ひとりについて考える。正しく言えば、ひとりでいる意味について。 わたしが生まれた世界は―――生まれただけではなく育ち、常識を育んできた世界は――あまりひとりで居ることを奨励していなかったように思う。常に常識を求められ、それ以上の行動もそれ以外の言動も許されはしなかった。いや、許されなかったわけではなく他の大多数の人間に中傷される恐れがあるだけで―――無言の非難や無視、そして露骨ないやがらせによって――誰も進んでやろうとはしなかっただけかもしれない。「普通」は大切なモラルであり、自分を守る盾だった。「異質」な部分があっても、それを滅多に他人の目に晒すようなマネはしなかった。それは、自殺行為にも等しかったからだ。世界における自分の居場所を殺す行為だった。 ハートの城の客室で、わたしはいつも考えにふける。この城は、滞在先の中でも比較的わたしを放ってくれる場所だ。ビバルディが執務に忙しいとき、エースが迷子になって戻れないときなど、わたしはぽつんと取り残される。ペーターはアリス至上主義なので、わたしのことは他の余所者程度の認識しかない。だから、いつもわたしは様々なことに思考をめぐらせることが出来た。 この世界で、わたしはずっとひとりだ。アリスのようにペーターに導かれたわけではないから、この世界がわたしを受け入れた瞬間は生まれたとき同様ひとりぼっちだった。時計塔の最上階、アリスが落ちた同じ場所でわたしはひとりで目を覚ました。落ちたという確かな確信はあったものの、なぜ自分がそこにいるかがわからなかった。誰にそうされたわけではなく、わたしは本当に自然に「落とされた」のだ。双子がよく作る落とし穴に嵌るように、ピアスが言う落し物の類いのように、わたしはこの世界に迷い込んでしまった。 「お前は誰だ、だったよね。たしか」 口に出してみて、そうだったと思いなおす。風の強い塔の最上階で驚きに放心しているわたしに向かって、ユリウスはそう言った。ひどく不機嫌で、迷惑だと言わんばかりの顔をして。 『お前は誰だ。なぜここにいる』 目を瞑ると当時の思い出が蘇ってくる。彼は憮然とした表情でそう言い放った。それを知りたかったのはわたしの方であるというのに。 あの質問にわたしはなんと答えたのだろうか。思い出せない。ただ、今みたいに開き直っていなかったわたしはとても弱く不器用で、彼に満足な答えなど返せなかったように思う。 とにかくユリウスに頼るしかなかった。彼は言葉を返さないほど不精でもわたしを嫌っているわけでもなかったから、彼に従った。珈琲をご馳走になり、落ち着いたわたしはこの世界の常識を彼から教わり、アリスという同胞に会って、ようやく選択肢が見えてきた。 つまり、戻るための準備期間をいかに過ごすかということについて。 『何を考えている?』 『…………ユリウス』 『風が強い。体に障るぞ…………風邪でも引いたら面倒だ』 口ではそう言いながら、塔の最上階まで彼は迎えにきてくれる。決して簡単ではない道のりを、体力もないくせによく登ってきてくれたものだと思う。わざわざそんな場所で物思いにふけるわたしも酷いけれど。 『…………わたしは、戻りたい。戻りたいよ。ユリウス』 『……………………知っている』 『なのに、どうしてこんなふうに時間が余るの? 長く居たりしたら、わたしは愛着を持ってしまいかねない。この世界はわたしに甘い。元の世界じゃ、そんなことなんてなかったのに』 元の世界。ひとりでいることは、それだけでも「異質」として認めてもらえない世界。ひとりは欠陥だ。当人に問題があるから、誰も近寄らないのだと判断される。禄でもない、倫理。 それなのに、この世界はわたしを受け入れてくれる。 元の世界でひとりだったわけではないけれど、常にひとりの淋しさを感じていた。窓の外を見るのが怖くて、空を見上げれば悲しくなった。雑踏の中では心細い思いをし、家に帰れば部屋に閉じこもりそうになる自分がいた。わたしは、あちらの世界で常に迷子のような状態だったのかもしれない。ひとりを認めてもらえない――自分ですら認めたくない―――迷子になるしかない、世界。 『』 ユリウスの声はいつも落ち着いていて、わたしの弱っている部分を上手く慰めた。誰かに気にかけてもらうということでさえ、わたしを慰めるには充分だった。 彼はわたしに滅多に触れなかった。紳士であったのか、触る気がそもそもなかったかはわからない。けれど、腕の届きそうな位置にいつもいるくせに伸ばそうとはしなかった。うずくまるわたしの瞳を覗きこんで諭すのに、立ち上がるために手を引いてくれはしない。 『滞在先を、一通り歩いてみるといい。お前は余所者だ。…………受け入れてくれるさ』 『…………それは、ここから出て行けということ?』 『どう取ろうとお前の勝手だ。…………けれど、元の世界に帰りたいのだろう? なら、この世界に馴染むな』 ぶっきらぼうで投げだし気味の言葉だった。彼の瞳は黒々として、わたしだけを見ていた。 『ひとところに留まれば…………この世界はお前を留めようとするだろう』 憎々しげに、彼は言った。ひどく辛そうだったようにさえ見えた。わたしは彼の言葉を聞き取るだけで、精一杯だった。 『帰りたいと強く願え。そうでなければ、帰れなくなるぞ』 あのとき、だ。 いつも迎えにきれたユリウスが、あの日だけはひとりで塔を降りてしまった。わたしを残して降りてしまったのは、後にも先にもあれきりだった。わたしは再びひとりきりになってしまったので、彼の言葉を何度も反芻させた。 強く願え。ひとところに留まるな。この世界に馴染んだりするな。 彼がわたしに教えてくれた、この世界から脱出するためのタブー。わたしは何度だってこの言葉を思い出す。ひどく苦しそうに言葉を紡いだ彼は、すでにわたしから離れてしまった。忠告どおり、馴染む前に。 ひとり。この世界ではひとりで居ることこそ、重要だった。アリスのように求められてはいけない。誰かの特別であってはいけない。だから、ひとりと言うのは誰かの心に住んではいけないという意味だった。思い続けられたら、囚われて戻れなくなる。彼女のように。 瞳をゆっくりと開く。赤い部屋、メルヘンな調度品、柔らかなベッドの上で膝を抱えたまま動かなかったわたしは、それらのものがひどく懐かしいように思えた。 いつか忘れてしまうものだ。記憶は砂のように手から零れ落ちていく。それらを全て捨てるつもりのわたしは、失くすことを悲しがってはいけない。そんな資格など、とうの昔に失っている。 |
いずれ悔やむとしても
(08.11.01)