ことの発端は些細なことだったように思う。肩がぶつかったとか言い方が勘に触ったとか、コーヒーが好みよりいささか薄かったなんて理由で――けれどどれもこれも、常日頃から一緒にいる二人だからこそよく知っていなければいけないことであったので余計に――二人は喧嘩をした。クルルとは双方にらみ合い、口論とは呼べないちょっと罵りあいをしたあとで同時に部屋を出る。その場に偶然ではなく居合わせた――なにせこの部屋は自身の部屋だったのだ――ケロロは、ようやく去った嵐に額に浮かんだ汗を拭う。始まりなど忘れてしまった喧嘩は、クルルたちだからこそ周囲に多大な被害を与えかねない。特に、はクルルの性格を熟知している。我が強いクルルを立てて、辛抱強く一緒にいたのだ。そのが一旦引かなかった場合、事態は長引いてしまうに違いないとケロロは予想をたてる。どうあってもクルルから折れるということはしないだろうと思われたからだ。 そして予想は見事に的中した。件の喧嘩から一週間、が日向家を――もっと言えばクルル自身を――尋ねた形跡はなかった。時折ふらりと現れるクルルは目に見えて苛立っており、こちらから声をかけることさえ躊躇われる始末だ。無心にコンソールを叩く姿が痛々しい。 思えば、クルルがとこんなに離れるのは珍しいことじゃないだろうか。 「ね、ね。モア殿!」 部屋の隅に移動し、地殻変動のあれこれを記した本を読んでいたモアに小声で話しかける。彼女はクルルが大掛かりな装置を作るとき以外は、こうやってケロロの傍にいた。 「なんですか? おじ様」 「あのさ、とクルルってこんなに離れてたことあるっけ?」 「え? えーっと、………一週間ほどですよね?」 あると思いますよー。四六時中一緒にいるような気がしていたから問えば、あっさりと否定された。モアは菩薩のような笑顔をたたえて、読書を邪魔されたというのにちっとも嫌な顔をしない。相変わらず叩きつけるような指の動きは背後で止まらないので、クルルはこちらの話など聞いていないのだろう。 「そ、そうでありますか?」 「はい。さんは用事があればいらっしゃいませんし、そんなにしょっちゅうクルルさんと一緒にいるわけではないと思います」 「えーーー? でも我輩が見たときはいつもいるのでありますけど」 文句をいうような口調になる。最初は小声であったというのに、もうどこにも気遣いは見られなかった。モアが困ったような笑顔を向けたあと、「あぁ、それは」と言いかけた。しかし、突然クルルが立ち上がったせいで彼女の言葉は遮られる。 「おい、隊長」 「ひぃ! ななんなんでありますか?」 「アンゴル族の娘、借りるゼェ」 データの管理と整理だ。言い置いてクルルはさっさと亜空間へと続く冷蔵庫に入っていってしまう。モアは返事をしながら、ケロロに謝った。ごめんなさい、おじ様。二人が消えたあと、取り残されたケロロは未だに五月蝿い心臓をなだめる。クルルの声があんまりにも低くて驚いた。加えて、不機嫌さを隠さないものだから八つ当たりでもされた気分だ。 付いていったモアが不憫でならない。はいつごろ戻るのだろう。 だが、は二週間たっても訪れなかった。一日一日、確実にクルルの不機嫌は増していく。ケロロの部屋にも現れる回数がめっきり減り、その代わり湿った嫌な雰囲気だけが地下から漏れ出してくるような気がした。日向家の壁にきのこが生え出したらクルルのせいだ。夏美や冬樹も異変に気づいたらしく、重苦しい雰囲気に首を傾げていた。まったく、誤魔化すほうの身にもなってもらいたい。 モアはあれから細々とした用を言いつけられているらしく、時折姿を見かけてもすぐにどこかへと行ってしまう。ひどく忙しそうな彼女に、同情を禁じえない。 とうとう三週間目に突入したとき、もうすでに基地内は言いようのないどんよりとした陰鬱な空気に支配され、なおかつぴりぴりと圧迫感に覆われる異様な空間になってしまっていた。