「具合はどう? ナイトメア」


グレイの誘いを断って、わたしはナイトメアの病室を尋ねた。アリスはグレイと一緒にお医者様のところに行ってしまったので、わたしは結局ひとりで彼のもとに来たことになる。
病室らしい、横に引く形の扉の向こうにナイトメアはいた。パイプが寒々しいベッドの上の、白いシーツの上に白い布団をかけられた、まるでちゃんとした病人みたいな格好をして。ナイトメアはわたしが来たことに頭だけをこちらに寄せて、少し気まずそうな顔をする。その白く細い腕には、かわいそうだとさえ思える点滴の管が刺さっている。
わたしはベッド脇にあった椅子に座り、彼をじっと見る。


「本当に病人みたいね」
「…………私はいつだって病弱だったろう」
「そうね。でも、ちゃんと安静にしてなきゃ病人扱いしたくならないんだもの」


グレイや他の部下のように、先天的な父性を発揮して彼に構ってあげるほどわたしは優しくない。もちろん可哀想だし放っておけないのだが、それだって義務をこなしてからでなければフェアじゃないと思っている。病人の義務、というのも可笑しいけれど。
ナイトメアは罰が悪そうに、わたしを見る。まるで怒られた子どもが親を窺うように、もう怒ってないか、尋ねたいが気後れしているのだとわかる仕草。


「もう怒ってない。…………わたしも言いすぎたしね。ごめん」


だから、わたしは自分からそう言ってやる。彼は少しだけほっとした顔をした。
わたしなんかの言葉で一喜一憂するなんて馬鹿げていると感じてはいたけれど、男性というのは総じてどこかしら可笑しな部分を持ち合わせているのも経験上知っていたので気にしない。今はナイトメアがちゃんと点滴を受けていることが大事なのだ。


「それで、入院はしないの?」
「入院などしない。…………し、しばらくは通院する。こんな場所にずっといるなんて地獄だ…………!!」


青い顔を更に青くさせるナイトメアは本当に病人ぽい。
わたしは、「そう」とだけ言って、入院を無理に進めたりはしなかった。なにしろ通院すると自分で言い出したことだって奇跡的なのだ。グレイが聞いたら泣いて喜ぶに違いない。
わたしはくすくすと笑う。この人が大人しくしていることが嬉しい。


「…………?」
「うん。なに?」
「いったい、どうしたんだ? 君らしくもなく動揺してるじゃあないか」


ぴたりと笑うのをやめて、わたしはナイトメアを凝視した。バレたというよりは、まったく思いがけない問いだった。どうしたんだ、なんてわたしが聞きたい。
ナイトメアは起き上がれないので、わたしが彼を見なければ瞳はあわせられない。


「動揺? わたしが?」
「している。ちらりとだが、君の心が読めた。アリスと何か話したんだろう? 彼女は何を言ったんだ。君をこんなに動揺させるなんて」


まるでわたしの代わりにアリスに尋ねてやるといった勢いでナイトメアが言う。わたしはちょっとだけ彼の能力が恨めしくなった。こんなときばかり、わたしの心を読むナイトメア。普段はちっとも読めないくせに。


「勘違いよ、ナイトメア。わたしはアリスのせいでどうにかなってるわけじゃないの。動揺しているのはアリスだし、わたしは…………そうね。彼女の話にちょっと興奮してるだけ」


言ってみて、果たして本当にそうなのか自分でも自信がなかった。興奮したのは数秒だった気がする。そのあとは、淋しくなったり心もとなくなったり、彼の言うように動揺してばかりだ。
彼女の変化は、わたしが望んだものだったはずなのに、どうして考えに反して心はじたばたと暴れるのだろう。まるでわたしがそれを望んでいたということでさえ、嘘だったと叫んでいるようだ。


