暗く長い廊下に一人きりで立たされているような気分だった。 クローバーの町で、わたしは一人きりだった。けれどもちろん立ち止まってなどいない。会合の期間は人通りも多いので、立ち止まってなどいられないのだ。だからわたしは人の波に押し出されるようにゆっくりと、けれど慎重な速さで歩いている。その心がここになくとも、人に従って歩けるような速さで。 「…………エースの」 ぼそりと自分の声が聞こえた。エースの言葉がわたしを抉ったのは間違いない。 わたしの心とその周りにあったバリケードをそっくり全部、まるでスプーンでくりぬくようにごっそりと彼は抉っていった。えぐる、という言葉が彼にはぴったりだ。 あのときペーターが来てくれなければ、わたしはもっと違う真実を彼に突きつけられていたに違いない。あの男は易々と離してくれるような優しい人物ではなかったし、それは時計塔にいたころ嫌というほど知っていた。ユリウスの影から見ているしかなかったわたしには、少しも理解できない人物だったのだ。 あれ以来、わたしはずっと会合に出席してはいない。ボリスもピアスも出席しているのに、わたしは何かと理由をつけて休んでいた。二人は心配してくれたけれど、体調が悪いわけではなかったので曖昧に微笑むことしかできなかったのが心苦しかった。 今のわたしは大変に不安定だ。もし、ナイトメアに見つかれば上辺だけと言っても心を読まれてしまうかもしれなかった。それに会合に向かえば嫌でもエースと顔を合わせなければいけない。立ち向かえないことを弱いことだとは決して思っていなかったので、わたしはエースから逃げることを選んだ。 ひとりで部屋にいるつもりだったのに町に出てきてしまったのは、たぶん一人きりのほうが辛かったからだ。 「あれ? お姉さん?」 真っ暗闇の廊下をただただ歩き続けていると不意に声をかけられた。わたしは廊下から抜け出して、いっきに町なかに戻される。昼の時間帯の、にぎやかで明るい人たちが溢れかえっている町なかに。 左を見ると知らない青年が二人、立っていた。どちらも一般人とは違う雰囲気を纏い、それなのにスーツと言う正装をしているせいで悪目立ちをしている。整った顔立ちをした――この世界の住人と言うのは綺麗な人たちばかりだ―――双子の青年たち。 「やっぱりお姉さんだ! 僕がお姉さんを間違うはずなんてないからね」 「本当だ、兄弟。お姉さん、なんでこんな場所にいるの? 今は会合中でしょう?」 軽い足取りで駆け寄ってきた二人をわたしは見上げた。彼らはすらりと背が高く、こうでもしないと胸元しか見えない。嬉しそうな二人の頬は紅潮している。 「あ、もしかしてお姉さんもサボってるの? 僕たちもサボってるんだ。お姉さんて見かけによらず悪いこともするんだね」 「もう、兄弟。お姉さんは別に会合に参加するのを義務化されてないんだから、出ても出なくても悪いことじゃあないよ」 「あぁそっか。お姉さんは進んで会合に出席してるんだものね。それだけでもいい子なんだ」 わたしは一言も発していないのに、会話は人ごみのように流れていく。わたしは二人の青年を見上げたまま――― 一人は長い髪をくくり青い目をしていて、片方は短いピンで前髪を止めていて赤い目をしている――この不思議な親近感をどう説明しようかと悩んだ。彼らのことなど全く知らないのに、なぜかとても親しみを感じるのだ。そしてそれは彼らの持ち物を見た瞬間にしっかりと理解できた。トランプ模様の入った斧を見た瞬間に。 「もしかして、ディー? ダム?」 青年たちはきょとんとして、それから不服そうな顔をする。 「どうしたのさ、お姉さん。もしかしなくても僕らだよ」 「そうだよ。もしかしなくても僕達さ」 まるで当たり前のことのように繋げられたので、わたしは苦笑するしかなくなった。彼らが簡単に時間を操れることは知っていたが―――ハートの城の王様が、若くなっていたくらいだ―――こんなふうに突然変わられてもわからない。 わたしはくすくす笑う。なぜか、笑いが止まらなかった。 「お姉さん? どうしたの?」 「もしかして僕ら、どこか可笑しい? 変なところがあるかな」 わたしが笑いを止めないので、二人が心配そうに尋ねてきた。わたしは二人を見上げながら、自分がひどく安堵していることに気付く。会合に参加せずに一人きりでいても埋まらなかった場所に、きちんと何かが収まった。どんな言葉でも埋められないと思ったのに、この二人は現れるだけでそれを可能にしてしまった。しっかりとした傷跡はあるくせに、ぽっかりと空いた寂しさはなくなってしまった。 ずるい。救われた気がするのに思う。 「びっくりしたの」 だから、笑いながら訴える。声にはなんの迫力もないけれど。 「二人があんまり格好良くなってるから、びっくりしたのよ」 時間を操れることやそれを簡単にしてしまえる役持ちの特性について、今更言及するつもりはなかった。だから表面上の感想を言う。彼らは本当に凛々しい大人になっていた。 二人は目を丸くさせ、それから掴みかからんばかりにわたしに詰め寄る。 「本当?! お姉さん!」 「僕たちが格好いいって、それ本当?!」 「…………う、うん?」 そのあまりの激しさに頷くと、彼らは顔中で笑顔になって顔を見あわせた。 「兄弟、やっぱり大人になってよかったね! 子どものままじゃあ格好いいなんて言ってもらえなかった!」 「そうだね、兄弟。やっぱりお姉さんは子どもよりも大人の方がいいと思ったんだ。