帽子屋屋敷のにあてがわれた部屋は、この屋敷そのままに奇抜で奇妙なくせに愛着を持ってしまう彩りに満ちている。随分間取りが大きく取られ、客室だというのに居場所がないように感じるほどだ。人のうちというのは総じてざわざわと胸が高鳴る。 ベッドの上に先ほどメイドに預けたスーツケースがあった。わたしはその隣に腰を下ろす。上等なベッドはそれだけで、軋む音すらせずにわたしの体重を吸収する。深く柔らかく、まるで慰めるように。 ブラッドは機嫌が悪かった。彼はそういったことを隠すことがうまくない。交渉ごとならわからないけれど、対人関係において気に入らないことがあるとすぐに顔に出る。たぶん、それはボスならではのクセだろう。彼は彼自身を癪に障らせる人間など、傍に置かなくても生きていけるタイプの人種なのだから。 だとしたら、わたしが彼の機嫌を損ねたのは明白だった。この屋敷の門をくぐって、メイドにブラッドの居場所を聞いているとき、すでに彼の不機嫌は始まっていたのだろう。あちらでお茶会を、というメイドの言葉と同時にそちらを見れば、もうブラッドの視線はわたしを捉えていた。双子が走りよる向こうで、彼はひたりとわたしを見ていた。それだけで、わたしは歩くのさえままならないほどの恐怖と緊張が全身を満たしていくのがわかった。 『随分遅いご帰還じゃあないか。待ちかねたよ』 椅子を引いてもらい座りながら、わたしは思わず聞いてしまいそうになった。本当に、と。本当にそんなことを思ったの、あなたが。けれどわたしはいくらか知恵も持っていたので、自分から爆弾を投下するようなことなどしなかった。 代わりに、彼の気に入るようなことをしたつもりだった。砂時計による時間帯操作。昼から夜に姿を変えた帽子屋屋敷は、生気を取り戻したように生き生きとする。テーブルにぽんぽんと灯りがともり、わたしはゆっくりと瞳をブラッドに据えた。本当は逐一観察しなければいけない人なのに、わたしは結果しか見ることができない。もし昼から夜に代わるその一瞬に彼が顔を歪めていたなら、わたしは瞳を開いたと同時に死んでいるかもしれないのに。 けれどブラッドに変化は見られなかった。不機嫌は解消されていないけれど、特段増したわけでも減ったわけでもない、というふうに。 それからすぐに席を立ち、屋敷の中に戻ってしまったブラッド。わたしは心底ほっとして、けれど同時に言い知れぬ申し訳なさで一杯になった。彼はわたしがひとつの場所にどれくらい滞在するかをちゃんと測っていたのだ。その上で、わたしを迎え入れた。不機嫌を押さえようとすればするほど顔が歪むことを、誰かに教えてもらえてもらうことさえ困難な人なのに、そんな顔をさせてしまったことがとても残念だった。 「…………考えては、駄目」 ベッドの上で、わたしは自分の耳を両手で軽く塞ぐようにしながら呟く。押し殺すように小さく、けれど自分が言っていることを自覚できるような大きさで。ブラッドのことを考えると、いつも「あぁすればよかった、こうすればよかった」と思ってしまう。実際、どんなことをしても彼を喜ばすことなどわたしにはできるはずもないのに、思考はどうしても動いていってしまう。願いは虚しく、叶わないときに努力を強いる無遠慮さを秘めていた。ブラッドは周囲に影響力を持ちすぎているのだ。この人のためにこうありたいと願わせる力を持っている。 ―――――――――もし、彼が。 部屋の隅、備え付けられた水ざしを見ながら思う。もし、万が一ブラッドがわたしをこの世界に捕らえようとすれば、一体どうなるだろう。受け入れられていることを好意的に解釈すれば、それもありえなくはない。女性に対する執着心は強い方ではないように見えるブラッドは――それが見せ掛けやプライドが邪魔をした結果であったとしても―――わたしを留めるために体面をかなぐり捨てるようなことをするだろうか。例えばこんな小娘に、帰ってくれるなと乞うような真似を。 「…………ゼッタイ、ない」 声に出してみると、穏やかで満ち足りた安心感が胸一杯にたまった。彼は少なくとも、そんなふうにわたしを求めていたりしない。近しい友人だとは思ってくれているだろうし、珍獣扱いされているかもしれないけれど、愛情を持って自分の一部とするような執着心はないはずだ。 そのために、わたしは彼に極力近づくこともなく、またアリスのように余所者の面白さというやつを見せたこともない。ただ彼の傍で話を聞いて頷くだけのわたしを、彼はアリスほど気に入っていないだろう。そんなことはこの世界で顔なしと呼ばれる一般人―――この呼び名に慣れるのは悲しいことだといつも思う―――と、さして代わらない。つまり、替えがきくのだ。 