わたしが住居を移転するときの決まりごとは特にない。帽子屋屋敷を出たときも特段に出かける用事もなく、けれど少しだけ気分が優れない日が続いたのでなんとなく出た。双子にごねられたので数時間帯を潰してしまったけれど、だからといって決意を持って出たわけでもないのでそれほど支障もなく、ゆっくりと双子を説得して――つまりは、早く出れば帰ってくるのも早いのだということを納得してもらって―――クローバーの塔に移ってきたのだ。だからクローバーの塔を出る時だって特段の理由もルールもなく、けれど少しだけ塞ぐような気持ちになりながら出る準備をした。
他の人よりも衣装もちなわたしは、小さなスーツケースを持ち歩いている。この世界の役持ちと呼ばれる人たちはわたしが着替えるのを好きなことをよく理解してくれているので、ことあるごとに頂いたりするのだがほとんど持ち歩けないので、わたし専用のクローゼットを屋敷ごとにもらっていた。今回もクローバーの塔の主であるナイトメアは、町に下りるたびにわたしの買い物に付き合ってくれた。いわく、女性の着替えは男のロマンらしい。


「ありがとう、グレイ。ここまでで、見送りはいいから」


移動することを告げると、ナイトメアは明らかに不貞腐れたような顔をした。けれど物分りのいい上司を気取るようにしてグレイに送ってこいと命令を下したのだ。彼の子どもっぽい格好つけたがりのくせが初めて役にたったと思った。
グレイは紳士らしくスーツケースを持ってくれた。わたしは塔を出てしばらく歩いたところで、彼から荷物を受け取る。


「本当に大丈夫か? なんなら森まで送っていくぞ」
「大丈夫。小さな子どもじゃあないんだから」
「しかし…………あそこは色々と危険も多いだろう」


グレイが眉間に皺を寄せた。彼の言う危険というのは―――わたしにしてみれば彼ら自身がもっとも危険なのだけれど――――あの森のドアのことかもしれなかったし、女ひとりだということがそもそも問題だと言われているのかもしれなかった。しかし、わたしは一人で行く気だったしドアのことについてはアリスよりも平常心を保てていたので、グレイの心配は必要なかった。
にっこりと笑って、気にしないでと言うように手を振る。


「本当に心配ないから。グレイは戻って仕事をしないと、ナイトメアは隙あらばサボるでしょ」
「そうだな…………本当にあの方は子どものようなことをなさるから」
「わたしはその点は大丈夫。しなければいけないことはわかってるし、わからないことがあったらボリスにでも聞く。それにあそこには――――」


わたしが全部を言い終えるよりも早く、突然後ろからぎゅっと腕を握られた。


「きゃっ」
?!」


グレイが気色ばむが、わたしの腕を引っ張った人物はそのままきゅっと擦り寄ってきた。そしてそれが誰なのかすぐに理解する。役持ちの前でこんなことが出来るのは同じ役持ちだけなのだ。


「見つけた見つけたっ!俺が拾った落し物なのにどっか行っちゃうから探したよ!」
「ぴ、ぴあす!」
「わぁ!覚えててくれたんだね!やっぱり君は優しいっ。優しい余所者だから、俺ゼッタイ迎えにこようって思ってたんだ」


ぎゅうぎゅうとわたしの腕を抱きしめるピアスは、わたしよりも少しだけ背が高いので大分可笑しなことになっている。グレイはひどく迷惑そうな、気の毒そうな視線をわたしに投げかけ、往来の真ん中で悪目立ちしているわたしは曖昧に笑った。


「眠りネズミか…………とりあえずを放せ。そんなことをしなくても彼女は逃げない」
「うっ、トカゲさん…………。でもでも、こうしないと早くしないと!猫がいつ襲ってくるかわからないんだもん」
「ピアス、まぁまぁ、落ち着いて」


グレイの迫力に負けそうになりながら決して腕を離そうとしないピアスを宥めて、わたしはよしよしと頭を撫でてやる。目にうっすらと涙を溜めたピアスは、出来の悪い弟のように可愛い。