廊下を歩くだけで二倍三倍の体力が必要だし、気を強く持っていないとこの空気に感染して暗くなってしまう。現にドロロのトラウマスイッチは三割り増しで入りやすくなっているようだった。今朝、早々にスイッチが入ってしまったドロロを小雪が迎えにきたほどだ。 これは隊長から何か言うべきだろうか。ケロロは廊下を移動しながら考える。いや、けれど他人の色恋沙汰に首を突っ込んで何になるだろう。しかも相手はクルルだ。言いくるめられて終わり、もしくは完璧なまでに言葉攻めをされてしまうに違いない。クルルズラボからの無傷の生還などありえない、とまで考えたとき、目の前にクルルの背中があった。 どうやら立っているだけらしい彼は、ケロロが声をかけようかどうか悩んでいる間におもむろに壁を叩いた。訓練など受けていない彼のこぶしは見る間に真っ赤になる。乱暴に壁を叩いたクルルは暴言を吐くでもなく、ふらふらとした足取りで歩き出した。ケロロはあっけに取られ、声をかけなくてよかったと思う。きっとクルルはケロロがいるだなんて思わなかったのだろうし、もし声をかけたところでそのこぶしを受けていたのは自分かもしれないのだ。ほっと胸をなでおろしたあと、ケロロはふと気づく。そういえば、クルルが食事をとったのはいつだろう。あの足取りから見てもろくろく食べてなさそうだった。苛立ちの充電よりも体力が切れるほうが先かもしれない。 四週間、たってしまった。クルルはまったくラボから出てこなくなってしまっていた。モアも暇を出されたらしく、ケロロの部屋で心配そうにしていた。彼女の話だと、ケロロの思ったとおり食事はほとんど取らずに新型の侵略兵器だの数字の改ざんだのを行っているらしい。普段積極的にしないくせにどうしてこんなときばっかりやる気を出すのだろう。もしかして、に振られたからって地球侵略してしまう気だろうか。多分にありえる結末にさっと血の気が引いた。 「馬鹿馬鹿しい!」 「おわっ! ギロロ?!」 「たかだか女のことだろう! 俺が渇を入れてきてやる!」 業を煮やしたギロロが止める間もなく飛び出していった。彼の言い分ももっともで――ただし、夏美相手にあれだけ不甲斐ない伍長も大きなことは言えないはずなのだが――確かに一理あるとも言えるのだが、いかんせん言い合いでクルルに勝てるものなどいない。ものの五分で言い負かされて帰った伍長は、真っ白な廃人になっていたので部屋の隅に転がして置いた。何を言われたのかなんて想像すらしたくはないが、彼のプライドをズタズタにするには充分だったのだろう。 「………モア殿」 「はい。おじ様」 「殿、いつ帰ってくるんでありましょうなぁ」 遠い目をして問えば、モアは曖昧に首を傾げる。優しい彼女らしい反応だった。廃人になったギロロの呟きが、木霊して物悲しい。 とうとう一ヶ月が過ぎようかというときになってようやく、ケロロの元に一通のメールが届いた。それはからのもので、今の今まで音沙汰がなかったなんて嘘のように明るいものだった。いわく、『元気にしてる?』と。まるで親戚のお姉さんだ。 「……殿―!」 『うっわ、どうしたの。ケロロ』 逃してたまるかと急いで電話をかければ、意外と元気そうな彼女の声が笑った。こっちは限界までに高まった緊迫感のせいでご飯さえ喉を通らないというのに、どうしてそんなに明るいのだと恨みたくなる。 「ど、どこにいるのでありますか?!」 『へ?どこって………うーん』 「悩むほどのところ?!」 『いや、悩んでるわけじゃないんだけどね』 苦笑まじりには答える。必死な我輩がもっと問いただそうとすると、自分に影が差すのがわかった。ついで、圧迫感が襲う。後ろを振り返れば、クルルが立っていた。笑っているのだが怒り狂っているのだかわからないままのいつもの表情のくせに、押さえきれない苛立ちだけが漏れ出している。