「5時間帯」


いつものように散歩に出かけ、兵士たちの剣の稽古までには帰ってこようと思っていたのに結局いつもどおり戻ってこれなかった夕方の城で、彼女は仁王立ちで待っていた。
城門をくぐり、さぁここから謁見室まではどう行ったら近道かなと考えている最中のことだったのでエースは少なからず驚いた。彼女がそこにいるということと、そのことに驚いている自分がいるということに、だ。まったく気配など読めなかった。エースは自分の不調をまた見せつけられる。


「5時間帯よ。5時間帯も待ちぼうけをくらったわ」
「…………アリス」
「あら、寝ぼけた声を出すのね。もしかして寝起きなの?」


水色のエプロンドレスを着たアリスはつかつかとエースに歩み寄り、顔を覗いてくる。こんなふうに近づかれれば、いつものエースならば抜刀するに違いない。それか、近づかないように牽制している。そのどちらもしないのは彼女が余所者だからという理由以外にも、彼には計り知れないものが―――慣れとか愛着が―――あるからだ。
けれどアリスは声の通りに呆れているようだった。もちろん怒りが含まれているようにも見える。据わった目をするアリスは、実は結構キレやすいとエースは思っていたりする。


「寝ぼけてなんてないさ。ただ、アリスが出迎えてくれると思ってなかったからびっくりしたんだ」
「私もよ。まさかエースを待つハメになるとは思ってなかった」


いつ帰ってくるかもわからないのに。アリスは苦々しく呟く。
彼女はじろりとエースを睨んだあとで、傍にあったベンチに腰を下ろした。エースはいつものように首を傾げる。


「じゃあ、どうして待ってたんだ? もしかしてペーターさんから俺に乗り換えた? それだったら大歓迎だぜ」
「違う。それにペーターとは何の関係もないんだからでっちあげないで」
「うわ。ひどいなぁ、アリス。そんなこと言ったらペーターさん泣いちゃうぜ?」


からからと笑い続けるエースをアリスは不思議に思う。以前だったら、この爽やかな男が笑うたびに苛々させられたものだが、最近はその数が減っている。それもこの引っ越しが行われたあとだ。そのあとから、彼が虚しい笑い声をあげても苛々しなくなった。
虚しい。アリスは自分でそう思ったことに違和感を覚える。虚しいなんて、彼には不似合いだ。


「…………が」
? がどうしたんだ?」


名前を切り出した途端に、エースは食いついてくる。それと一緒に、ぞわりとした悪寒が走った。剣も抜かれていないのに、切っ先を突きつけられているような―――――――つまりは殺気を、向けられている。
危険だと思ったらそれ以上関わらなくていいから。エース、引っ越しのあとからちょっとおかしいの。
アリスは息苦しい空気に一度目を瞑り、の言葉を思い返した。
確かにエースはおかしい。引っ越しの後から不調だと言っていたし、なにより彼の行動のひとつひとつが不思議と違和感を醸し出している。


「城を出て、ブラッドのところに移ったわ」
「えー? もう出ていっちゃったのか。俺ってついてないぜ。今回一度も会えなかった」


大げさに残念がる風であるエースを、アリスはやはりおかしなものでも見るような目つきで見てしまう。引っ越しを終えてから二度目の会合のとき、エースがに何か言ったのは確かだ。けれどそれをもペーターも、どちらも詳しく話したがらない。は曖昧に笑うばかりだし、ペーターに至っては「あんな馬鹿より、僕のお話をしましょう」などと言い出す始末だ。
だからアリスはもう尋ねないことに決めた。は確かに死人のような顔でペーターに引っ張られてきたのだが、会合が終了して城に移ってくるときにはもう元気を取り戻していたのだし、の言うものが原因―――エースの八つ当たりやおかしさ―――なら、それを変えていけるのも当人同士だけなのだ。
だからアリスはが言い出すまで見守ろうと思った。見守って、もしものときは手助けになりたいと。だからこうやって頼まれごとをしたときは、たとえ相手がいつ帰ってくるともわからない迷子だったとしても遂行する。


から、伝言があるの」
「伝言?」
「そう。茶化さないで聞いて。口を挟むのも禁止」


言い捨てて、「えー?」と反論される前に頭の中でもう一度彼女の言葉を思い出す。お願いね、と言ったくせに、でも無理しないで、と彼女は笑った。


『わたしとあなたは見方が違うから、きっと真実も二通り出来てしまっているんだと思う』


言葉を区切りながら話すは、穏やかなように見えた。エースに何事か言われたあとのように苦しげではなかった。穏やかで諦めている、いつもの表情だ。そのくせ、彼女はちゃんと自分の向かうべき道を持っている。


『わたしは信念を曲げるつもりはないし』


彼女の信念。必ず帰ると断言した彼女に、アリスは聞いたことがある。そんなに元の世界は幸せだったの、と。けれどは一瞬きょとんとしたあとに笑って、否定した。
いいえ。幸せって言うほどじゃなかった。すごく普通。でも、普通って大切でしょう?


