は気付いているのだろうか。彼女の行動と、その心理状態について。 二人で連れ立ってナイトメアのいる病院まで行く道すがら、アリスは何度となく自問する。尋ねる相手は先ほどから森を抜けた先にあった店にばかり目をとられていたので―――ーねぇねぇアリス!あのティーカップかわいい!――――アリスは曖昧に返答するだけでこの質問にかかりきりでいられた。彼女はレースのついたシャツと―――これはブラッドの趣味だ―――動きやすそうなグレーの短パン―――これは双子たちが好みそう―――を着ている。実に身軽な、彼女らしい服装だった。 アリスは人ごみを避け、を見失わないようにしながら何度となく考える。帽子屋屋敷を出る前に、がエリオットと話していたあの場面だ。は自分がどんな顔をしていたのかわかっていたのだろうか。あんな安心しきった顔はみたことがなかった。本人に自覚がないわけではないだろう。彼女はそういったことに敏感になってしまった。馴染まないことを、この世界に留まらない唯一の方法だと思っているのだから。 代わり、なのだ。エリオットは誰かの代わりを担っている。 そういえば、とアリスは思う。そういえば、が誰かと二人きりで話すところを見たのははじめてではないだろうか。 「やぁ、二人とも。ナイトメア様に会いにきてくれたのか?」 一際目立つ白い建物の中で、アリスとはグレイに迎えられた。看護婦さんにナイトメアの部屋を聞いている最中だったので、彼が受付代わりなのかもしれない。 は微笑んで「うん、具合はどうなの?」と聞いている。それなのにアリスは「本当にここにいるの?ナイトメア」と疑う声を出した。二人の対応にグレイが苦笑しながら、これから自分は医者にナイトメアの病状を聞きに行くのだと話す。 「よかったら、一緒に行くか? 俺に聞くより医者に聞いたほうが詳しいだろう」 「そう?…………でも、わたしは遠慮しようかな」 は曖昧に笑って断った。具合はどう、と聞いたくせに詳しく聞きたくはないらしい。けれどグレイひとりを行かせるのもなんだったのでアリスが彼についていくことにする。なんとなく変な感じはしたが―――まるでナイトメアの保護者にでもなったような―――先に病室に行っているというを見送った。その後姿を見ながら、アリスは心細くなる。もしかしたら、ナイトメアの病室など行かずに彼女がどこかに行ってしまいそうだった。 「アリス?」 動かないアリスにグレイが気遣わしげに声をかける。アリスは目覚めたようにはっとして、彼に続いた。医者の話を聞き、ナイトメアに更にうんざりしなければいけない。 背の高いグレイのそばにいると、なぜか先ほどのエリオットと重なる気がした。はとても安心したようにエリオットに笑いかけていた。例えばブラッドに対する緊張や、ナイトメアに対する呆れなど微塵も見せずに、女らしい顔をして。 「ねぇ、グレイ」 「なんだ? アリス」 「とても変なことを聞くけれど、がナイトメアを叱りつけたときどんな顔をしていた?」 早口で言い終えると、グレイがちょっと不思議そうな顔をした。それから本当に唐突だな、と言って、頬を掻く。彼の金の目が色彩を変えて黄土色になる。 「なんというか、切羽詰ったような顔をしていたな。彼女にしては珍しく、ひどく余裕がなかった」 「…………そう」 「それに、俺もはじめて見たが…………少し泣きそうでもあったな」 泣きそう、だった? アリスは戸惑うように視線を彷徨わせる。彼女は一度として―――アリスが会ってからと言う意味で一度も―――泣いたことなどない。ユリウスに呼ばれてと引き合わせられたとき、すでに彼女は自分がどうすればいいのか知っている様子だった。はじめましてと力強く握手をして、色々教えてねと微笑んだ。彼女はあのときから、一本芯があるような女性だった。滞在先を紹介してほしいと言ったときも彼女はマフィアにもハートの城にも遊園地にもすぐに入り込んでしまった。怖気づくことなどなく、見たものを見たまますっかり取り入れてしまった。自由な風のようだと思った。いつ消えても可笑しくない、気まぐれな風のようだと。 「ねぇ、グレイ。引っ越しのあと、はどんな感じだった?」 アリスは取りとめもなく質問をする。本当は知っているのに、自分とは違う彼女の変化が欲しかった。 引っ越しのあと、すぐにアリスはの元に走った。時計塔と遊園地が消えていたので彼女がいないことも想定できてはいたのだが、それでもなぜか彼女も移動したように思えた。思ったとおり、彼女はクローバーの塔に弾かれていた。ナイトメアとグレイと話し込んでいた彼女はアリスを見つけるとふわりと微笑んだ。いつものように、欠けたものなどない日常の延長線上から切り取った笑顔だった。 