「…………何をしてるの?」


わたしは頭を押さえて、うめき声にも似た声をだす。出来るだけ穏やかに聞いたつもりだったが、声には存外呆れとも諦めともつかないものが混じってしまった。本音を言えばかなり呆れていたし、まさかとも思っていたのだけれどそれを言ってしまうほどわたしは冷静ではなかった。もし冷静ならば、つとめて緊張した面持ちでとくとくと彼を説得できたはずだ。


「ん〜?」
「ん〜、じゃない。あなたに聞いてるの、ナイトメア」


わたしは自分の冷静な部分をフル稼働させて目の前の男の現状を聞きだそうとした。
エースのせいで13時間帯も無駄にベンチの上で過ごすという貴重な体験をしたあとだったので、わたしの気は多少短かった。近道をしようと林を抜けている最中にきのこの群落に差し掛かり、一番目を引く大きなきのこの上にこの男を見つけたときは時間がとまったように感じたのだけれど、さすがはこの世界だと納得してしまった。けれど、ナイトメアはツボのような物体から伸びる管を握ったまま、こちらにとろっとした視線を向けるだけだ。心なしか、彼に近寄るとフルーティな香りが鼻先を掠めた。


「これは〜、水煙草と言うんだ」
「みずたばこ?」
「そう〜。いい〜香りだろ〜?」


確かにいい香りではあるかもしれないけれど。わたしは深いため息をつく。
フルーティな香りに包まれる彼はボケた表情をしているせいで、周りの毒々しいカラフルなきのこ達によっておかしくなってしまったように見えた。そもそも、いい年をした男性がカラフルなきのこに囲まれてフルーティな香りを漂わせながら視線が定まっていないというだけで充分あぶない光景だ。
出来れば避けて通りたかった。けれど、これを見逃したとしても巡りめぐっていつかはこの情景に舞い戻ることも目に見えていた。それならば、今立ち向かってしまうのが得策のようにも思える。


「…………ナイトメア」
「ん〜? なんら〜? 〜」すでに呂律さえ危うい。
「…………体が悪い人が煙草なんて吸っていいの?」
「ふっふふ〜。これはなぁ、普通の煙草よりよっぽど毒性は薄いものなんだぞ〜」


危ない表情で意識など吹っ飛んでいそうなのに、彼は律儀に返事をする。わたしは額を押さえ、この浮かれた男の末路を考えた。体によくないことしかしない夢魔は、寿命が大変短いに違いない。
わたしは、そういうふうに自棄になってしまう人が好きではない。例えナイトメアが自分を害そうとして水煙草とやらを吸っていないとしても、それには確かに微弱ながらも毒があり、こうやって話をしている間にも彼の体のどこかしらを蝕んでいるのだ。それは、目の前で友人が死に掛けているのを見過ごすようなものだ。実際、ナイトメアほど目に見えて具合の悪そうな人もいない。少なくともわたしの人生経験の中で日常茶飯事に吐血する人などいなかった。あの血を見ると―――思い出すだけでこちらの血が引くのだけれど―――わたしはいっきに意識が遠のくのを感じてしまう。
遠のいて、けれど素早く乱暴に彼に対しての怒りが湧きあがるのだ。


「ナイトメア、あなた本当に―――――」
「ナイトメア様!ここにおられたんですか!」


説得なり説教なりをしようとしていたわたしを飛び越えて、きのこの森に響き渡った声はなによりも切迫していた。わたしは驚いて振り返り、彼を見た途端に可哀想なものをみる目になったと思う。息を切らしているグレイはそんなわたしには目もくれず、ボケた顔のままのナイトメア―――それでもいささか表情の変化を見せた―――のそばに駆け寄った。巨大きのこは彼の胸のあたりまで傘があり、その上に乗るナイトメアはグレイに見上げられる格好になっている。


「ナイトメア様! 塔にいらっしゃらないと思ったらこんなところに来て! しかも水煙草をそんなに長時間吸われたらいけないと申し上げたでしょうが…………!!」


言い方は敬語だが、言ってることは親のそれだ。そして子供と言うのは、いつの時代もどんな世界でも親の言うことなど半分も聞かないし守らない。
ナイトメアは罰が悪い表情を一瞬だけしたけれど、本当に一瞬だけだった。この子どもには分不相応としか言いようのない権力があり、しかも親代わりのグレイは部下だ。そうなれば易々と従うわけなどない。


