旅立つときは昼がいい。そう思っていたから、わたしがハートの城を出て行く時間帯が昼で嬉しかった。この世界は昼と夕方と夜しかない。朝がなく、夜と昼のあいまいなものは夕方で一緒くたにされてしまっている。しかも不規則だから、どんなに夜を待っても夜にならないときがあるし、昼がずっと続くこともある。ソレはとても奇妙なことなのに、珍しいと驚くことが可笑しいと思われる世界。
ともかく、わたしはトランクを一つ抱えてハートの城を出る。この世界では着替えなど必要ないのだけれど、わたしは着替えるのが割りと好きなので人よりは衣装もちだ。ビバルディはそんなわたしに沢山の服をくれるので、遠慮なくもらっている。わたしが嬉しいと、彼女も嬉しいらしい。本当に、珍しい世界だ。


「本当に、大丈夫なの?」


この世界で唯一の、わたしの理解者であり驚き仲間であるアリスが尋ねてくれた。優しい子だ。わたしが決めたことに口を出さず、その根拠を問いただす。優しくて賢くて、石橋を叩いてわたる真面目な子。


「だぁいじょうぶ。とりあえず、権力者に認めてもらえたんだし」
「それはそうだけど……やっぱり、心配だわ」
「アリスは心配性なんだよ」


そう言って、トランクを持ちあげる。わたしはこれから旅人になるのだ。けれどその旅にはちゃんと目的地がある。帰る、という目的と、それまでを有意義に過ごす、という大儀。
どちらも目的だけれど、とてもずるいのはわたしがアリスよりも不真面目だからかもしれない。


「あっれー?もう、行っちゃうのか」
「エース」
「もう少し先だと思ってた。でもよかったよ。君が他に行く前に逢えて」


朗らかに―――アリスいわく胡散臭いほどの爽やかさを見せて―――エースは言う。彼の言うように、わたしが旅立つ前に会えたのは幸いだった。恐ろしく方向音痴の彼は、普通にしていたってなかなか会えない。


「あれ? もう行くんですか。アリスがいないからもしやと思っていましたが」


ひょっこりと現れたのは白兎だった。嘘みたいに白くて綺麗な髪をしている。その赤い目が、イチゴのようで血のようで、とても気に入っていた。アリスには言っていないけれど。
彼はアリス至上主義なので、こんなときでも彼女中心だった。同じ余所者だけれど、わたしはアリス以上にこの人に好かれはしない。そんなところも気にいっている。


「………まったく面倒なことが好きな子だね」


ビバルディが、白兎の後ろからそう言った。彼女はペーターと打ち合わせをしていた途中らしい。珍しく、彼女の手にはペンが握られている。


「お前が望むから許してやったが、お前以外なら首を刎ねているところだよ」
「うん、ありがとう。感謝してるよ」
「………他の滞在先のやつらに何かされたらすぐに帰っておいで。そのときは死ぬほどの後悔をそいつにさせてやろう」


ビバルディの言葉は一々本気で、だからわたしは微笑んで受け止める。この世界は余所者に優しい。だから、わたしが拒めば嫌なことはされないと知っている。もちろんそうならないための努力はするつもりだけれど。
この世界は狂っていて、心底わたしに優しい。だから必ずもとの世界に戻らなければならない。そうでなければ、狂うのはわたしの方だ。


「最初はどこにいくつもりなの?」
「んー………時計回りに、森にでも行こうかなって思ってるけど」
「森ぃ? あの、汚らしいネズミがいるところですか」


ペーターが身震いする。この潔癖症のウサギは、ネズミも嫌いだが他の生物もすべて嫌いという生きていく上で素晴らしく困難な性格をしている。


「じゃあ、ブラッドのところがいい?」
「あぁ、帽子屋さんがいいんじゃないかな。あそこの双子はいつも元気で見ていて飽きないし、ペーターさんじゃなくてもウサギがいるから不自由しないぜ!」
「いや、ウサギに不自由しても死なないけれどね」


エースの言い方だと、わたしはウサギがいなければ死んでしまう変な人だ。それにエリオットをウサギ扱いすると、本気で怒られかねない。彼はわたしとアリスが勝手に考えている「この世界で唯一まともに話ができると言えなくもない人物ランキング」に入っているので、そんなことで嫌われたくはない。ちなみに引っ越して早々に、トカゲの彼もきっと真面目だと二人で盛り上がったりもした。


「まぁいいや。気が向いた方に行くよ」
「気楽だなぁ。でも旅はすごくいいから、も俺の旅仲間になるくらい旅が好きになってくれるといいと思うぜ」
「わたしは目的地がちゃんとある旅が好きなのよ」


きっぱりと言い捨てる。アリスと目が合って、同時に肩を竦めて見せた。
エースが門まで送ってくれるといったけれど、わたしは断った。門までたどり着けなくなると困ったし、それに自分の足で踏み出したかった。自分の足で、その責任を一歩一歩踏みしめながら。
全員にお別れを言って城を出ると、とてつもない開放感がわたしを満たした。それと同時に足元がおぼつかなくなるくらいの淋しさも、とっぷりと心の内側に溜まっていく。
どこにも行けない、帰る場所なんてこの世界にはない。
アリスではないけれど、実に暗い思考に陥ってしまいそうになった。
自分で選んだ道なのだから、まったく後悔などない。だからこれは単なる感傷なのだ。自分に都合のいい世界で、自分に都合よく悲しみに浸っているだけの、実にどうしようもない自己満足。
わたしは渇いた気持ちになって、歩き出す。トランクの重さは心地よく、自分ごと持ち歩くにはこれが最適だと思った。手ぶらでゆくより、ずっと移動していると思えていい。
どこに行こうか。考えて、わたしはふらりと森を歩く。道しるべなどない、地形が安定していない世界はやたらと奇妙で珍しく、だから旅をするのには最適だった。






















世界の果てまで真っ直ぐ歩ける



(08.10.06)