「迎えにきてくれたの? わたし連絡なんてしなかったのに」
「うんうん。俺もわかんないけど、なんだか今日はに会えそうな気がしたんだよ。それでとりあえず塔に来てみたんだけど、ホントにがいるから俺嬉しくて!」


嬉しくて飛びついて今の状況に至るわけか。わたしは状況を把握して、上手に彼に対応しようと試みた。ピアスとの会話に意味はなく、けれどだからと言って不毛なわけでもないので楽しい。話題など彼にかかれば溢れる泉のごとく湧き出すのだ。
相変わらず気の毒そうにわたしを見るグレイに苦笑混じりに挨拶を済ませて、ピアスと連れ立って町を歩いた。彼はうきうきとした様子でわたしのスーツケースをぶんぶん振りながら歩いている。グレイに窘められ―――女の子の荷物は持ってやるものだといわれたのだ―――わたしは手持ち無沙汰に彼の脇を並んで歩く。


「嬉しいな嬉しいな!はずっとハートの城にいるんだって思ってたから、俺ちょっと羨ましかったんだ」
「そう? まぁ、余所者が二人もいれば珍しいでしょうね」
「違うよ! アリスも珍しいし、二人とも優しいけど、は違う。俺が最初に拾ったとき、すぐにネズミだってわかってくれたもん。アリスなんて、俺の立派な耳をクマさんの耳って言うし…………」


思い出したのか、急にしょぼんとピアスは肩を落とした。わたしとアリスがあのドアの森に始めて訪れたとき、ピアスはあまりにも自分勝手にわたし達を落し物扱いした。彼の中でわたし達は彼の所有物であるらしいのだが、いかんせん押しが弱いのでまったく怖くない。
あのときの会話だってそうだ。アリスは真剣にクマだと思ったのだし、彼は真剣に違うよと否定はしたものの答えは教えなかった。そこで押し問答をする彼女たちに、わたしは童話で読んだ「不思議の国のアリス」に照らしあわせた人物を尋ねてみたのだ。そうは見えないけれど、もしかして眠りネズミなのかな、と。


「うんうん!はすぐにわかってくれたし、アリスは俺のことネズミって聞いてちょっと嫌な顔したけど、はそんなこともなかったから」
「いや、うん、それは…………」


彼とこの世界の人物たちいわく、「ネズミは嫌われるもの」と定義づけされているらしいので、彼のことを受け入れているわたしは好意を持たれているのだろう。しかしそれもアリスのようにネズミの厄介さ――疫病やその被害を――知らないだけなのだ。元の世界ではゴキブリだって碌々見たこともない。そんなわたしにネズミは恐ろしいと言われても、ハムスターを想像するのがせいぜいで、彼をそれほど忌み嫌うことはできなかった。
まぁ、言ってしまえばそれだけの理由なのだが、ピアスは大層喜んでいるので、わざわざ真実を教えてやるのも無粋だろう。


「みんな俺のこと嫌ったり、汚いって言ったりするのに、はそんなこと言わないから好き。それに紅茶も珈琲も飲めるし、俺と一緒にお茶してくれるし」
「そんなに簡単に誰かを嫌いになるなんて、できないでしょう?」


この世界は、お茶を大事にする。特にこの世界の男性は熱心にお茶に誘ってくれるのでとても嬉しかった。お茶菓子の名前も、わたしより詳しかったほどだ。
ピアスはわたしの言葉に力なく首を振って、しょぼんとした。


「違うよ。俺、話したことない人にだって嫌われちゃうんだ。汚いネズミだって言われて」
「それは…………その人が無類のネズミ嫌いだったり、とか」
「そうじゃないよ。そうじゃなくても嫌われちゃうんだ。例えば時計屋さんは真面目で働き者だから、俺のこと嫌いだって言ってた。別にネズミ嫌いじゃないのに」
「ユリウスが?」