大人になってよかった」 「うんうん! やっぱり子どものままじゃ駄目だったんだ。大人になってよかった!」 繰り返される言葉は慣れているはずなのに、わたしは気付く。 子どものままじゃ駄目だった? それは誰に対してなのだろう。 「そういえば、どうして大人になったの?」 この世界の住人はしたいことしかしない。必要があればどんなことでもするが、必要がなければ――もしくはしたくないことは――絶対にしない人種ばかりだ。それなのに、どうして彼らは大人になったのだろう。子どもの彼らは子どもであることを楽しんでいたのに。 二人はそこでやっぱりきょとんとして、目配せをし合ったあとに笑った。 「お姉さんのためだよ」 「そう、お姉さんのため」 「…………わたしの? それともアリス?」 彼らはわたしのこともアリスのことも、お姉さんと呼ぶ。 「違うよ。ハートの城のお姉さんじゃない」 「そうだよ、今僕らの目の前にいるお姉さんのためだよ」 「わたし?」 尚、わからないという顔をするわたしに二人は微笑む。 「だってお姉さん、子どもの僕らをそれほど好きじゃあないでしょう?」 「そうそう。好きだけど、それほど好んでいないでしょう?」 好む。わたしは二人にしては穏やかなその言葉の響きに目元がゆるんだ。 彼らは声の通りに穏やかだった。まるで答えのわかっている質問に正解したときのように。 「わたしは、ディーもダムも嫌ってないよ」 だから反論してみたくなった。あきらかに子どもっぽく拗ねた声がでたので自分でも驚く。 双子は首を振った。 「違うよ。お姉さんは僕らのことを嫌いじゃないかもしれないけど、ちょっと苦手だった」 「そうそう。ちょっと苦手そうだった。苦しそうだったよ」 「だから僕ら、大人になることにしたんだ」 「そうだよ。大人になったらきっとお姉さんも苦手に思わなくなるかもって」 反論する暇も与えず、双子は続ける。わたしは困惑した顔をして、事実ぐらぐらと揺れていた。自分の心のそんなにも深い部分を知られてしまっていたことに対して、そしてそんなことに不安にさせたことに対して、本当に申し訳なく思ってしまう。 君は俺が嫌いだ。苦手なんだろ? 見てればわかるよ。 エースの声が蘇り、わたしは自分を心底嫌になった。例え苦手でも嫌いでも、そんなことを顔に出すようなことだけはしてはいけなかった。それも無意識の内だというのだから、救えない。 「どうしたの、お姉さん。気分が悪い?」 「そうだよ。お姉さん、真っ青だ」 双子が気遣わしげな声をかけてくれる。わたしは見上げた彼らが子どものときと同じ瞳で見つめてくれているのを知った。赤と青。綺麗で無邪気で、恐ろしいのに優しい瞳。 わたしは自分でも驚くほど自然に腕を伸ばした。伸ばして、そのまま二人を抱きしめる。かがんでくれた二人の頭を抱えるようにすると、腕の中で双子がびくりと震えた。 「お、お姉さん?!」 「ど、どうしたの?」 「…………」 ぎゅうと抱えられてくれる双子を優しいと思った。無理な格好をさせているのに、一言も不平を言わない。 「…………ごめんね」 搾り出すようにわたしは言う。その一言は双子の言葉を肯定するものだ。二人は傷つくかもしれない。けれど、もしそれを認めなければわたしはもっと汚いものになってしまうと思った。腕のぬくもりは確かに他人の感触だった。 それなのに、今はこんなにも愛おしいと思う。 「お姉さん、泣いてるの?」 「…………泣いてない。大丈夫よ、ディー」 「僕ら、お姉さんに謝らせたかったわけじゃないよ。ただ喜んでほしかったんだ」 「わかってるわ。ダム」 ぎゅう、と力を込めると双子は緊張していた体をようやく柔らかくしていく。 抱えた腕から双子が笑ったのがわかった。 「じゃあ、お姉さんは僕らを気に入ってくれたんだ。大人になってよかったね、兄弟」 「そうだね、兄弟。大人になったらお姉さんに格好いいって言ってもらえて、抱きしめてもらえた」 「本当だよ、兄弟。大人ってこんなにお得だったんだね」 「お得お得。…………大人っていいね」 そろりと腕が伸びてわたしの背中を抱きしめる。二人の両腕だ。わたしはその腕の長さや広さに驚いたけれど、受け入れた。 数分間そうやって取り留めのない話をしたあとに、わたしは体を二人から離す。それからやっとここが町中であり、随分視線を集めていったことを知った。あまりの恥ずかしさに真っ赤になったわたしを可笑しそうに見る双子は子どものような表情で笑った。子どものように無邪気で、わたしが苦手だった部分をそのままにして。 けれど不思議ともうそんなものは顔に出ないだろうという確信があった。双子は大人の姿のままわたしの両隣にいる。ボディガードのようだ。あんなにも暗く鬱陶しかった心の闇を押しのけて、彼らはわたしを救い出してくれた。 埋めてもらえなかった部分が彼らで埋まった。とても上手に、あまりにも優しく。 「ねぇ、ディー、ダム」 わたしは立ち止まる。それから遅れて振り返った双子に微笑んだ。 「本当に、あなた達って格好良い」 まさに救世主だった。わたしを救い出したことなど、二人は知らないだろうけれど。 二人はきょとんとしてから、照れるように顔を赤くしてから笑う。その微笑みは子供っぽく純粋だったので、わたしはますます嬉しくなった。 幼稚だったのは、わたしの方だったのかもしれない。 |
大海から
一雫の涙を掬い上げるような
(08.11.01)