わたしは結論付けた自分自身に忍び笑いを漏らす。なんて高慢で計算高い、ふてぶてしい女なのだろう。そんな価値はないのに、もしもを考えてそこまでするのはお前くらいのものだ、と言ってやる。くすくすと笑う声は耳の奥に澱のように溜まっていく。溜まっていけばやがて腐り、自身を害す類いのものなのに、わたしは知っていてそれを放置する。 「…………?」 静かに笑っていると、控えめなノックの音の後に高くて可愛らしい声がした。アリスだ、と思った瞬間には大またでドアに近づき開け放っていた。あんまり急いで開いたドアにアリスは少々面食らい、それからわたしがどうぞと微笑んだのを見て可笑しいようなたしなめるような顔をした。彼女は淑女のように振舞うのは好きじゃないというのだけれど、わたしにはそれをしたほうがいいと言う。 窓側にある小さなティーテーブルに向かい合わせに腰を下ろした。 「報告に来たの」アリスは律儀にそう話し始める。 「報告?」 「そう。エースに伝言を伝えたわ」 一瞬大きく、心の側面がびくりと震えた。 わたしはそれでも努めて冷静に、穏やかな表情を作り出す。アリスは彼女の可愛らしい眉をいくらか潜めた。彼女は可愛らしいもので出来上がっていると常々思う。まっすぐでさらさらな髪の毛、賢そうな柳眉、大きな緑の瞳、つぼみのように赤い唇、華奢な足や腕は驚くほどすべらかできめが細かい。上等な人形のようだ。人形師が丹精込めて作り上げた人形が、その声に答えて動き出したような神秘さも持ち合わせている。可愛らしいアリスは、この世界に似合っている。わたしには似合わないけれど、彼女は似合いなのだ。 「、私はあなたに沢山聞きたいことがあるのよ」 「そうだと思う。でも」 「わかってるわ。言いたくないんでしょう」 アリスは賢い。こうやって、ため息をついてわたしを仕方のない子どものように見つめる彼女は本当に思慮深い。この世界の人はわたしのことも賢いと言ってくれるけれど、大きな間違いだ。見当違いも甚だしい。わたしは賢いのではなく、さかしい、のだ。同じ漢字を使うこれらは、けれど意味が天と地ほどに違う。 大きな眩しい緑の瞳が、少しだけ悲しそうな色を映した。わたしはそれで、彼女自身にも何かが起きたことを知る。感情が揺れている。判断が鈍っている。アリスは動揺さえも可愛らしい。 「…………何か、大変なことが起きた?」 「大変、じゃあないわ。ただ」わたし達はどちらも、卑屈だ。 「ただ?」 「…………ただ、何かあったことは確かだわ」 わずかにアリスの頬に朱が上る。恋愛ごとだと瞬時に理解したのは、わたしが女だからだろう。生まれたときから備わっている勘だと言ってもいい。わたしはとても楽しげな気分になった。アリスは悩んでいるし、もちろん困り果てているのかもしれないのだが、とても嬉しかった。アリスはこの世界を選んだのから、いつまでも停滞すべきではない。囚われたままでは、どこにいたって変わらないのだ。 唯一無二の同胞である彼女の異変が、好ましいことであることをわたしはそっと願う。 「それは、わたしが聞いてもいい類いの話し? それともまだ秘密?」 「聞いてもらいにきたのよ。じゃなきゃ、話したりしないわ」 「よかった。嬉しい」 わたしは自分自身のことなど話さないくせに、不平等に喜んだ。 夜の帳の落ちた部屋の中で、灯りに揺られるアリスの顔はわずかに悔しそうだった。知らないふりをして「お茶を淹れるね」と席を立つと、思い出したような声があがる。 「あぁ、、お茶はいらないわ。さっき、ブラッドにいただいたの」 「…………え?」 「さすがにおなか一杯だから、ごめんなさい」 わたしはアリスの声の三分の一も聞いていなかった。ただ、ブラッドという単語に耳を奪われていた。わたしは会話に支障がない程度に相槌を打つ。そう、とか、わかった、なんて言葉たち。もう一度座りなおしたわたしは、けれど先ほどのアリスの「何か」に対する喜びに沸く心がなくなってしまっていた。 「…………?」 「…………」 「…………はぁ。、ブラッドと何かあった? すごく不機嫌だったんだけど」 わかりやすく黙ったわたしにアリスは問う。わたしはどう答えたらいいものか迷い、迷うことなどすべきではないのだとまた思った。ユリウスの声を思い出そうとする。留められるような貴重な存在になるべきではなく、それは多分嫌悪でもいけないのだ。特別に突出した感情は、どれもこれも禁止すべきものなのかもしれない。 難しい。わたしはすべてを放り出したくなる。けれど、それで失うものの大きさに身が竦むので放り出せはしない。 「ちょっと、ね。エースを待っていたのがバレたの。