何も言えないでいると、クルルは右の人差し指でヘッドフォンを叩いて見せた。聞こえてる、とでも言うみたいに。 『ケロロー?』 「え、う、あ?」 『どうしたの、変な声』 「そそそんなことないでありますよ! そ、それよりどうしたは殿であります!」 心拍数が異常なまでに跳ね上がっている。クルルは座っているケロロを見下ろすように立っていた。あいにく部屋には一人きりだったので、誰もケロロを助けてなどくれない。 「どどどうして、最近来ないんでありますか?!」 『あーーー……実はクルルと喧嘩しちゃって』 「へ、へぇ!」 『だからちょっと距離を置こうと思ったんだけど、きっとクルルのことだから平気なんだろうね』 隣からの無言のブリザードが更に増した。この苛立ちをなんでもないだなんて言えるわけがない。夏美はさじを投げ、冬樹は恋愛ごとは無理だとばかりに放置を決め込んだほどの、深刻化した事態だ。この男はと離れてからというもの食事もろくろく取っていないし、事実幽鬼のように青白い顔をしていた。ここは我輩がなんとかしなければ、と頭をフル回転させようとしたがの声があっさりとそれを遮る。 『だからね、ケロロ。そこの偏屈に伝えて欲しいんだ。たまには行動で示せって。頭使わないのって意外と簡単なんだから』 それだけ言うと、はじゃあねと電話を切った。ぶつっと切れた通話から漏れるのは、高いトーンの拒絶音。 「クーックックックック!」 ついで、クルルの笑い声が聞こえた。ケロロはそのまま顔をあげて、びくりと震えた。笑っているのは声ばかりで、雰囲気は相変わらず苛立ちと皮肉が混じっていたからだ。けれど幾分か和らいだと感じるのは、彼がそれでも動き出したからだろう。 「行動で示せたぁ、よく言ったもんだぜぇ! 体にわからせてやらなきゃいけねぇようだなぁ」 ぎりぎりの台詞と共にクルルは床に空いた穴に吸い込まれた。一気に軽くなった部屋の空気にケロロは安堵する。一足先に梅雨があけた気分だ。今頃の元に向かう準備なり――そんなもの必要ないと思うが、きっとすぐには向かわないに決まっている――しているに違いないクルルを思った。結局、自分が関わらなければいけないなんて思いもしなかったが。 「どうしたんです? おじ様」 「モア殿」 脱力したまま呆けていると、モアがひょっこり顔を覗かせた。彼女も部屋の空気が変わったことに気づいただろうか。からの電話とクルルの反応を教えると、彼女はいつもと変わらず平和に微笑んで「よかったですね」と感想を述べた。 「本当でありますよ! 人騒がせな!」 「はい。でも、クルルさんもこれで落ち着かれるといいですね」 「落ち着くも何も……! こんなに依存してるのに、無自覚なんて性質が悪いであります!」 自分から何のアクションを起こさなかったことも無自覚ゆえだろうと思って言うと、仏の顔をしたモアはきょとんとして首を振った。いいえ。クルルさんは無自覚なんかじゃないですよ。 「へ?」 「だって、クルルさんは皆さんにあんなに自慢してらしたじゃないですか。さんがいるときは絶対に皆さんの前にいて、傍に置いて離さなかったように見えました。えーっと、牽制、ていうんでしょうか」 人差し指を唇に押し当てながらモアが言い、ケロロはやはりこの子も女の子なのだなぁと変なところを感心していた。クルルの助手という立場もさることながら、彼女の洞察力に舌を巻く。これでは、クルルも形無しだろう。 その後しばらくしては日向家に通い始め、クルルの苛立ちの被害を受けた面々にこれ以上クルルと喧嘩しないでくれなんてお願いをされていたけれど、一枚上手な彼女は曖昧に笑うばかりだった。女性と言うのは本当にタフで、エネルギッシュだ。 |
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どっちだろうね
(09.05.29)