「わ、私はちょっと休憩してるだけだっ。グレイこそ、私を探している暇があったら仕事をしろ、仕事をっ」
「あなたの決済をもらわなければいけない書類が溜まってるんです! 仕事をしたくても始められません!」


いい子だから降りてきてください!
頼み方さえも親なのか部下なのか―――多分、両方―――グレイは懇願に近いまなざしをナイトメアに送っている。わたしは完全に部外者と成り果てたことに安堵を覚え、早々にその場を切り上げようとした。向かっている場所がクローバーの塔ならナイトメアを引きずり下ろすくらいはするのだが、次は帽子屋屋敷だった。すでに大幅な遅刻なのに―――もしブラッドがひとつの滞在先におけるわたしの滞在時間を計算していればの話だが―――これ以上はあちらに着くのがもっと遅れてしまう。
それに、とわたしは思う。それにこれ以上ナイトメアを見ていれば、わたしは怒鳴りだしてしまう。彼はそんなふうに思わせるほど、自分の体調管理を怠っているのだ。
けれどわたしがその場をあとにしようと背を向けたとき、ナイトメアがひどい堰をした。ついで、グレイの焦ったような声。


「大丈夫ですか?! ナイトメア様!」


振り返りたくなかった。振り返れば、きっとしてしまうことは目に見えていた。わたしは穏やかな人間などではない。思ったことは感情に出してしまう、ごく普通の女の子なのだ。ただ、この世界ではいちいち感情に任せていては付け入られるのがオチなので、冷静になろうとしているだけで。
ひどい堰はなお続き、背骨を軋ませるような激しいものになる。わたしは覚悟を決めて振り返り、自分の目の前に映る光景に――――口元を押さえるナイトメア、きのこにのぼり彼の背中をさすっているグレイ、そして色取り鮮やかなきのこに不似合いな赤い血―――自分の感情が、決壊するのを感じ取った。
わたしはつかつかと二人に無言で歩み寄り、ようやく咳きがおさまったナイトメアの額を背伸びをして伸ばした手で叩いた。きのこが邪魔で力など入らなかったが、べちん、と鈍い音がでた。


「…………った! ?!」


ナイトメアは目を白黒させ、わたしを見る。わたしは思い切り睨みつけた。馬鹿な人だ。唇の端に血をつけたまま―――その血を憎しみを込めて睨む――わたしの突然の暴力に驚いている。
驚きたいのはわたしの方だった。驚きたいのもそんなふうに単純に傷ついたような顔をしたいのも、わたしだ。


「この大馬鹿!」
「…………?!」


一喝すると、ナイトメアはますますたじろぐ。わたしは視線をグレイに向けた。グレイも心なしか、びくり、とする。


「グレイ!」
「う、な、なんだ? 
「悪いけどその馬鹿、担いで頂戴。病院に連れてくの」


早く!
グレイは弾かれたように行動を起こし、呆けたナイトメアを軽々と肩に担いだ。わたしはそれを見届けるとさっさと踵を返して歩き出す。病院の場所は知っていたし、彼らを先導して歩かなければいけないほど怒っていた。
数歩進んだところで、ナイトメアが正気に返り、病院には行かないだのとゴネだす。


「わ、私は行かないぞ! 断じて! あんな場所に行くくらいなら―――!」
「な、ナイトメア様! 動かないでください!」


二人の声は、わたしの癪に障るものだった。やりとりも内容も気に入らず、彼らはまったく不当な―――そして見当違いな―――主張を繰り返しているように聞こえた。
わたしはぴたり、と歩くのをやめた。遅れて後ろからついてきていたグレイも止まり、喚いていたナイトメアの声も止む。
二度、呼吸をした。落ち着こうと思ったし、これ以上感情を乱せば暴言どころか彼らをなじってしまうだろうと思った。けれどそのはずなのに、ゆっくりと半分だけ振り返った先にいたナイトメアと目があった瞬間に心臓がいっきに冷え切った。


