現実の世界で、わたしはあまり仕事というものが好きではなった。いつかは仕事を持って自活していかなければいけないのだとぼんやり思っていたのだけれど、それをしているその他大勢いの――例えば電車に乗る大勢の背広を着た人々に――自分がなるものだともなれるものだとも思っていなかった。というか、さっぱり実感がなかった。
しかし、この世界に来てからというもの仕事を嫌悪している自分はいなくなってしまった。わたしをすべて許してくれる世界の中で息を吸うのには、仕事が必要だったためだ。許されているだけでは窒息してしまうのだ。アリスのように存在意義を求めて仕事をするほど好きではなかったけれど、わたしにとっても仕事は大切なものだった。


、少し休憩したらどうだ?」


書類の不備を確認しているところで、不意に声をかけられた。グレイだ。彼は現在厄介になっているクローバーの搭の役職についている人物で、結構えらいのだけれどその分苦労も耐えない。特に自分の上司が使えないから、彼が被害をこうむっている。ちなみにそのせいでわたしにも仕事がまわってくるのだから、そこは感謝しておくべきだろうか。


「大丈夫。これをやったらひと段落つくから」
「しかし………君はこの搭に来てからというもの、仕事ばかりしていないか?」
「………やることがあるっていいことだと思うけれど。それとも、仕事の邪魔?」


こんな言い方をすればグレイが困ることくらい知っていたのだけれど、わたしはそう言った。見た目よりも随分優しいグレイは、やはり困ってくれた。そうしてわたしの仕事机の斜め前にあったソファにどっかりと腰を下ろす。


「君くらいナイトメア様が勤勉だったらいいんだがな………」
「ないものねだりしたって駄目よ」
「……それもそうだ。君も言うな。ナイトメア様が聞いたら泣くぞ」
「褒め言葉として受け取っておく」


ここに来てからまだ数時間帯だというのに、グレイとわたしはよく喋った。どれもこれもナイトメアに関するものだけれど、言葉は打っては跳ね返るように心地いい。彼は忙しい身の上なので、こんなふうに部屋の中で話すことが多かった。
そういえば、とグレイが思い出したように笑った。わたしは彼の端正な眉がくつくつと笑うたびに可笑しく跳ねるのを眺める。


「どうしたの?」
「いや、君がこの搭にきたときを思い出した」
「あぁ…………………ディーとダムね」


わたしが滞在先を変えると言った時、ディーもダムも大変駄々をこねて困らせてくれた。結局6時間帯も粘った挙句に搭まで一緒に行くと言ってきかないから、着いてきてもらったのだ。ブラッディツインズと名高い帽子屋の門番を横に並べて歩くわたしは通行人から見れば大変な重要人物に映ったことだろう。人通りがどうだろうと関係なく持ち歩かれるあの斧のせいで、目立って仕方なかった。


「君をここに送り届けるためだけに来て、捨て台詞まで残していっただろう。あれは本当に驚いたよ」
「………そのことについては言葉もないよ」
「まぁ、そう気を落とすな。『貸してあげるだけだからね!絶対に変なことしちゃ駄目だからね』だなんて、それだけ君は好かれているという証拠じゃないか」


わたしはグレイの抑揚のない声で繰り返される双子のたわ言に、頭を抱えた。ディーもダムもグレイとナイトメアが現れたとたんにそうまくし立てたのだ。貸してあげるだけだから、変なことしたら承知しないからね。そのようなことを双子の可愛らしい声で、あまりにも汚い言葉も織り交ぜながら叫んでいた。わたしは当事者のくせにぽかんとして、せいせいとして手を振る双子を見送ることしかできなかった。部屋に案内されて仕事をもらった今でも、あれは自分とは関係のないことのように思える。


「俺はあまり話したことはないんだが………あの双子があそこまで何かを大切にするのは珍しいという話しだろう」
「……珍しいのはわたしの方よ。余所者だから、ちょっと興味があるだけ」


そう言って、書類のほうに視線を戻した。この世界がわたしに甘いのは結構なことだといつも思うが、これだけ堂々と大切だと豪語されると対処に困る。はがゆいわけでも恥ずかしいわけでもない、なんというか理不尽で圧倒的な矛盾に押しつぶされそうになるのだ。
それなのに都合よく「余所者」として振舞うわたしも、この世界と同様にずるい。


「けれど、俺も君と一緒にいるのは心地いいよ」


静かな部屋に落ちた、あまりにも不自然に浮いた言葉にわたしは考えることを一瞬やめてしまった。それから書類の同じ行を三度ほど読み返して、遅ればせながらそろそろとグレイに視線を移す。彼はいつのまにか点けたタバコをくわえて、ゆったりと微笑んでいた。


「えぇと、今、何か言った?」
「言った。君と一緒にいるのは心地いい。こんなふうに思うのは初めてだ」


明らかに文章を付け足しておいて、グレイは飄々と言ってのける。彼の目からすると本気なのだが、恋愛のそれとはおそらく違うようだった。もっと基本的な、今まで見つけられなかったものを発見したような、素直な感動。
わたしは恋愛云々は苦手だったので、彼の告白を友愛として受け取った。


「ありがとう。わたしもグレイと喋るのは楽しい」
「俺は口下手なんだが………」
「それでも、楽しい。さぁ、書類が出来たからナイトメアのところに行きましょう。きっとサボってるから見張ってないと」


わたしは一人で会話を締めて、立ち上がった。その手に持っていた書類がひょいと取られ、グレイの腕に収まる。ついでに持っていこうと思っていた書類もとられてしまう。彼はあまりにも自然に紳士に振舞うから、現実世界に紳士などいなかったわたしにとって少し居心地悪い思いをさせられた。けれど同時に、とても嬉しいのだから救えない。
グレイがドアを開けてくれる。そして多分ナイトメアの部屋に続くドアも、彼があけてくれるのだろう。手ぶらなわたしはありがとうと微笑んで、その扉をドキドキしながらくぐるのだ。

























うつくしい他人



(08.10.19)