意外だったので、わたしは声をあげた。彼は大抵のことに否定的だしネガティブだけれど特定の誰かを嫌いになるような人ではなかった。そんな彼に嫌われていたなんて、ピアスは何をしてしまったのだろう。彼が物事に対して理不尽な苛立ちを持つとは思えなかったので、多分、ピアスは彼の仕事か生活のどちらかを脅かしたに違いない。
わたしはユリウスとの付き合いが長い分嫌われている彼の肩を持つことも出来ないけれど、それでわたし自身がピアスを嫌いになる理由にもならなかったので、にっこりと笑ってその頭を撫でてやる。


「何をしちゃったのかはわからないけど、ユリウスはいい人だから大丈夫よ」
…………でもでも、いい人は俺のこと大抵嫌いだし」
「そうなの? じゃあ、いいじゃない。わたしはいい人じゃないもの」


自分が善人だなんて思っていなかったわたしは晴れ晴れと笑う。ピアスは一瞬きょとんとしたあと、驚いた声をあげた。


「えぇぇ?! は悪い人なの?!」
「悪いってほどじゃないけど…………少なくとも、いい人じゃないよ」
「い、いい人じゃないって…………こんなに俺に優しくしてくれるのに?」
「優しいだけでいい人って決まるわけじゃないでしょ。それに心から優しい人って言うのは、相手のためを思って怒ったりきついことを言える人ことを言うのよ」


くすくすと微笑んだまま言うと、ピアスはぽかんとしている。もうすでに町を抜け、森の中に入ってきていた。歩く速度は緩めずに、けれどどこに向かっているかなどわからない。
突然、ぴたりとピアスが立ち止まった。わたしは数歩先まで歩いてしまってから振り返る。
彼は、彼にしてはひどく神妙な顔をしていた。真剣な、とも言えるような表情だ。


「ピアス?」
「…………は優しいよ」


大きくてどんぐりみたいな目をしたピアスは、子どものように健気な声を出す。


「俺、いい人に好かれたりしないし、だからも何か悪いことをしているのかもしれないけど…………でも、俺はゼッタイそんなことでを嫌いになったりしないから」
「…………ピアス」
「その、俺っていじめられてばっかりの嫌われネズミだけど…………がいじめられたら、ゼッタイそいつのことは許さないよ。怖いけど、ゼッタイ許さない。戦ったりするの苦手だけど、でも、が泣いたらきっとソイツのこと殺しちゃうと思う」


必死に訴えてくる彼の言葉に、不穏なものが混じった。もう聞きなれてしまった現実的な言葉が、それでも平和な日常を忘れていないわたしの心にひっかかってくる。マフィアで重宝されているというピアスは、やはり気の弱い男の子というだけではないらしい。
殺す、死ぬ、消える。これらの言葉は、時計塔に住んでいれば日常的に聞かされ続けるものだった。もしくは、ユリウスを知っていけば知っていくほど、この世界の成り立ちについて思い知らされた。アリスにもまだ話したことのない、けれど彼女も気付いているのかもしれない、この世界の真実。


「ピアス」


名前を呼ぶ。彼はまだ真剣で、少しだけ怯えた顔をしながら返事をする。
わたしはそんな彼の頬に触れて、その体温を確かめた。ユリウスのように消えてしまうかもしれない、この世界の住人。素直で考えが足りないけれど、わたしの心に不思議に馴染む男の子。


「殺したりしなくていいから、わたしが寂しいときは傍にいて」
「そばに? い、いていいの?」
「いいよ。その代わり、わたしもピアスが寂しいときは一緒にいてあげるから」


約束の印に小指を差し出すと、彼は勢いよく自分の手を出して小指を絡ませた。それから真っ赤な顔で興奮しながらピアスは「すごい」と少年みたいな顔で喜ぶ。それから何回もわたしに感謝と賛美―――優しい可愛い、やっぱりすごくいい落し物だ―――を送って、抱きつかんばかりに飛び跳ねて喜んだ。わたしはわたしと話してる人がこんなふうに喜んだり楽しんでるのが可笑しくて、けれどやっぱり嬉しくなったりもした。
それからすぐにピアスはボリスに見つかってばたばたとした追いかけっこをはじめてしまうのだけれど、わたしはその様子を眺めながら一人でいてもちっとも淋しくなかった。
一人でも、ちっとも悲しくなかった。



















この価値は空気のように見えない



(09.10.24)