『エースも、自分の信念を曲げられないだろうから、この話は終わりをみないと思う』


の意見は正しい。普通の日常は、アリスにとっても大切だった。そんなことも忘れかけている自分に気づかされて、少し淋しくなったほどに。
アリスは考えながら、彼女の言葉をそらんじる。五時間帯もの間待っていたのだ。覚えてしまった。


『最後に、ひとつ』


エースの瞳をまっすぐに見る。飄々としたいつもの彼だった。悪びれもせず、誠実でも不誠実でもない、騎士。


『例え意見が合わなくても、わたしはあなたを嫌いじゃない。ただ、少し苦手なの』


そう締めくくり、アリスは「以上よ」と付け加える。
エースはしばらく考えるふうに顎を持ち上げたりしていたけれど、やがてまったく理解できないというふうに口を開いた。


「ねぇ、アリス。わからないんだけどさ」
「な、なに…………?」
「苦手っていうのは嫌いじゃないことになるのかな。苦手意識と嫌悪感て似たようなものだろ? それとも女の子ってそういうのを別々に感じることができるのかな」


エースは首を捻りながら問う。アリスもその質問には納得した答えを出せそうにないと思った。苦手だけれど、嫌いじゃない。に問いただすと―――エースと似たり寄ったりの質問だ―――彼女は笑って、「一緒にいると傷つけあうとわかってるのに、友人であり続けようとするような関係」と答えた。それならなんとなくわかる。この世界は傷つけることに頓着しないのに、本気で嫌えない人ばかりなのだ。
アリスはの答えを知っていたけれどエースに教えてやる気はなかった。だから代わりに、別の真実を教える。


「それはにしかわからないことよ」
「…………そっか。そうだよな。にしかわからない」
「そう。…………でも、ここでがエースを13時間帯も待ってたのも真実なのよ」


言うと、エースは動きを止めた。アリスは、彼が動揺してくれればいいと思った。
ベンチから立ち上がり、持っていた水筒を彼に預ける。から預かったものだった。


「もし帰ってきたら、喉が渇いてるだろうからって。ビバルディの紅茶を分けてもらったのよ」
「…………紅茶。俺に?」
「そうよ。ぬるくなってるかもしれないけど、それだっては二回も淹れ直しに行ったんだから我慢しなさいよね」


ずいと胸に突きつければ、彼は恐る恐る受け取った。
はずっとベンチに座って待っていた。帰ったらすぐわかるからとそこを動かずに、紅茶を淹れ直しに行っている間は兵士やメイドに見張っていてもらって、はエースを待ち続けたのだ。
は本当に強い。向き合おうとする強さだ。向き合って、解決したいと思う心は弱くない。
エースは水筒をマジマジと見つめたあと、常の彼ではない表情で笑った。爽やかなくせに弱々しい、引っ越しの後のおかしい彼の様子で。


「アリス」
「…………」
「嫌いじゃないってのも、苦手っていうのも納得したわけじゃないんだ。俺は納得したくない。でも、でもさ…………」


苦笑に近く、まるで普通の男性のような顔をして額をかくエースは、なんだか照れているようにも見えた。


「…………嬉しいと思っちゃうのは、おかしいよな」


がずっと13時間帯も自分だけを待っていてくれたことに対して、喜びが湧き上がるのは間違いだろうか。その間に何を考えていようが―――例え別のことを考えていたにしても、結局はエースのことを思っていただろう事実は――――自分を待っていてくれたことが嬉しかった。嬉しくて、それなのに納得できない。の言うとおり、お互いにまったく別の見方をしてしまっているから、真実だと思う部分が食い違う。


「もう少し、早く帰ってくればよかったなぁ」


残念そうに呟くと、アリスは素早く「無理よ」と答えた。そのあまりの速さにエースは笑って、「…………はは。ひどいなぁ、アリス」と返事をする。
腕の中の水筒が、たぷんたぷんと跳ねて自分を主張している。































スプーン一杯の本当







(08.11.08)