わたしはあなたを現実にしたくない。 は割りとはっきりとした声で言い、言った後でひどく後悔しているような顔をした。俺は眉すら動かさず、それでいて内心はどこから手をつけたらいいかわからないほど混乱しながら彼女を見ていた。心臓が、喚き散らすように五月蝿く鳴っている。二人だけの部屋は静かで、だから自分が起きていることもこれが現実だということもよくわかっていたはずなのに、笑ってしまうほど滑稽なのだが俺はそれ自体が「夢」だと思った。 巧妙な夢が現実との隔たりをあいまいにしているのだと、俺はすばやく思い込もうとしたのだ。 「クルル、聞いて。わたし、あなたが嫌いになったわけじゃないのよ」 は切実に訴える。懇願しているようにさえ見えた。しかし、俺はどうにも自分のことに精一杯で声がでない。声が出たなら叫ぶことも詰ることもできるはずなのに。(もちろん哀願だって) 「けど、わたしと一緒にいるあなたはひどく窮屈そうなの。自分で気づいていないかもしれないけれど」 は言い、俺はそんなこと当に知っている、と思った。のそばにいると不都合で絶対的な圧迫感と感情が押し寄せて、「俺」は居場所を失うのだ。今まで作り上げてきた居心地のよい場所が跡形もなくなり、残るのは優しく生ぬるく包み込もうとする別の何かだった。その「何か」の正体を、俺ももすでに知っていた。すでに知っていたからこそこうして一緒にいたのだ。 それなのに、一体どうしたら彼女の考えにたどり着くのだろう。 「驚いている?」 泣きそうになりながら笑ったを、それでも俺は綺麗だと思った。綺麗で儚く、従順で一途なくせに愚かな女。 俺は相変わらず五月蝿い心臓に耳をすます。これが俺の答えだと、わかっているつもりだ。体は感情に素直だから、意識して心に反すると警告音を鳴らしてとめようとする。それがあとから心を病み、ひいては体さえも蝕むものだと知っているから。 「驚いちゃいねぇさ」 「ほんとう?」 「あぁ。…………それで? お前はどうしたいんだ」 俺は尋ねながら、すでに心の一部が腐ったような気になった。 は痛々しいほど健気に笑いながら、肩を落としている。柔らかな体の曲線が、それだけで悲しいのだと物語っている。俺はそれが少しだけ嬉しいと思った。彼女は俺にはっきりと決別を言い渡そうとしているのに、今でもこんなにも愛してくれているのだ。 ではなぜ別れなければいけないのか。は言葉を捜しながら、視線をさまよわせている。 「…………オレが決めてやろうか」 静かに告げた言葉は、けれどが最初に「現実にしたくない」と言ったときにはすでに用意してあったように思う。頭は混乱しているし、指だって組んでいなければ震えだしてしまいそうなほど情けない有様だ。これらはつまり、まだオレがに持っている感情のせいであるとしか言いようがない。 オレは笑う。今までの居心地のよかったものすべてを放り出しても、こんな小娘ひとりを手に入れたいなんて馬鹿げている、と。 「オレの現実にゃ、お前が必要不可欠なんだ。………勝手にいなくなるな」 だがその馬鹿げた真実がこの上もなく自分を幸福にしてくれるということも確かだったので、オレはオレが後悔する前に告げた。は泣きそうな顔を、そのままくしゃりと歪ませて泣き出した。あんまりにも自然に涙を流すものだから、オレは見入る。 「クルルはずるい」 「………」 「したいことしかしないのに、どうしてわたしを留めておこうと思うの。そっちのほうが何倍も、あなたは都合が悪いのに」 しゃくりあげながら、は言う。その涙の一滴までもが、オレを愛してくれているとわかった。オレを閉じ込める柔らかで温かな、窮屈すぎる檻がいつのまにか戻ってきていた。 オレは徐々に安堵して、その檻を受け入れる。窮屈すぎるこの檻がちょうどいいなんて、まったく可笑しな話だ。 オレはに手を伸ばす。掴んでくれると信じきっている、堂々とした腕の動きで。 「諦めろ。オレはしたいことしかしねぇんだ」 例え、それで何らかの現実をなくしてしまったとしてもオレは動揺などしないと笑った。あのままが強引に別れを告げていればどうしたって、オレは動揺のままに何をしでかしていたかわからないのだから。 |
ただ想うだけはこんなにも難しい
(09.02.17)