このラボに来ると、わたしは途端に色々なことがわからなくなってしまう。

声には出さず、はそう思った。彼に喧嘩を売りたいわけでは決してないし、これは喧嘩を起こす類のものではない。それどころか二人で考えたところで答えなど出ない代物だったから、わたしはいつもこの言葉を喉もとでつっかえさせてしまう。苦しくて、もどかしくて、吐き出したいようなこの思いを。


「こんにちは、クルル」
「オゥ」
「……………昨日は眠ったの?」
「あ?……あー……二時間くらい、寝たかぁ?」


薄暗い部屋の中で、不思議に明るい画面に向かう彼はとても奇妙な生物のように見える。
わたしは彼の横顔を見ながら、本当は眠ったかどうかなんてコトはどうでもいいのに、と苦々しく思った。彼が眠ったところで、もしくは眠らなかったところで、わたしには何の関係もないはずなのだ。そしてこの類の会話には終わりがない。終わりがないというのはとても厄介で、その果てしなさと意味のなさにぞっとする。悲しさを伴って、こちらを圧迫する寂しさまとって、わたしを苦しめる材料にしかならない。


「寝ないのは体に悪いよ」
「そんなのは悪くなってから考えるぜぇ」
「…………それじゃ、遅いでしょ」


かれこれ二週間の内、この会話は通算何度目になるのだろう。クルルと会って、果てしなく意味のない不毛な会話が増えた気がする。望んでいやしないのにこれらは考える間もなく口からするりと出てきてしまう。ダメだと思ったときには、クルルの耳に届いてしまう。
そうなってしまえば、わたしはこのラボに訪れた理由も意味も、どうしてここに自分が存在するのかもわからなくなってしまうのだ。確かに理由があって、だからここにわたしがいて、理由がなければここにいるはずなんてないのに。
先ほどまで確かにあった日常が思い出せない。天気はどうだっただろう。晴れていただろうか、雨が降っていただろうか。ケロロは今日もガンプラを作っていて、タママはお菓子を食べていて、ギロロは使わない銃を磨いて、ドロロは優しく笑っている。そんな日常が、このラボを出ればちゃんとあるのだろうか。本当に、そちらに戻れるのだろうか。



「なに」
「………見てみなぁ」


画面がジジ…と揺れて、そこにはどんよりと曇った空が映った。それからしとしとと、細かな雨が降り出した。テレビと同じように自分とは関係のなさそうな外の出来事に、はぼうとそれを見上げた。


「雨、だねぇ」
「んなこと見ればわかるだろ。つーかそれより、お前カサ持ってきてねぇんじゃねぇの?」


クルルは馬鹿にした口調でそう言って、まだぶつぶつ文句を言っている。わたしは息が出来なくなって彼を見た。横顔に映し出される奇妙な違和感に、終わりのない文句ばかりが口を出て行きそうになる。
わたしが忘れてしまった日常を、どうしてあなたが知っているの。
ここにいると忘れてしまうすべてのことを、あなたが持っているのはずるい。身を守るすべての武器を没収されてしまった無抵抗なわたしは、ただクルルの言葉に従うだけなのだ。


「クルル、どうしよう」
「はぁ? カサなら日向夏美にでも借りろよ」
「違う。どうしよう。そうじゃない………わかんないの」


このラボに来ると、わたしは本当に沢山のことを忘れてしまう。
クルルに抽象的な問いかけをしても、一笑に付されてしまうことなど目に見えているのに、どうしてこんなことを言ってしまっているのだろう。鼻にもかけてもらえないと理解しているのに、どうしてすがってしまっているのだろう。
クルルがわたしをちらりと横目で見た。感情の籠もらない目だと思った。それとも、わたしは彼が感情を持ち合わせない冷酷な生物だと思いたかったのだろうか。
ため息が聞こえて、わたしは大げさにびくりと震えた。自分のものではない呆れた様子のため息は、ひどくわたしを苦しめる。


「チッ……………………仕方ねぇな」


暗い表情のわたしをよそに、クルルは猛烈な勢いで指を動かしだした。コンソールが色とりどりに瞬いて、わたしは怯えたままで彼を見る。
数分の後に、訪れたのは静寂と眩しい光だった。


