可愛らしく小さな足をぶらぶらさせているクルルの姿を見ながら、この人は今満足しているのだろうかとは考える。彼の自己顕示欲の強いラボの中、彼一色に染まっている部屋は適温で過ごしやすい。わけのわからない精密機械の山がわたしの視界いっぱいに広がっていて、それを彼はいとも簡単に分解したり組み立てたりしていた。彼の指先は、地球人のものとは比べ物にならないほど短いというのにとても綺麗だ。ネジをはずすのも、コードを巻き取るのも、彼の綺麗な指先だった。
足先も好きだけれど、指先も好きだな。どちらも黄色いそれらを見つめては思う。
「おい」
あまりにも長い時間見つめすぎていたので、クルルが不審げにこちらを向いて声をかけてきた。丸くて分厚いぐるぐるの眼鏡が、薄い闇の中で平たく光っている。
ことさらたっぷり間を持たせて、は笑う。
「なに?」
「…………なに見てるんだぁ?」
「クルルの足と手」
正直に答えると、面白いくらい眉を寄せて「はぁ?」と返事がかえってきた。座っていた椅子から立ち上がり、はクルルの傍に立つ。彼の座っているは背もたれが大きいのでそこにもたれた。
「用があったの?」
だから呼んだんでしょう。
彼は無意味なことをしたがらないから、指先で操るネジにも、遊んでいる足先も、きっと意味があるに違いなかった。だからわたしを呼んだことにも意味があり、それはとても幸福なことのように思えた。
「用?」
「うん。コーヒーでも淹れる? それとも軽く何か食べる?」
「……………いい」
どうやらおなかが減ったということではないらしい。それじゃ、視線が相当邪魔だったのだろうか。彼の作業を妨害するほど粘着質なものだったのかと疑って、肩をすくめた。
「邪魔かな。ケロロの部屋に行ってようか」
「…………なんだよ、それ」
「え」
先ほどの声が、もっと不機嫌になる。まったく予想もつかないことだった。彼が快適に仕事をするために必要だと思ったから、そう口にしただけなのに。
出口に向かおうとした足を止めて、身体ごと彼に向ける。クルルは椅子を反転させて、分厚い眼鏡を少し傾けていた。
「なんだよそれっつったんだ」
「いや…………それは聞こえたけれど」
「じゃあ、答えろよ」
詰問されたが、どうにも答えることが出来なかった。答えろよと言われた質問の意図がどこにあるのかわからなかったからだ。クルルの邪魔になるのだったらケロロの部屋に行くと言っただけだし、それだって彼が邪魔ではないと言ってくれたら喜んでここにいるつもりだった。そのことについて「それはなんだ」と言われていることに、間違いがなければ。
「だって、クルルお仕事してるから」
「オレがパソコンいじってねぇのなんて、寝てるときか食ってるときくらいだぜぇ」
「いや、でも気が散るかなって思って」
今日は「いや」が多い日だな。
一方的な言い合いだが喧嘩の部類に入るのだろうかと考えながら、は叱られた子どものような声を出す自分に呆れた。自分の方が正しいことを言っていると感じるときでも、クルルの反論を聞いた途端にそちらの方が正しいと思ってしまうのは何故なのだろう。彼の言うことに間違いはない、なんて馬鹿げた妄想をしてしまう。クルルの声はの常識を、隅から隅まで変えていくようだった。まるでオセロの裏表をかえるような、些細だけれど劇的な変化を伴いながら。
クルルはいつのまにか肘をついて、右手で頬を支えている。いくらか傾いていた視線が、はっきりとこちらに注がれていた。
「オレが聞きてぇのはそこじゃねぇ。オレの邪魔になるからって、お前が出て行く必要がどこにあるって言ってんだ」
「邪魔になったら困るでしょう?」
「あぁ、そうだな。そうかもしれねぇ。だがなぁ」
空いた左手の人差し指で肘掛をこつこつと叩きながら、クルルはにとっては理解できない質問ばかりする。
「そこにお前の意思は存在しねぇのか。ここにいるのはなぜだ。オレが用を言いつけやすいようにか? 助手だったら、モアで手は足りてるんだよ」
あんまりにも砕けた口調で、にとっては死刑宣告より残酷な響きを持つ言葉が次々に出てくる。クルルに用を言いつけられるのが好きだった。頼まれたことはきちんとするように心がけたし、クルルに必要とされていると感じられる瞬間が心地良かった。彼は少しでも自分を役立ててくれているのだと思っていた。