あのときすでにはユリウスから離れたことを知っていたのだし、自分がこの世界に馴染んでいないことが原因であることもわかっていた。彼女の心の拠りどころであったはずのユリウスから離されたというのに、どうしてあんなに穏やかな顔をしていられたのだろうか。それとも、アリスが駆けつける前に説明を聞きながら少しでも淋しげな表情をしたのだろうか。 グレイは思い出すように視線を宙に浮かせ、答える。 「寝起きのようだった。まぁ事実、起き抜けだったんだろうが」 「まぁね。人が寝ている間に移動したんだもの」 「それで塔を彷徨っているところをナイトメア様が導いて、引っ越しのことを伝えた。…………混乱はしていたが、動揺はしていなかったな」 「…………本当に?」 ほとんど縋るように尋ねた。ユリウスはいないと告げられて、もう会えないと言われたのに、彼女は平気だったのだろうか。 私だったら、とアリスは思う。ハートの城の面々に会えないと言われたら、動揺してしまうだろう。もしかしたらみっともなく泣き出してしまうかもしれない。 「…………ユリウスはいないのに、はちっとも悲しそうじゃなかったの?」 ぽつりと零したのは願いだった。アリスは彼女があの偏屈と一緒にいてくれることを、願っていた。彼女たちが一緒にいたところなどあまり見なかったけれど、ある種の平和がそこにあったように感じていたし、事実ユリウスはを気に入っていたように思う。 「…………以前から気にはなっていたのだが」 グレイが静かに問う。 「は、時計屋の女だったのか?」 彼にしては下世話な言い方に、アリスは眉をしかめる。 「違うわ。とユリウスは、そんな関係じゃなかった」 そうでなければ、は弾かれることなどなかった。そうであればよかったのに、とアリスは言いたい。 「しかし帽子屋はひどく時計屋を嫌っているだろう。昔からかもしれないが、最近は彼女のことに対して」 「それは…………」 「加えて騎士もそうだ。あの男は一体何がしたいんだ? を混乱させているとしか思えない」 混乱。アリスは同じ城に住まう―――彼は部屋になどたどり着けないが―――騎士を思い出す。エースは確かにを混乱させていた。恨みでもあるかのように、エースはに接する。 「でも、前はそんなことなかったのよ。引っ越す前はそんなじゃなかったの」 「…………そうなのか?」 「まぁエースはまともなときがあまりないけれど…………それでも今より安定していたわ。けれど引っ越してからエースは可笑しいの。何がって具体的には言えないんだけれど」 エースの変化はもちろん可笑しいが、に変化がないことも可笑しかった。依存していたはずなのに、はちっともそれを表に出さない。それとも、依存しているように見えて彼女は最初から自分ひとりだけでちゃんと立っていられたのだろうか。 「ねぇ、グレイ」 アリスは心もとなくなって尋ねる。本当はに帰ってほしくない自分がいる。けれどのようにきっぱりと帰ると断言できない自分を恥じ入る心もあるので、彼女にそんなことを望めやしなかった。責任を放り出した自分が、誰かに何かを強制することなど出来ないのだ。ましてやの心をでっち上げてまで、この世界を選ばせるようなマネはしたくない。 グレイは首を傾げる。彼はこの世界でまともな部類に入る人間だ。と一緒にいつも話していた。 「…………グレイは、が帰ることについてどう思う?」 自分でもどうしようもない質問をしたと思う。けれど真面目な彼は真面目な顔をして、実に誠実な答えを返してくれる。 「出来るなら留まってほしい。それでナイトメア様と一緒になっていただければ、俺としては嬉しい。なにせ、たった一言で病院に行かせた女性だからな」 「…………そ、そう」 「あぁ。は実に得がたい女性だ。…………そういう女性は、相応しい地位の方の傍にいるのが幸せだろう」 ふと淋しそうにグレイが言う。淋しそうというよりは諦めているような顔だった。 「もしが時計屋のことを思っていないのなら、こちら側に留まってもらいたいと俺は望んでいるよ。帽子屋でも女王のところでもなく、クローバーの塔に」 曖昧な表情を隠すようにグレイはそう締めくくる。彼は「クローバーの塔に」と言った。自分のところに、ではなく。 彼らしい、誠実で控えめなナイトメアを思った返答だ。彼はエリオットとは違い堅実に主君に仕えている。 「ねぇ、グレイ」 アリスはそんなグレイに微笑む。苦笑に近く、彼の友人らしく。 「はとてもいい子なのに、どうして本人だけがそれを知らないのかしら。そしてどうして、それをちゃんと知っている人が、彼女をちゃんと捕まえていてくれないのかしら」 呟いた声は自問に似ていて、グレイは返答することはできなかった。 |
ただ、きみの強さを呪う
(08.12.01)