時間の感覚があやふやでバラバラなこの世界の、おそらくは昼と呼んでいい時間帯にわたしは森をふらついていた。現在の滞在先はここではなかったが、それでもこの森は遊園地がなくなったあとに出来た場所なので気にはなっていた。わたしもアリスもこの場所は苦手なのだが、嫌悪感を持つほどのものではない。それどころか、暇さえあれば来てしまうほど奇妙な愛着を持っていた。
ドアの森。この世界の役持ちはそう呼んでいた。わたしにもアリスにも、このドアは語りかけてくる。こちらにおいで、別の世界にいこう、違う人と会える、帰り道はこちらだよ。実に親切で的を得ない誘いだった。アリスはその言葉に動揺していたけれど、わたしには彼らの言っていることがまるで信じられなかった。別の世界を探したところでこの世界のように、わたしのことを手放しで許してくれる場所などない。


「どうしたの、
「…………ボリス」
「森に住みたくなった? それなら部屋を作ってやるぜ」


いったいいつからそこにいたのか、ボリスはひらりと木の上から飛び降りてきた。猫のように身軽だ。実際、彼は特別な猫なのだという。


「違うよ。散歩しにきただけなの」
「…………ふぅん。じゃ、今回の滞在先はまだ移動していないんだ?」


つまらなさそうにそっぽを向いた猫のしっぽが力なく垂れた。わたしは頷いて、「まだブラッドのところにいるの」と付け加えた。この世界の住人は話を聞かない人間が多いけれど、情報をちゃんと提供してさえいれば理解してくれないわけじゃない。
ボリスはまた気のない返事をした。ふぅん、そう。


「それで? 森にはいつ来るのさ」
「さぁ、わからない。時間間隔があいまいだから、断定なんてできないでしょ」
「それもそうか」


自分の言ったことがおかしかったのか、ボリスは照れたように笑った。こうやってみると、彼は森によく馴染んでいるように見えた。どこにでも行ってしまえるという彼は、けれどどこにでも行けるようになったわたしとは全然違う。わたしは認めてもらわなければ一人で生きて行けない。ボリスはそれを、生まれたころから自然にやってのけているのだ。


「わたしが森に来たって同じでしょう。ボリスは一人が淋しくないんだもの」
「…………まぁ、そうだけどさ」
「だったらわたしが来たところで、どうということもない。それにアリスだって遊びに来てるじゃない」


わたしとアリスは、どちらもこの猫が好きだった。友人として。
彼の言動は飄々としてるから聞いていて心地よかったし、アリスは猫を飼っていたので愛着を持ちやすいらしい。わたしは猫を特別好きなわけではなかったけれど、彼のなんとなく明るい声が好きだった。


「もちろんアリスも来てくれる。アンタがいなくなってつまらないって言ってたぜ」
「そうなの? わたしもアリスと一緒は楽しかった」
「…………、やっぱりまだ帰りたいって思ってるの」


ボリス特有の、まったく表情の読めない質問が降ってきた。彼はときどきまったく笑わずに、こういった質問を投げかけてくる。ピンクのファーが彼の両腕をすっぽりと覆っていて、ふかふかと気持ち良さそうだった。


「もちろん帰りたいし、帰ろうと思ってるよ」
「…………」
「すぐに帰らないのは、こんな貴重な体験は二度とないって思ってるから。もしあちらに戻って忘れてしまっても、きっとここでの思い出はわたしのどこかに刻まれるはずだもの」


わたしは一生懸命に、この世界にいる理由をボリスに告げた。わたしは元の世界に戻りたいと公言しているし、この世界が好きだからもう少し滞在したいことも伝えてあった。それは元の世界よりもこの世界を選んだというわけでは決してない。基準の歪んだこの世界が奇妙で難解で美しかったから、とても興味を引かれたのだ。


「…………アンタ、アリスみたいに悩まないんだな」


やがてぽつりとボリスは言った。
彼の言うとおりアリスは悩んでいる。生真面目で誠実な彼女は世界を捨てた自分を責めていた。元の生活を捨てたことに対して、優しい姉を裏切ったことに対して、そして全部の責任を捨てたくせに自分に甘い世界を選んでしまったことに対して、本気で苦悩していた。例えば喋るドアの呼びかけに、参ってしまうくらいには。


「悩まない。わたしは幸せに育ってきてアチラでの悩みなんてないようなものだったから、ここでの生活はどうしたって魅力的に聞こえないの」
「…………そんなにあっちがよかったんだ?」
「友達も家族もいたし、ちゃんと仕事があったもの。それだけで十分満足していたよ」


わたしは自分でも反則だと思う笑顔を見せた。こんな笑顔になられたら誰も追及などできなくなるような、顔になるように努力する。
ボリスはしばらくわたしを見つめたあとで、不意にため息をこぼした。こぼした後に乱暴に頭をかいて、それから唇とめじりを優しくする。


「やっぱ、は森にいなよ」
「え?」
「それで、俺の目の届く場所にいて。そうじゃなきゃ、アンタ絶対このドアを開けちまうだろ」


ボリスは周りにあるドアを指差した。わたしは肯定も否定も出来ずにあいまいに微笑む。
このドアはわたしの願いを全部聞きとってくれるから、ホームシックにかかれば簡単にわたしはこの世界を捨ててしまえるだろう。興味を持ったことを後で思い出して悔しい思いをするのだ。けれど、きっとそれだけの後悔で終わるに違いない。
ボリスはわたしの笑顔に先程より困った顔をした。


「俺、淋しくなんてないけど…………アンタがいなくなったら、初めてそう感じるような気がする」


猫のきまぐれな発言に、わたしは驚いて数秒だけ息が止まった。































ひたむきな薄い刃



(08.10.12)