「…………それでどうして、貴女がここにいるんですか」 先ほどから機嫌の悪かったウサギが、わたしにそう問いかけた。この世界にはわたしの知る限り二匹のウサギがおり、ハートの城に住んでいるほうのウサギが目の前にいる。机に向かいながら、目の前のソファで同じく仕事をしているわたしは彼と視線を合わせたまま苦笑した。 うららかな昼の時間帯、ビバルディは機嫌が悪く、エースはやっぱり帰ってきていないこの城の日常。 「見ての通り、仕事をしてるんだけど」 彼の仕事部屋には山のように書類が積まれていて、わたしはそれを片端から整理したりまとめたりを繰り返している。もちろん重要なものは彼に預けて触らないようにしているし、ペーターの邪魔はまったくしていないと思う。けれども彼はそこに害虫でもいるような目で睨んでくる。 「僕は頼んでいませんよ。ひとりで仕事もできない無能者だとでも思われているようで大変不愉快です。女王陛下のところにでも行って下さい」 「…………それも十分失礼な言い草だと思うけど」 ビバルディはああ見えて仕事はできる人だ。ただ熱心に進めたり、意欲を持っていない。 ペーターは尚ぶすっとした顔のまま手元の書類にペンを走らせた。素早い動きだ。字体は元より、ペーターはグレイよりもスマートな所作で仕事を済ませていく。 邪魔だとか仕事ができないからという理由で追い出されなくてよかったと心底思う。彼の言葉は元の世界の他人同様にわたしを追い詰める。好意など持たれていなかった、どうでもいい誰かと同じような扱いだ。それはわたしの鈍くなった感覚を呼び覚ます起爆剤ではあるけれど。 「あぁ…………仕事をするならアリスと一緒がいいです。貴女と仕事をするくらいなら、アリスが目の前にいてくれた方がずっと仕事も進みます」 「それは嘘。アリスばっかり見て仕事にならなくなるよ」 「それはそうですよ。アリスと仕事など比べるまでもありません。アリスは僕のすべて!仕事など放り出してたくさんお話するんです」 うっとりと自分の世界に入ってしまった白兎を冷めた瞳で見据えながら、これほど自分を思う人間がいるのはどんな気分だろうと想像した。多分、ひどく窮屈な思いをするに違いない。わたしはアリスより優しくないから、どんなことをしても視界にいれない努力だってするかもしれない。 けれど今、わたしの目の前にいるウサギはアリスに夢中だ。それはとても好ましいことだった。彼はわたしを一番に据える事がない。絶対的な安心感が彼にはある。 「…………なんです? じっと見て」 いつのまにか見つめていたらしい。わたしは我に返って、いいえ、と微笑んだ。 ペーターはそんなわたしを心底胡散臭そうに見る。まるで街なかで可笑しな子でも見つけたみたいに。 「ただ、こうやってると普通だなぁって」 「普通? 馬鹿にしてるんですか。僕のアリスへの愛は普通なんかじゃありません…………!!!」 「あぁ、そう、うん。それは尋常ならざるものがあるよね」 なにしろ自分たちの世界に引きずり込むほど深い愛だ。普通だなんておこがましいだろう。 アリスには悪いけれど、このウサギを見ていると人生もそう捨てたものじゃないかもしれないと思えてくる。こんなふうに誰かを一途に思い続けるなんて素敵だし、なにより彼を見ているとエリオットとは違う意味でほのぼのしてくる。 やっぱりウサギ耳効果なのだろうか。 「アリスは幸せ者ね」 アリスが聞いたら否定しそうな発言だった。けれど彼女はいないので、勝手なことが言える。わたしは近い将来、きっとペーターの愛とやらが彼女を救うと思っている。彼女はすでに、たくさんのものを彼に許しているのだ。わたしのように許してなどいないものから見れば、すぐそれとわかる部分を彼女は許容している。わかっていないのは当人たちばかりだ。ペーターは許されているからこその行為とそのほかが区別できていないし、アリスは許していることをわかっていない。 