淡々と流れるのを見ながら、わたしはそのどれにも人が映っていないことに必死に気づかないようにした。誰もいないなんて、そんなのは彼の悪ふざけだ。きっと活気のある街中から人の姿だけを抜き取ったに違いない。日向家のリビングから冬樹くんや夏美ちゃんの姿がなかったのだって、きっと。
「……………都合のいい解釈するんじゃねぇよ」
「クルル、…………それ、どういう」
「誰もいねぇ。それが答えだ。俺がやった」
とても短い言葉で、わたしは胴体を切断されるくらいの痛みとショックを受けた。
一瞬すべてが見えなくなって、それで冗談でしょうと笑うタイミングをなくしてしまった。もしかしたらそれですべては元通りになったかもしれないのに、彼が「あぁ、冗談だ」なんて奇跡的な台詞を言ってくれるなんてことありはしないのに、わたしは空想の中に思いを馳せた。誰もいない街中を映し出す画面は、まだ無意味な情報をわたしに伝えている。
彼がやった。それを、今ここで知らされるのはわたしが最初だろうか。
「ちなみに地球全体がこんなんだ。見てぇなら、なんだって見せてやるぜぇ」
「……………いい」
ぶっきらぼうに言って、わたしは画面に背を向けた。単純なわたしは彼の馬鹿みたいな事実をそっくり受け止めてしまった。他人が見れば、わたしは詐欺師にだまされる哀れな子羊といったところだろうか。他人がいないからわからないけれど。
それでも、クルルがわたしをからかうことはあっても騙すことはなかったからそう信じた。ケロロもタママもギロロもドロロも冬樹君も夏美ちゃんも小雪ちゃんも桃華ちゃんも睦実さんもいない。考えてみれば、それだけの真実。世界の人々が全部いなくなったって、わたしの大切な人たちは一握りだ。
「……………………、オレが憎いか?」
ずっと高いところにいたクルルが、わたしの視線と同じ高さまで降りてきた。
わたしはぼうとしていた瞳を彼に向けて考える。不思議なことに涙は流れなかった。天才である彼が誰もいないと言ったら、それがこの世界に起こっている真実だ。そうさせる実力を彼は持っている。
その力を行使した理由をわたしは聞かなければならないのだろうか。聞いて、なじって、責めて、どうしてと泣きじゃくれば彼は満足なのだろうか。本当に望んだことは、いったい何。
動いているのは自分とクルルだけの世界。それはとても窮屈なように思えた。
「……………ううん。わたしは、憎む資格がない」
腕を少しだけ動かすのにも、大変な労力が必要だった。まるで全世界の重力が自分にだけ降りかかったような感覚だ。今まで分け合ってきた世界を全部、了承もしていないのに手渡された。それでも石のような腕でわたしはクルルをできるだけの優しさで抱きしめた。
クルルが、居心地悪そうに舌打ちをする。
「資格がない? 笑わせるな。お前にないっつったら、いったい誰にある」
「…………」
「お前をコールドスリープで眠らせた七日間にオレがしたことを教えてやろうか。ウイルスの散布と死体の処理に追われる毎日だった。隊長たちの反撃もくらったし、一度は完璧に負けたと思った。けれどオレはこうして生きてる。お前を手に入れたオレだけがのうのうと、こうやって」
「うん。生きてる」
彼の言葉をさえぎって、わたしは始めて自分の意思で肯定した。
腕を緩めて彼を解放すれば、なんとも言えない顔をしたクルルと目が合った。分厚い眼鏡の奥で、彼が何を思っているかはわからない。賢い彼はわたしが起きる前にすべての後悔と贖罪と泣き言を、すべてぶちまけてしまったのだろう。わたしには何ひとつ背負わせず、それでわたしに拒絶されれば彼の凶行は満たされたのだろうか。
「この世界が二人だけで終わればいい」
「……?」
「わたしもそう思ったの」
わたしとクルルの間にはうっとおしい壁がいくつもあって、それが目障りで仕方なかった。社会の立場とか人間である意味とか、軍人である彼の立場とか、いつかは去らなければいけない運命とか。そんなものがうっとおしくて、わたしは度々すべてをぶち壊していた。
むろん、頭の中でだけれど。
「だから、いいの。わたしだって望んでいたんだもの」
「…………」
「やったことを認めてあげるつもりなんてないよ。わたしもクルルも一生背負って生きていかなきゃいけない。全部の命と運命と幸せを奪って生き抜かなきゃいけない。途中で狂って死んじゃうかもしれない。でも、さ」
