紅茶の香りはこの城にとても奇妙な安心感をもたらしてくれる。厨房の中で、わたしはひとりで紅茶を淹れていた。他には誰もいない。磨き上げられた台の上で、お茶会同様に手入れの行き届いたティーポットにお湯を注ぐとふわりといい香りがひろがった。この中で今、葉が開きぐるぐると回転しながら赤く色づくさまを見ることはできない。けれどそれを想像しながら待つことは、きっとその様子を見ながら待つことよりも楽しいのだろうと思う。時間を計り、ティーポットから水筒に紅茶を移すと、わたしはさっさと後片付けを済ませて厨房を出た。 「ピクニックかい?」 いそいそと廊下を歩いていると、ゆったりとした低い声がわたしを呼び止める。名前を呼ばれたわけではないが、その声は意思的にわたしの動きを止めた。振り向くと、この城の主が―――キング、と言う名前のまさに王その人が―――立っていた。 「キング」 「水筒などとは珍しい。ビバルディとピクニックにでも行くのかい」 断定的にしめられた語尾を否定するようにわたしは首を振る。いいえ、違いますよ。 彼はおっとりとした外見をしている。その実、考え方や思考はおっとりしていないらしい。アリスは彼のことも、底が知れないと言っていた。普段はあんなに影が薄いのに、彼はこうやってわたしを呼び止めることも出来る。脳髄に命令を下すように、強制力を持つ言葉を放つ。 「では、その水筒は誰に?」 「…………これは」 「あぁ、…………言いたくなければ言わずともかまわない。君にもいろいろあるだろうから」 空気が一瞬にしてどこか小さな箱の中に吸い込まれた。わたしはその一瞬、呼吸困難に陥る。慌ててはいけないと頭の中で繰り返し、空気を吸い込んだ人物を見つめた。この人の不機嫌さは、とてもわかりにくい。彼は今、機嫌が悪いのだ。なぜかなんて理由はわからないが彼はわたしに見えにくく理解しにくい敵意を向けている。 お前はわたしにとって特別でも何でもない。頼んでもいないのに、忠告してくるキング。 「えぇ。…………キングにお聞かせするほどのことじゃあありません」 「…………そうか」 残念そうな、仲間の輪に入れてほしそうな顔。本当は、そんなことちっとも思っていないくせに。わたしは常の自分がそうであるように、口調を改める。嫌味や望まれない類の真実を口にするわたしは、ひどく畏まった口調になる。 「キング。…………あまり、わたしの友人たちを苛めないであげてくださいね」 わたしの声は廊下の絨毯に柔らかく吸い込まれた。 キングは眉を大胆に持ち上げ、なんのことかわからないという顔をする。けれどわたしも引かなかった。彼のせいでビバルディは機嫌を損ねることがままある。そして今回のそれは、かなり彼女を参らせているように思えた。 キングはわたし達を牽制しているのかもしれない。わたしの出した結論はそうだった。 「…………君は、何か思い違いをしてるんじゃないかね」 「思い違い?」 「そう。…………ワシは、ゲームにきちんと参加しとるだけだ」 ゲーム。この世界のルールに乗っ取った、それは盤上の遊戯なのだという。 私はゲームに加われないんですって。 二人で城の長い廊下を掃除をしながら、アリスはひどく憤慨したように言った。ビバルディの苛立ちについてキングを責めたとき、そう言われたという。 わたしはアリスが対峙したキングと今、同じように向き合っているのかもしれない。 「ゲーム、ですか」 「そう。ゲームだ。…………君たちは、加われないがね」 一段と空気が薄くなる。けれどもう、わたしは驚かない。 「ゲームに加わりたいと、誰か言いましたか」 だからわたしはキングの細い目を決してそらすことなく睨みつける。 「わたし達は、余所者です。だから完全にこの世界の一部にはなれない。始まっていたゲームには途中参加できない。でも、だから自由であることを…………キングはもう知っているでしょう?」 「…………」 「だからビバルディを、イラつかせずにいられるって」 わたしは一語一語区切って、発言する。彼は賢く、頭の回転の早い人だ。だから、わたしの言いたいことなどわかっているに違いない。 「君たちは余所者で特別だ。…………だがそれは、ビバルディが君たちの一部を気に入っているにすぎない」 「そう。わたし達はどこも特別なところなどない。けれど、この世界では特別で、かつ自由です」 「自由? 引っ越しで弾かれた君が?」 反論するというより、彼は自分の苛立ちをわたしに直接ぶつけているようだった。それが言葉となり、わたしの体や視覚にダイレクトにあたっていく。当たっては砕けていく言葉たちを思いながら、わたしは笑う。朗らかに。 「えぇ。もし、わたしが本当に望んだなら弾かれはしないはずでした。この城のアリスのように」 「…………」 「望めば叶う。この世界のルールは、わたし達に本当の意味で強制などしていない。…………戻りたいと強く願えば、チャンスが与えられているように」 いっぱいになった小瓶を思い、それを握るアリスを思った。自分の心を握る彼女の、切なく苦しい顔は忘れられない。 キングがうっすらと瞳を開いた。蛇のようだと感じ、あの空気がなくなるのは獰猛さ故なのかもしれないと考えた。 「…………君は本当に賢い。だから、ワシは苛立つ」 「…………」 「……………………本当に、腹立たしい」 地の底から搾り出すような声で、キングは言う。憎まれるというよりは、嫉妬に満ち満ちた声だった。彼はビバルディに思われたいのだろう。思われたいし、自分の望むままになってほしい。けれど、どちらもそう思っていたのでは望みは叶わない。平行線も飽きたので、周りにちょっかいをかけているのだ。 だからこれも一種の八つ当たり。当人さえも巻き込んだ、複雑極まりない八つ当たりだ。 「でも」 八つ当たりはやめてほしいけれど、そんなもので一々腹をたててもいられない。 わたしは微笑んだまま、キングに視線をしっかりと合わせた。 「でも、わたしはキングの歪んだ部分も、この世界らしくていいと思う」 この言葉は役に立たないだろう。強制力も影響力もないように思えた。キングにどこまで通用するかなど、わからない。 だからわたしは返事を必要せずに、背を向けて歩き出す。背中にしっかりとした憎しみを感じながら、それでもわたしは振り向かなかった。 たぷんたぷん。腕の中の水筒だけが、暢気な城の昼下がりに溶けて行きそうなほどハシャいでいた。空々しいほどの陽気なのに、悲しさだけを残す音だ。物悲しい音と、その重さ分だけの悲しみを詰め込んで、水筒の中は満たされている。 |
盤上の王様
(08.11.08)