怖いものや恐ろしいものというものは先に済ませていたほうがいいと思う。元来、わたしは面倒ごとをあとに回すたちであったので、そう思えたことは奇跡に近かった。幸せであった日々を壊されるのだったら、最初から壊される場所にあればいいのだ。そうすれば、諦めもつく。 だから、わたしの思考のままに帽子屋屋敷へついたとき、自分がどれだけブラッドを苦手にしているかがよくわかった。あの人は、エースとは違う恐怖を伴っている。 「おや、お嬢さん。うちに来てくれたのか」 嬉しいよ。そう言って微笑むブラッドはうそ臭い。 彼と対面していると、全身の産毛が変なふうに逆立つのを感じてしまう。緊張しているのだと思う。例えば校長先生や、警察官、そういった常日頃では交わることのない人たちと対峙しているような気にさせられる。圧倒的な強者との対峙は居心地が悪い。こんなワンダーランドでなければ絶対に会うことのどなかっただろうと、わたしは面白みもない感想を持つ。もしくは現実的な。 「?」 ぼうっと彼の顔を見ていたわたしは、自分の思考に飛んでいた意識を取り戻す。いっきに緊張が全身に行き渡り、ぴりっとした感覚がわたしを満たした。 「な、に。ブラッド」 「………ここまでの道のりはそんなに険しかったのか? なんだか呆けているぞ」 「違う。大丈夫だから………ちょっと、疲れただけ」 「そうか。それならいいが」 ふむ、と頭のよさそうな仕草がよく似合う人だった。シルクハットらしい帽子の上に乗った薔薇が、彼に負けているのだから顔立ちはすっきりと華やいでいる。 顔立ちがよすぎるせいなのかもしれない。この人と一緒にいると、他の人では見えない壁が見えてくる。薄く固く、一定の距離を保ってわたしを突き放す何かが見える。だからわたしはそれに触れないように、絶妙な距離をとるのだ。 「本当に、大丈夫だから………あと、厚かましいようだけれど仕事が欲しいの。ここにいる間くらいは何かさせて」 「………君は相変わらず、アリスのようなことを言うんだな」 「わたしはアリスほど真面目じゃないし、熱心でもない。……でも、そうね。それは褒め言葉だから受け取っておく」 ふふ、と笑うと、ブラッドも少しだけ表情を緩めた。 わたしにとって、アリスは唯一自分と比べられる誰かだった。同じ世界からやってきたもの同士、文化の違いはあるけれど女の子にさほど違いはない。顔なしと比べるのは難しいので、中身や外見を比べるのはもっぱらアリスとだった。 「好きな仕事をしたまえ。部屋も好きなものを選ぶといい。君を受け入れると言ったが、別に働いてほしかったわけではないからな」 「………わたし、働くくらいしかできないんだけれど」 「そうでもないさ。君はアリスより真面目じゃないし熱心でもないが、それ以外に役割を持っている」 くるり。杖を回すブラッドはとても優雅だ。優雅で華やかな、貴族らしく残酷な動作がひどく似合う人。 「役割?………この世界の、あなたみたいな?」 「役持ちのようなつまらん内容じゃないさ。君は自分が思う以上に、この世界に受け入れられているんだ」 不可思議に笑う彼を、もっと不思議そうにわたしは眺めた。何を言っているんだろうと、首を傾げる。 ブラッドは面白そうに笑って、笑ったままあの酷薄な瞳にわたしを映す。 「君がどう思おうと勝手だが、私は実にいい気分だよ。君が自分で足を向けてくれた先に、私がいたことがね」 彼の唇は薄く、綺麗な形をしている。その唇はわたしにとって嬉しい言葉をつむいでくれているはずなのに、なぜかとても怖いと思った。動物の本能に近い、感情。 わたしはどうすることも出来ずに、「よかった」と言った。彼の感謝に対する自分の感情が恐怖だったなんて、彼に教える必要はない。 |
良識を気取った大人の嘘
(08.10.06)