動揺して返事が出来ず、恐ろしくなって足元を見る。散らばった銀色のパーツ、うねるコードの束、黄色く変色したタグ。けれど、この部屋のどれもこれもがクルルの味方をして、をちっとも落ち着かせてくれない。
クルルが一際高く、肘かけをつめで弾いた。こちらを見ろと言われているのだと理解する。恐かったし、それは強制されたことではなかったのだけれど、やっぱりにはそれが当然のことのように思えてしまったので、怯えたままの視線を彼に向けた。クルルは不機嫌ではあったけれどどこか嘆いているような、諦めているのではなく間違いを正しているような微妙な面持ちでを見ている。怯えている彼女を見る瞳は優しくないが、怒りをぶつけたいわけでもないらしい。
「お前はお前の意思で、ここにいるんじゃねぇのかよ」
ここにいるようにと、クルルが強制したことはない。ただ黙ってはそこにいて、時折食事をしたりコーヒーを飲んだりしながら過ごした。隊長の部屋に行くこともクルルのラボを訪れる回数と同じくらいにあるのだが、それは問題ではなかった。肝心なのは、彼女がここに自分の意思で訪れているのではなく、なんらかの義務的な操作によって――つまりひとりだと可哀想とか、実験が面白そうとか、クルルにとっては面白くないすべての理由のどれかのために――がラボを『訪れなければいけない』と勘違いしてしまっているのかどうかということだった。習慣の一部となっているなんて真っ平御免だったし、そうなるほど自分はを受け止め切れていない。事実、から送られる視線のいちいちにクルルは反応してしまう。
はわけがわからない、という顔をして首をかしげた。
「ちょっと待って」
片手でこめかみを押さえ、もう片方の手でクルルの言葉を制する。彼は何を言っているのだろうか。わけがわからない。わたしの意思なんて、そんなものは決まっているじゃないか。彼はわたしのことを八方美人の善人だとでも思っているのだろうか。わたしほど自分のしたいことを実行する女はいない。もちろんクルルの助けになりたいとは考えているが、まるでそれを仕事にしているのかと詰め寄ってくるクルルの言葉は無論間違っていた。
ふとクルルの足先と指先を見る。緊張してそろったつま先と、ひじ掛けにぶつけられる柔らかそうな指先が、なんとも愛おしい。
「クルルが求める答えかどうかはわからないけれど」
彼のパーツを見るだけで、それが動いて彼たらしめているのだと理解すると、心臓のもっと深いところが安心する。同時に、骨まで染み入るような愛しく優しい気持ちになれるのだ。だから、はそれを言葉にする。
「わたしがラボに来る理由は、もちろんクルル以外にはありえない」
続けて、少しばかり表情を緩めて、
「たぶん、この先もずっと」
と、付け足した。クルルは指をならすことこそ止めたけれど、不機嫌をすっきり解消したとまではいかなかったようだ。彼女の言葉は頭のいい彼にとって幾通りもの解釈が出来たし、もっと感情的で女性らしい――好きだからとか、愛しているとかいう――理由が欲しかったのだが、彼女はクルルの怒りがどこに向いているのかまったくわかっていないようだ。甲斐甲斐しく世話を焼くのは結構だが、そんなものはもっとあとのことだろうとクルルは思う。
「55点」
「え?」
「答えの点数。それが妥当なとこだぜぇ」
それ以上の詮索は諦めた。椅子を回して先ほどまで取り掛かっていた仕事に戻る。背後で困惑している気配がしたが、それにかまってやるほどクルルの心は広くない。
もはや意地になって作業を続けるクルルの隣に、戸惑いながらもは立つ。
「ね、クルル」
もう怯えてはいない声音だったので視線をあげれば、はいつものように彼に従順な瞳に戻っていた。
「邪魔じゃなければ、もっとクルルを見ていてもいい?」
背もたれに指をかけて、そのまま体重をあずけながらが問う。その甘ったるいのだけれど満たされないの希望を、クルルは不承不承といったかんじに承諾した。
は見当違いに嬉しそうな顔をしてお礼を言い、クルルの足先から頭のてっぺんまでを食い入るように見つめた。たっぷりと鑑賞したあとで、は唇だけ微笑みながらひとりごとのように呟く。
「クルルは本当に、全部が綺麗」
唇の先で溶けて行く言葉にクルルは身震いをして、もうすでに自分がなぜ怒っていたかなど忘れて頭を抱える。
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