「また?」


午前三時、子どもならばちょうどおやつの時間だと騒ぎ出す時間には夏美の部屋を訪れていた。彼女はの話を聞くなりさっきの台詞を言って、わざわざ階下から持って来てくれたティーポットから紅茶をついだ。カップを受け取りながら、は頷く。夏美の声にはあきらかに呆れた雰囲気が含まれていたのだけれど、さも気付いていませんとでもいうような顔をして。


「もう何度目?」
「さぁ。数えてないからわからない」


すっとぼけた顔をして、は紅茶をすする。美味しいと述べると夏美は肩を竦めて「ありがとう」と返事をした。あまり感謝は伝わっていないようだ。


。ここは避難場所じゃないのよ?」
「え? 違ったの」


今度は大げさに驚いてみせる。夏美はわかりやすく微笑みながら、怒るふりをする。眉がつりあがったので、わたしは謝るように体を小さくした。「冗談だって」自分でも空々しく聞こえる声だった。


「それで、今度は何が理由?」
「理由って?」
「…………喧嘩の理由」


とぼけるのもいい加減にしてと言わんばかりに、夏美がテーブルに手をおく。これ以上怒らせてしまっては日向家の今夜の夕食に響くことになりそうだった。だから、わたしは観念することにした。冬樹君やケロロには迷惑をかけられない。
喧嘩の理由。クルルと喧嘩をしたのはつい先ほどのことだった。あまりにも単純で、笑ってしまうほど些細なことが原因だった気がする。何でもかんでも難癖をつけたがるクルルと話していれば、どんな会話からでも喧嘩の理由など山のように溢れてきてしまう。
だから、とは考える。例え頭にきてラボを飛び出して夏美の部屋に突発的にきてしまったとしても、それはやっぱり瑣末なことが原因だったのであるから、どうにも彼女には説明しづらく、また説明したところで理解してもらえるとは思えなかった。
ため息をつき、はやっぱりとぼけるしかなくなる。それか、他の話題を切り出すしか。


「ねぇ、夏美はどうして睦実さんが好きなの?」


カップを持ちながら、夏美に聞いた。白い陶器の縁取りの向こう側で、夏美が真っ赤になるのがわかった。わかりやすく可愛らしい。は微笑む。


「ななな、なによいきなり!」
「聞いてみたかったの。言いたくない?」
「い、言いたくないわけではないけどっ」


このような質問は大抵、言いたくないわけではない。恥ずかしいからという理由がつくから、言えなくなるだけだ。わかっているから、意地悪な質問の仕方をした。
夏美は目を逸らして、やはり真っ赤になったままで、魚の出す泡みたいに小さくてすぐ消えてしまう声を出す。


「優しいところ、とか」
「やさしい?」


鸚鵡返しに自分が聞き返したのは、けれど夏美をいじめるためではなかった。思ってもみなかったことを言われたから、驚いてしまった。夏美はぽかんとしているわたしの顔を眺めた。あちらもわたしが不思議な生物に見えるらしい。


「何か可笑しい?」
「え? …………ううん。違う。たぶん、わたしのほうが可笑しいんだと思う」


そういえば、と考えた。そういえばクルルにも随分昔に言われた。「お前の思ってることは大抵のやつの『普通』じゃねぇから勘違いすんな」ひどくぶっきらぼうな忠告だった。夏美に言ったらひどいと憤慨してくれたけれど、わたしにはそれがひどいことだとは思えなかった。
だから、わたしが考えることを誰かに伝えるときには、とても大変な苦労をしなければならない。


「あのね、夏美。わたしは優しいことがいいことだとは思わないの」
「…………どうして?」
「あ、でも違うのよ。睦実さんが優しくないって言ってるわけじゃないの。ただ、わたしは優しい人を好きになるのがイヤなんだと思う」


言ってみて、なるほど自分にはしっくりと馴染んだ。優しい人を好きになりたくない。嫌悪しているわけではなく、自分の特別を優しい誰かに差し出したくないだけだ。
夏美は首をかしげた。わたしはもう頭の中で答えなど出てしまっていたので、思わず嬉しくなって微笑んだ。クルルを思い出す。優しいところなどひとつもない、愛しい人。


「優しいって、百人を愛するって書くでしょう? わたしはそんなの嫌なの」


我ながら滅茶苦茶な理屈だったけれど、確かに文字の由来として意味があるものだし、そんなものは信じたもの勝ちのような気がした。


「わたしはわたしだけを愛してくれる人がいい。だから、優しい人ではダメなんだと思う」


優しい人が浮気をするとは断定できないし、そんなことを思うのは失礼だともわかっていた。だから「これはわたしの価値観だから」と夏美に付け加えることを忘れなかった。クルルも大事だけれど友人も大事だ。だから、こんなことで失ったり嫌われたくなかった。
夏美は笑って肩を竦めた。けれどそれが愛情に溢れたものだと、長年付き合ってきたのでにはわかる。


「でも、クルルだって優しいと思うんだけど」


カップの紅茶を飲み干して、目の前で幸せそうに笑うに夏美は言う。が驚いて目を見開き、それから首をかしげた。夏美は意地悪そうに目を細めて、たっぷり間をもたせて答える。


「あたしたちにじゃなく、限定でね。優しいっていうより、甘いのかもしれないけど」


はきょとんとしてから、幸せそうに笑った。「ありがとう」と声に出して言う。
夏美は自分の分の紅茶に口をつけながら、思案していた。先ほどから扉の向こう側で陰険な気配がしているのだが、それを彼女に教えるべきか否か。加えて言うのなら夏美の発言によってその気配が不機嫌さを増したのだけれど、その対処はいったい誰がするのか。
カップの紅茶を飲み干して、夏美は何もしないことにした。原因など些細なことなのだ、と半ば諦めながら。













































(08.02.22)