徐々に徐々に、染み入る水のように自然に彼らは近づいていくのだろう。 「…………アリスが、幸せ…………なんですか?」 窺うというよりは、本当に疑問だとでも言うようにペーターが尋ねてきた。羽ペンが動きを止めており、彼はまん丸の目をしていたものだからわたしも動きを止めてしまった。その瞳の純粋さに、わたしは驚く。 「僕はアリスに幸せになってほしいですけど…………」 戸惑っているのだとわかった。この世界の住人はいつも唯我独尊でやりたいことしか通そうとしないのに、いざ自分が特別になってしまうというときに限ってしり込みをする。 あんまりにも純粋で無垢なものが目の前にあることに居心地の悪さを感じながら、わたしは書類に視線を落とす。 「幸せだよ。この世界を選んだんだもの。彼女は幸せにならなきゃいけないに決まってる」 「…………しあわせ、に」 「ペーターがアリスの幸せを願っていれば、きっと大丈夫よ」 大丈夫。なんて滑稽で無意味な、観測的願望なのだろう。 けれど純粋なウサギはわたしの視界に映らない場所で、語気高く叫ぶ。 「僕はアリスの幸せだけを願っています。その他のことなんてどうでもいい」 そうと決まれば、とペーターは一目散に部屋を出て行く。わたしはぽつんと取り残され、深々とソファに身を沈めた。ペーターのことをわたしは好きだ。この世界で大切にされている自分が「その他大勢」であることを忘れさせないでいてくれる。 不意に少しだけ開いた窓から声が聞こえた。メイドとアリス、そして今しがた出て行ったペーターの声。沈めた身をなんとか立たせて、わたしは窓を開け放ち頬杖をつく。 「アリス、アリス! そんなヤツラ放って遊びに行きましょう!」 「はぁ? 私は仕事をしているのよ。いい加減にしないと殴るわよ」 「いいですいいです。僕、アリスになら殴られても蹴られても、どんなことでも耐えられます! それでアリスが幸せになれるんなら、なんだって…………!!」 「私にそういう趣味はない!!」 アリスの声が高く澄み、いつも通り晴れ晴れした空にこだまする。彼女の周りの同僚たちが、一緒になって洗濯物を持ったまま笑っていた。 ホワイト卿は本当にアリス様がお好きなんですね。 私たちもアリス様がお幸せになるんなら、殴られたいですわ。 まったくとぼけた発言に、わたしはくすくすと口から漏れ出す笑いを堪えきれない。 「黙れ。アリスに殴られるのも幸せにするのも僕だけの役割です。…………さぁ、アリス。殴ってください。さぁさぁ!」 「…………!!!!」 声にならない彼女の叫びを聞いた気がした。困るというよりは滅入ってしまっているアリスに、周りの同僚たちは助けるどころか追い討ちを―――ホワイト卿はあなたがお好きだから殴られたいんですよ、という無邪気な発言―――かけている。 わたしはついに耐えられなくなって、声も張り上げ笑った。あはっははは!弾かれるように顔を上げたアリスが、瞬間的に顔を赤くさせる。わたしは止まらない笑いを堪えようと口に手をあてたが、まったく意味をなさなかった。 「!!」 「あっはは…………! ごめんごめん! でもわたし、あなたを尊敬するわ!」 あははははは!エースのように爽やかに笑い続けるわたしにアリスはやっぱり怒ったような、困ったような、それでいてどこか諦めているような笑顔を向ける。あまりにも平和で無秩序な、幸せな光景のように思えた。温かいくせにぱらぱらと小雨が降るような、少し肌寒い感触の残る平和。 白兎に落とされたアリスは物語の主人公になるに相応しい。その愛情を受けとるのも、彼女だけが相応しいのだろう。けれどわたしは全くの手違いでこの世界にいる。間違いは、いつか正されてしまう。 白兎でもアリスでもなく、きっと単純に物語などなく、間違いはいつか正されるのだ。 |
嵐を待っている
(08.11.08)