誰もいない世界は、いまいち実感できない。テレビの画面越しに見ていた世界が突然に消えた。会った事もない人たちが死んで、笑いあった友人を殺して、しがらみから解放されたかったわたし達は余計深みに嵌ってしまったけれど。
「わたしも一緒に狂ってあげる。世界がわたしとクルルだけなら、それが正解だもの」
わたしとクルルが作り出す全てがこの世界を成り立たせる理になる。全部を認めて、背負って、苦しんで、押しつぶされてしまうかもしれないけれど、それは望んだことだった。
心で思っただけのわたしと、実行してしまったクルル。
わたしが責めないのだから、彼は誰からも責められる必要はない。ただ彼は自分で自分を許せないだろうから、わたしも自分を許すまいと思った。二人が出会ったとき、すでに終末のカウントダウンが始まってしまったというのなら、その運命は世界をはじめから認めていなかったのだ。神様なんてものは、信じたことがないけれど。
「ひでぇ女だな」
「………そう、かもね」
「だがオレにはもったいねぇ女だ」
黄色い腕がわたしの頭を乱暴に引き寄せて、力いっぱい抱きしめた。ひんやりとした肌、それとは反対に熱くなった指先、額の上のほうにあたる眼鏡の感触。すべてがいつもの彼だった。
けれど彼を形作る全部が元通りになったわけではない。からかう人も叱る人も傍観する人も観察する対象だって失ってしまった穴はこれから一生、埋まることなんてない。
それでも彼はわたしを選んで、傍に置いてくれた。こんなに嬉しいことはないでしょう?
「クルル、ありがとう」
愛だの恋だの呟いたなら恨みの炎で焼かれてしまいそうだったから、わたしはこの世でもっとも優しい言葉を口にした。選んでくれて、守ってくれて、傍に置いてくれて、汚いものを何も見せずに、拒絶されることを予想しながら、それでも受け入れたわたしに安堵して、こんなにも強く抱いてくれるあなたに送る言葉にはこれがぴったりだ。
瞳を閉じて、彼の心音に耳を澄ます。
もう二つきりしかない心臓が、どくんと跳ねてわたしのものと重なった気がした。
「………………………う、ルル曹長、クルル曹長!!」
バーチャル世界の回線越しに聞こえてきた大声に、オレは渋い顔をしてメットをはずした。
予想通りそこに立っていたのは我らが隊長だ。また下らない頼みごとでもしに来たのかと露骨に嫌そうな顔をすれば、仁王立ちになって怒りだすから始末に終えない。
「クルル曹長!まぁた侵略会議サボったっしょ!」
「あーーー?……あぁ、わり」
「忘れていたでありますな!まったく!赤ダルマに怒られる我輩の身にもなってよ!」
きんきんと女みたいな声で騒ぐ隊長。頬杖をつきながら生返事をする自分。
そっとコンソールを触って画面の端に映っている先ほどまでのシミュレーションを消去した。
「ハイハイ。わかった、次からはちゃんと行く」
「ホントに約束でありますよ?!」
「あーはいはい」
疑わしげな表情をしながらも、隊長は扉を出て行く。肩を怒らせてしっかりとした足取りで、生きている姿でそこにいる。よかった、と思うのは少しでも罪の意識を感じてしまっているせいだろうか。
「あぁ、それとクルル曹長」
肩越しに振り返るケロロの顔半分が外からの明かりで影になってみえた。
「シミュレーションもほどほどにしないと、殿の精神がもたないでありますよ」
まるで見透かすような隊長の鋭さ。オレの気に入っている厄介な能力だ。返事を待たず去っていくケロロに取り残されて、ようやく一人きりになった部屋で背後を振り返る。
そこには小さなソファで体を縮めて眠るがいた。
今は眠っているだけだ。もう先ほどのような悪夢は続いていない。
時折試すように彼女に見せる情景は、すべてオレが望んだことだ。彼女をこの腕に閉じ込める最悪の作戦を実行する勇気がないから、彼女の反応を確かめたくて実験する。ひどく残酷すぎる夢の淵で、それでもオレを裏切ったこともなじったこともないに、どうしようもない愛しさと吐き気を覚える自分の卑劣さを覚え続けながらも、この矛盾に満ちた関係を手放せない。
そっと近寄って頬に触れて、オレは何度も声にならない謝罪を繰り返した。
(君がもっと残酷なら、嫌うことができたのに)
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