「ほら」


クルルの声はぶっきらぼうで、それなのにとても優しかった。冷酷な生物などではなく、血が通い感情のある人間のような声だった。


「晴れた、ぜぇ」


その小さな指をもってして、彼は天気さえも操ってしまう。
再び現れた画面の中では、雲間から太陽がのぞいていた。無理やり起こされた太陽が、怒るように熱を放っている。わたしは画面から目を逸らすことなどできなかった。その太陽から、外の世界と繋がった画面から、目を離してはいけないと思った。
もし離したら、わたしは途端に泣き出してしまう。


「ねぇ、クルル」
「………まぁだ注文があんのかよ」
「ううん、ちがう。あのね」


照らし出される家々と、それらをびっくりした面持ちで向かえる人々。そしてわたしは怯える心を抱えながら彼に言う。決して彼のほうなど見ずに。


「どうしよう。わたしね、あなたが好きになってしまった」


心と体と天気までも狂いだしてわけがわからなくなってしまった世界で、わたしの告白はじんわりとラボを侵食していく。声を出せずにいるのはクルルかもしれなかったし、わたしかもしれなかった。
わたしはただただ画面を見続ける。クルルは言葉を発しなかった。こちらを向いているのか、それとも一瞥さえもくれないのかはわからない。わかるのが、怖い。


「おい、
「………………なぁ、に」
「とりあえず………………泣き止めよ」


いつのまにか泣いていたことに気づいたわたしは、慌てて顔を拭った。拭った拍子に彼と目が合う。ぐるぐるの眼鏡の奥、計り知れない不毛な会話を繰り広げた相手は、やっぱり理解できない無常な声でわたしを貫いていく。


「まったく………………手間のかかる女だぜぇ」


褒めているかいないかなんて関係なく、わたしはその声と一緒にまた泣き出した。


「あー? おまえなぁ」
「ご、ごめっ」
「謝れなんて言ってねぇよ。むしろ謝るなら泣くな」


ちっとも優しくない声なのに、わたしは彼がなにかを自分に向けてくれていることが嬉しくて目元を押さえながら一度頷いた。
クルルは泣きじゃくるわたしを覗き込むように傍まで来る。


「…………おかしいよなぁ」
「?」
「だから………天気くらいならいくらでも変えてやれるっつーのに、お前が泣くとオレはどうしようもねぇなんて、おかしくねぇ?」


同意してもいいのかわからなくて、困ったように首を傾げた。クルルはぐるぐるの眼鏡の奥で、その細い喉の奥で、体全体を使って笑う。くつくつと。


「んでよぉ、感想は?」
「…………感想? …………なんの?」
「両思いの感想」


涙がぴたりと止んだ。もうそれは驚くほどの正確さで泣き止んでしまったわたしは、たぶんそれ以外の機能が彼の一言で停止してしまったんだろうと思う。


「りょうおもい?」
「そう。ちなみにオレとお前が。……………偏りがあるのは否めねぇけどな。告白しながら泣くって、オレが無理やり言わせてるみてぇじゃねぇか」
「いや、だっていっぱいで」
「いっぱい?」
「……………よくわからないけれど、ただなんだか胸にいっぱい詰まってるものがそうだって気づいたら泣きたくなっちゃったの。クルルを、その」
「好き、だってことに気づいて?」
「…………………」


クルルはやけに饒舌だった。相変わらず笑っていたし、そのにやにやは次第に大きくなっていった。彼はすこぶる機嫌がいい。


「いーんじゃねぇの。いっぱいでいろよ。んで、オレ以外のことなんて考えなくていい」


口の端はあがっていて、彼が笑っていてくれているのが嬉しくて、こうして笑い合えている事実がどうしても現実だと思えなかった。数分前まで、彼のすべてを無くしても仕方がないと思っていたくらいだったのに。


「オレがお前でいっぱいだった分、余計にオレを好きでいろよ。じゃねぇと、不公平だ」


ぼんやりと溶けていくような声に、わたしは止まっていた時間を動かして、彼をありったけの力で抱きしめた。ぎゅうともきゅうともつかない声が耳のわきで聞こえたけれど、彼は離せとは言わなかった。
その代わり弱々しく首に巻きついてくる小さな冷たい指先が、わたしを支える世界のすべてになっていく。おずおずと、その指がわたしを壊さないように優しく力を込めるものだから、わたしは雨が降っていようが晴れていようがこの世界以外は欲しくないなんて排他的な願いを胸にのぼらせて笑った。






















































(08.05.09)







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