「あぁ……………気持ち悪い」


言葉の魔力と言うのは大変なものがあるというのは本当のことらしい。わたしは延々と呪いのように呟かれる頼りない声に、こめかみを押さえた。先ほどからそればかり繰り返すナイトメアは、言葉の通りに顔色が悪い。けれど彼はいつもそんな感じなので、特段心配することもできない。それよりも気持ち悪いだの吐くだのとを聞きすぎて、わたしの方が気分が悪かった。


「あのね、ナイトメア。その仕事が終わったら休んでいいってグレイが言ったじゃない」
「……………うぅ。君もグレイもひどいぞ。こんな病人に仕事をさせようだなんて」
「あなたが健康だったときなんて、あった?」


わたしはナイトメアの執務机を挟んで向かい側に座り、肘を突きながら彼を見る。一応羽ペンを持って仕事をするふうではあるのだが、先ほどからのろのろと進む動作がひどく苛々させられる。


、ひどいぞ。せっかくここに来たって言うのに、仕事仕事と!だいたい、時計搭から弾かれたのだから、クローバーの搭にいるのがセオリーじゃないのか?」


はじかれた。一瞬、ナイトメアの言葉にぴくりと心が波立つ。津波の前兆のように、波がいっきに彼方にひかれていく。けれど、その津波はいつも起きることがない。どこかで溜まっていくのをしっかりと感じてはいるのだけれど。
ナイトメアはしまったという顔をして、だからわたしは微笑んでやる。


「わたしがハートの城に行ったことがそんなに不満?」


引越しとやらが終わってすぐ、わたしはこの搭で目を覚ました。そしてそこが時計搭ではないことと、ユリウスがいないこと、変わりにグレイとナイトメアがいて、あまつさえこの世界の引越しのスケールのでかさに圧倒され、彼らの説明らしくない説明に嫌気がさしているところで、アリスが駆け込んできたのだ。彼女はらしくないほど焦って、わたしを見つけてほっとした表情をした。まるで仲間を見つけたような、子供が親を見つけたような、そんな顔だった。アリスに促されるままわたしはハートの城にしばし滞在したのだが、ナイトメアはそのことが気に喰わなかったらしい。拗ねたような顔をして、実際に拗ねている困った大人に、わたしは付き合ってあげることにする。


「だ、だいたいなっ。君が悪いんだぞ。……君はグレイのように剣術を使うわけでもないのにはっきりと心を読むことができないから」
「そんなの読まないでよ。お話をすればそれでいいじゃない」
「よくない! だっては帰るための合図を教えてくれないだろう」


合図。アリスには小さなハートのモチーフの付いた小瓶がある。その中身がいっぱいになったとき、彼女は帰るためのチャンスを手に入れたのだという。


「えぇ。教えてあげない。だってそれはルール違反じゃない」
「る、ルール」
「そう。ルール違反。そんなこといいから仕事をしてよ。このままじゃグレイが可哀想だわ」


グレイは有能だけれど、それ以上に仕事を抱えすぎていた。この上司がハートの国に出張と言う名のサボりをしていたときにもグレイは働いていたのだろう。今ナイトメアが苦しいのは自分で招いた結果なのだ。同情する余地はない。
ナイトメアはまだ何かぶつぶつ言っていたけれど、わたしは少しだけ違うことを考えていた。


「私は偉いんだぞ。なのになのに、二人とも……」
「ねぇ、ナイトメア」
「ん? なんだ」


私は窓の外を見ながら、それでも意識はナイトメアに据えて唇を動かす。彼は他の誰よりもわたしの世界に近い場所にいる。それなのに手を貸してくれる気配はない。意地悪だと思うが、率先して帰りたいという姿勢をとらないわたしも意地が悪い。
許されている世界にいるのは居心地がよく、それなのに無性に帰らなければいけないと背中を押す何かを感じてしまう。帰らなければと心の底から思う。


「わたしの帰る合図を知って、ナイトメアはどうするの」


教えてくれと問う彼の真意はどこにあるのだろう。アリスはそんなこと聞かれたことはないのだという。それは彼がアリスのことをすっかり知っていたからなのだろうか。帰る手段も方法も、そして帰らせない方法まで。
ナイトメアはわたしの質問に、一瞬とても真面目な顔になった。


「壊すさ。壜だったら叩き割るし、それ以外の何かだったら粉々になるまで壊す。そうして君を、帰れなくする」
「…………………随分、乱暴なことをするのね」
「仕方ないだろう。俺は君にここに居て欲しいんだ。君はアリスのように自己嫌悪で暗くなったりしないし、明確に帰る意思を持っている。そんな君を引き止めておくには、少々乱暴なことをしなければいけない」


ひゅっと口角をあげて笑ったナイトメアは、彼の整った容姿に似合って綺麗だった。わたしは大切に思われているのかそうではないのか測りかねて、曖昧に微笑んだ。そして絶対にこの世界の住人には合図の話はしないでおこうと硬く心に誓った。
話を切り上げて、彼を仕事に戻らせる。相変わらずぐだぐだと言うし、羽ペンはとろとろと鈍い動きを続けている。ミミズのほうがマシな動きをするのではないか、とさえ思う。


「そういえば」
「ん?」
「グレイはどうしたの。資料を取りにいくって言って戻らないけれど」


きょろきょろとあたりを見渡して、仕事に集中しだしたナイトメアに話しかける。彼は書類に目を落としながら「あぁ」と言った。


「戻るなと言ったからな」
「え?」
「アイツばかり君と話してずるいだろう。だから、仕事をしてる間は何があっても入ってくるなと言ってある」


書類に目を落とすナイトメアの事も無げな声に、わたしは驚く。そして驚いたあとに大層呆れて、また深くグレイに同情した。彼の上司は子供っぽい上にひどく見栄っ張りだ。
つまり彼はわたしをグレイに渡すまいとして、こんなふうにミミズばりの動きをしているのだ。


「ナイトメア」
「なんだ、。……怒ってるのか?」
「違う。あのね、わたしもう疲れたからお茶にしたいの。だから早く仕事を切り上げて、お茶しに行こう。もちろん、二人で」


子供をあやすように柔らかく、かつ自分の声も子供っぽく聞こえるように声を出す。ナイトメアのとろとろと動いていた羽ペンが、一瞬ぴくりと震えた。


「二人で?」
「そう、二人で」
「グレイも一緒とかではなく?」
「グレイは仕事してればいいわ。あなたはその仕事を終わらすんだから、休むべきよ」


にっこりと微笑んで諭すと、ナイトメアは褒められた幼稚園児並みの笑顔を見せた。それからうんうんと大きく頷く。その姿を見ながら今頃ナイトメアの護衛のために外に張り付いているであろうグレイを思った。本当にかわいそうなグレイだ。見当違いの嫉妬をされた挙句、締め出しをくらい仕事もまともに終わらせてもらえないなんて。
目標が出来たナイトメアがばりばりと書類に向かう。羽ペンは本来の軽さを取り戻したようにすらすらと紙の上をすべらかに飛んでいる。わかりやすく素直な人だなとわたしは思った。それ以外のことは、彼が拗ねるので考えないことにする。





























壊さなければ






に入らないものもある






(08.10.19)