「行くくらいなら、何?」
「…………っ」
「行っておくけれどね、ナイトメア。わたしは今からあなたを病院に連れて行く。これは決定事項。…………それでも、どうしても、行くのがイヤだってンなら」


捲くし立てていくうちに、こちらで培った敬語がほどけてしまう。
ナイトメアもグレイも、目を真ん丸くさせていた。わたしはわたしの怒りがそのまま彼らに伝わるように、叫ぶ。


「もう口をきかない、喋らない。仕事だって手伝わないし、夢に入ってきたらセクハラで訴えてやる。それに何より、クローバーの塔になんて、ゼッタイ行ってやらない」


支離滅裂な主張だった。わたしの方こそ分不相応だとわかってもいた。余所者のくせに、居候のくせに、権力者に対して口の聞き方がなっていない。冷静な部分では、ちゃんと理解していた。けれど、そんなものは関係がないくらい、わたしの感情は溢れていた。
担がれたナイトメアに近寄り、視線をあわせた。グレイは心配そうにわたしたちを見ている。
伝わってほしいと思った。読みにくいと言われたわたしの心が、どうか今の瞬間だけは彼に伝わればいいと思った。


「本当は…………」


何度も何度も、あなたが血を吐くたびに心配だった。
けれど言葉は声にならず、唇の上にのぼることもなく喉を滑り落ちていった。落ちてどこか深い場所に沈んでいく思いは、けれど本心でもあった。彼が吐血するたびに、血など見たこともなかった一般人の私がどれだけ動揺したかなど、彼は理解していないのだ。
悔しくて言葉にならなかった。ナイトメアを喜ばせてやる類の言葉など、これだけ心配させられて言ってやるつもりなどなかった。
こういうときの能力じゃない。ちゃんと、聞いて欲しい言葉ぐらい汲み取って。


「…………


突然はっとした顔になったナイトメアが、不機嫌なままのわたしを呼んだ。


「なに」
「…………すまない」
「わたし、謝ってほしいなんて」
「それでも」


彼が、言葉を遮った。それでも、すまない。
伝わったのだろうか。わたしの心は読みにくいと言っていた彼に、少しでも伝わったのならいい。吐血ばかりする夢魔は、もう少し自分のことを労わってくれる人たちのことを考えなければいけないのだ。
もうナイトメアは抵抗しようとしなかった。一人で歩けると言ってグレイの肩から降りると、自分の足で歩き始めたほどだ。それから「君の言うとおり病院に行くよ」と弱々しく笑って、ひらりと手を振った。驚いたわたしの耳元にグレイが唇を寄せる。


「ありがとう。君のおかげだ」
「…………癇癪を起こしただけだよ」
「素晴らしい癇癪だ。あんな顔をされたら、誰でも従わざるを得ない」


わたしはグレイを振り仰ぎ、疑問符を顔に浮かべる。どんな顔をしていたというのだろう。グレイはふっと奇妙なふうに―――嬉しいのに、少しだけ悲しいような―――笑顔を作った。


「泣いてしまいそうだった」


数歩先にいるナイトメアが、グレイを呼んだ。彼は返事をして戻っていく。
わたしは手を振られたけれど、そのまま立ち尽くしていた。ぼうとして、彼らの後姿を見ていた。釈然としなかった。
泣きそうだった?
あんなにも怒り狂っていたというのに、怒りを通り越した感情はそんなふうに顔を歪ませてしまったのだろうか。まったく嬉しくない効果だった。泣きそうだった、なんて、まるでわたしが彼に対して優しかったみたいだ。優しく善意で、彼の体だけを心配していたような捉えられ方だ。本心は、心配はしていたけれど身勝手な理由――血を見るのが苦手とか、こちらの心配など意に介さない彼に腹を立てていたとか―――だったというのに。
握りしめたスーツケースの中には無論鏡が入っている。手鏡だが、今の自分を見るには充分だった。けれど、わたしは自分の顔を見ることが出来ない。そこにある事実に触れるのが怖かった。
もしわたしがグレイの言うとおり泣きそうな顔をしていたなら。
そんなふうに感情的になるべきではない。なってはいけない。執着は、わたしの妨げにしかならないのだから。


































(08.11.09)