途中でナイトメアに出会ったから余計に遅くなって」 「…………ナイトメア?」 「そうなの。聞いてよ、あの馬鹿ったら水煙草なんて体に悪そうなもの吸ってたんだよ? あまりにもムカついたから怒っちゃった」 あ、でも暴力は振ってないよ。 おどけたように、わたしは冗談を口にする。うまく笑えていたはずだと思い、そう思っている自分に嫌気がさした。アリスにさえちゃんと感情を吐き出せない自分が嫌いだ。 「だからブラッドはちょっとご立腹なのかもしれない。もしかして、八つ当たりでもされちゃった?」 「…………いいえ」 「そう、よかった。アリスにまで迷惑かけらんないもんね」 軽々しくなる自分の口調がまるで他人ごとのようだ。アリスは痛々しい表情をして、それでもわたしに何も言わずにいてくれる。あんまりにも優しい気遣いだ。こんなに姑息で中途半端なわたしに対するには優しすぎる扱い。 アリスはふわりと窓の外に視線を移す。もうきっと、夜は終わるだろう。 「ここに来る道すがら、ナイトメアが病院に行ったって聞いたわ。新手の冗談かと思っていたんだけど、が怒ったんならきっと本当ね」 「…………噂にのぼるほどっていうのが、アレだけどね」 「そうね。…………でも、あなたはちゃんと影響力を持ってるのよ」 「…………そんな、大層なものじゃないよ」 わたしは苦笑に近く、自嘲も込めた笑い方をする。こちらのほうがよほどしっくりくる。 ナイトメアが病院に行ったのは確かにわたしが関与しているかもしれないけれど、だからと言って彼の病気が完治したわけでもなければ改善したわけでもない。これからも通い続けるかもしれないけれど、そんな保障もない。ナイトメアの気まぐれと優しさ――――認めたくはないけれど、泣きそうだったわたしに対する―――によって一時的にそういう結果になっただけなのだ。 影響力なんてない。ブラッドのように強制力を持ったカリスマ的なものでなくとも、微塵も持っていない。アリスは窓ガラスから見える帽子屋屋敷の庭園を見つめる。それからそっと、彼女の培われた淑女らしさで視線をテーブルに戻した。 「頑固ね、」 「…………あ、アリスほどじゃあないと思う」 「私も頑固だけど、それよりもよ。あのブラッドをイラつかせられるなんて、よほど度胸があるか頑固者かのどちらかだわ」 「……………………頑固のほうかな。度胸はないもん」 「え? 度胸だって充分あるじゃない」 アリスがきょとんとこちらを見て、わたしは彼女のまん丸な瞳と見つめあう。 「だって、あなたは自分に優しい世界と決別する勇気を持ってる。それってすごい度胸だと思うわ。私には出来なかったことだもの」 卑屈ではなく嫉みでもなく、単純に尊敬するアリスはやはりとても可愛らしい。わたしは笑うべきか考えて、ありがとうとお礼を言う。誰に対しての、何のためかもわからない感謝の言葉は部屋の空気の中で浮いてしまったことだろう。 わたしは、だからアリスにも言うことができないのだと思う。彼女はこちら側に残って、この世界の一部になることを望んでいる。けれど同時にとても淋しいのだ。望む世界にいる淋しさを―――捨ててしまった罪悪感と悲しさを―――共有できるのは、同じ余所者であるわたししかいない。 わたしなら、何が何でも帰ってなどほしくない。もしわたしの立場でアリスのようにこの世界を選んだとしたら、わたしは他の余所者仲間を帰してなどやらない。誰でもいいから、好きになったり恋をしてもらったりして、この世界に留まらせようとするだろう。だってそうしなければこの淋しさはひとりで抱えていかなければならないのだ。 姑息で中途半端なわたしの心根のせいでアリスに打ち明けられない様々なものがあることが、わたしはとても悲しかった。そしてアリスとは別種の淋しさも同時に生まれていることを知る。なんてままならないんだろう。この世界はわたし達に優しいくせに、その優しさを拒絶してしまったのなら、わたしはもうどうしたらいいかわからない。 アリスはわたしには理解できない穏やかさで微笑んでいる。ふと、窓の外が一瞬変なふうに歪んでまた夜を映し出した。どうやら、次の時間帯も夜だったらしい。 「ねぇ、アリス。これから泊まっていかない?」 「え?」 「だって、まだアリスの報告を聞いていないんだもの。ベッドに入りながらのほうが、こういう話って盛り上がるでしょう?」 意地悪く笑うと、アリスはまた少し頬を染めて「そうね」と頷いた。わたし達はいそいそとパジャマパーティの準備をし始める。先ほどの話はなかったことにして、なかったことにならずとも考えないようにして、二人だけの秘密の淋しさをたっぷりと共有しあうために準備をする。 |
足枷付きのアリア
(08.11.21)