残暑を過ぎて、もうすっかり季節は秋だった。赤く色づく葉を揺らす風は冷たく、見上げればいわし雲が一面を覆う空がひろがっている。どこか物悲しく、どこもかしこも落ち着いた色合いに包まれる季節だ。綺麗だと思う。春も夏も冬も好きだけれど、秋は特に綺麗だと思う。それはたぶん、これから無くすものを悔やんでいるからだ。
秋は実りの秋とも言う。春とは違う、未来をつくるものが生まれ出る。冬の厳しさを知っているから、誰もが争って体に息吹をためていく。誰も無くさないために。昔、冬を越すということはとても大変なことだった。それを知っている。記憶はなくても、体に染み込んだ命を作る細胞のひとつひとつが覚えている。何が起こるのか、本能で察知できるように。
だとしたら、わたしはとても不完全なのかもしれない。
「……………なにを、考えている?」
黄色や赤に染まる葉を見ていた。わたしに話しかけた人は、返事がなくても怒ったりはしない。だから無言で視線を落とす。すぐ近くに来る気配が、した。
「紅葉か。綺麗だな、地球のものは特に」
「……………」
「あまり窓の傍に寄るな。体を冷やすぞ」
ひらり。視線の先でイチョウの葉が落ちる。木から離れて寄る辺もなく、自分を支えることさえ出来ない無力な葉が落ちる。けれどなぜか弱々しいとは思わなかった。むしろ寂しがっているのも、悲しいのも、残された木のほうかもしれないとさえ思う。
ギロロの忠告を無視して、わたしは窓をあけた。裸足のままベランダに出て、そばに落ちていたイチョウの葉を拾う。
「ねぇ、ギロロ。寂しいと思ってはいけない、よね」
声に出して、自分に訪れている変化を知る。頭の中で、活動していない部分がある。薄い膜が張り、全体を見えなくしている。けれど寂しいとも悲しいとも思ってはいけない気がした。わたしにはその権利がない。権利どころか、ここにいる理由さえもあいまいだ。ギロロが優しいのも可笑しいはずなのに、彼を受け入れているのはどうしてだろう。
「わたし、なくしてしまったの?」
「あぁ」
なにかを無くしてしまった。ギロロの答えはよどみなく、風の音よりも冷たく響く。言葉に詰まった喉は、答えを聞こうとしているのかもしれない。けれどなくした何かがわたしに語りかける。それをしてしまっては、また同じことが起きてしまうと、訴え続けている。
細胞が、わたしに命令をくだしている。冬がくる。何もかもを攫って新しく誕生させる傍若無人なあの冬が、望んでもいないのにやってくる。弱いものは置いていけ。生き残りたいなら強くなれ。わたしにはなんのことかわからない。
「ギロロ。寂しい」
「あぁ」
「悲しいよ。なんで?わたしには悲しい記憶なんてひとつもないのに」
秋の、せいだろうか。この落ち着いたモノトーンに包まれた世界が、わたしを哀しみで包むのだろうか。風が冷たくなったから、果物が実るから、動物たちが山にこもる準備を始めるから、わたしは淋しいのだろうか。
違う。違うそんなの、絶対に。
理由もないのにわたしは断言する。
「ねぇ、わたし忘れてしまったの。取り戻せないところに置いてきてしまった。無理やりに奪われて、幸せになんてなれっこない。どうして、ねぇ、なんで」
わたしはギロロに腕を伸ばす。彼よりも遥かに長いわたしの腕が、小さな体を抱きしめる。温かい。彼は色合いどおりに優しく、その身に熱を持っていた。途端に安堵して、頬に涙が流れて彼の肩に落ちる。床についたひざから、どんどん熱が奪われ体が冷えていく。このまま冬眠してしまえればいいのに。そうすれば、こちらが夢だと思ってしまえるのに。
「ギロロ」
腕を放し、わたしは座り込みながらギロロを見る。わたしが言葉を作り出すまで彼は何も言わずそこにいてくれる。右手に持ったイチョウの葉をぎゅうと握って、わたしは瞳を閉じた。
なくしてしまった何かを、取り戻したいと願うことは簡単だろうか。願ってすがって努力して、記憶が戻ってもわたしは幸せになれるのだろうか。その保障は、あるのだろうか。
「保障なんか、ねぇよ」
答えてくれる声は、脳の奥のほうでまたたく残照のようだった。
「オレとお前が結ばれて、利益なんて特にねぇのさ。だったら忘れちまうのがてっとり早い。そうだろ?」
「眠って起きてメシでも食えば、元通りのお前だ。新品同様傷ひとつない。どうだいお得な話だろ」
「……………忘れちまえよ。オレにはお前を幸せにすることなんできねぇ」
悲しそうに呟く、声の主をわたしは知らない。けれどわたしが忘れても、きっと彼も幸せになることなんてできないのだろう。そう思う。
「ねぇ、ギロロ。わたし、好きだよ。すごく好き」
「真顔で言うな。俺に言ってどうする」
「そうだね。ごめん。でも忘れないうちに、消される前に言わなくちゃ」
わたしの忘れた人は、きっと寂しくても悲しくてもつらくても、弱音一つ言わないだろうから。
「愛してるかって?お前、馬鹿かよ。愛してたらこんなことするわけねぇだろ」
どうしてほかの全部を忘れてしまっているのに、断片的な言葉ばかり浮かぶのだろう。それを嬉しいと、感じるわたしは異常だろうか。
「もう一生会うこともねぇだろうな。ククッ。オシアワセニ。」
イチョウの葉を握りながら、わたしは願う。
ない記憶を掘り起こすのはとても大変だけれど、そのままの気持ちをどうすればいいのだろう。忘れていない。大事な部分は、ちゃんと残ってる。
「わたしは、愛している」
言葉に出して、瞳をあける。けれどそこには誰も居なかった。
ただ紅葉が一枚、所在なさげに風に揺られている。誰かいたのだろうか。わたしは首を傾げる。誰かがいたという記憶はない。わたしはここにひとりで、とても寂しい。膝はもう冷たいという感覚さえなくて、頬の涙のあとはかさかさに乾いていた。
秋のせいだ。痛む頭を抑えて、わたしはイチョウを握り締めた。
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