「…………


ナイトメアがわたしを呼ぶ。わたしはきちんと彼を見据えて、「なに?」と辛うじて微笑む。けれど意識は彼を離れていた。
アリスの告白は、わたしの望んだとおり恋愛のそれだった。
―――――――ペーターにキスされたの。
嬉しいというよりは憤慨して、けれど本気で怒っている様子でもなかったアリスは、女の子らしく可憐で弱々しかった。ベッドの中でわたしは感嘆の声をあげた。彼女が嫌がらない程度に祝福の言葉を送り―――結局嫌がられたけれど――――彼女に訪れた変化が、これからもっと大きく波及していくことを予想した。彼女は意識を持って、ペーターに許したのだ。今までのように無意識ではなく、意識的に迎え入れた彼はすでに彼女の中で別格に位置づけられているだろう。
一度線を越えたなら、もう落ちるしかない。恋愛というのは、つまりいつも崖っぷちから始まるものだと思う。落ちたら最後だけれど、気をつけなければ落ちはしない。ちゃんと後ろに崖があることを確認していれば。


「…………?」
「ねぇ、ナイトメア。あなた達は、アリスを置いていかないでね」


ペーターは元より、彼らの誰一人としてアリスを残していくべきではない。彼女は望んでこの世界に残ったのだし、何が起こってもそれは自己責任のうちに入るのかもしれないのだけれど、それでも言わずにはおれなかった。
誰もアリスから離れないでほしい。この世界の唯一の余所者になるであろうアリス。
ナイトメアは、わたしのことを真っ直ぐに見つめる。この世界の他の住人のように無機質な瞳で。


「…………私たちは置いていったりしないさ」


慰めではなく当然のことだとでも言うような、ナイトメアの声。
わたしは笑顔を上手く作れなくなる。彼は続ける。


「君たちが置いていかない限りね」


いつかここを離れるわたしは、彼の言葉に改めて自覚する。わたしは彼も含めて、この世界全部を置き去りにして戻るのだ。


「それは、責めているの?」


弱々しい声に、自分でたじろぐ。そんなことを言うつもりはなかった。責めているの、なんて、尋ねる権利はない。
けれどそこで、ナイトメアは笑った。あまりにも無邪気な、気を許した笑い方だったのでわたしは呆気にとられる。ぽかんとしてしまう。


「責めているわけじゃあない。…………だが、いいな。君の今の表情、私は好きだ」
「な、は、え?」
「ひどく動揺して、感情をちゃんと表にだしていたぞ。可愛らしかった。私の言葉に動揺してくれたのなんて、初めてだろ」


だから嬉しい、とナイトメアは笑う。血色がよくなった彼は、だから本当に嬉しいのだとわかった。わたしは途端にとてつもなく恥ずかしくなった。


「ば、馬鹿じゃないの」
「馬鹿? 馬鹿じゃあないさ。愚かではあるかもしれないが」


くつくつとひどく余裕そうにナイトメアは笑う。
わたしは徐々に赤くなっていく頬に手をあてて隠そうとしながら、この病弱な夢魔に負けているのは一体なぜだろうかと考える。考えれば考えていくうちに、頬は熱さを増していく。


「…………顔が赤いな」
「か、可愛いなんて言うからでしょう。可愛いのはわたしじゃなくてアリスだもの」
「アリス? …………それは好みの問題じゃあないか。確かに彼女も可愛いが、私にとっては君のほうが可愛らしい」


ナイトメアのくせにすらすらと吐き出される甘ったるい台詞に、わたしは若干の目眩を覚える。こんなふうにまっすぐに受け止めてしまったのは始めてだった。ブラッドやエリオットに褒められても冗談で済ませたり意識のどこかでお義理だと理解していたので、ちゃんと受け止めたのは、だから本当に初めてだった。
可愛らしい。なんて破壊力だろう。まるで言ってもらったことのない、魅力的な言葉のようにさえ思えてしまう。
」ナイトメアが呼ぶ。歌うように上機嫌な声に、わたしは不機嫌になる。


「なに」
「…………むくれているのを見るのも、いいな」
「馬鹿言ってないで。いったいどうしちゃったのよ」
「どうした、か。それは君だろう?」


灰色とも銀色ともつかないナイトメアの髪がさらりと頬にかかっている。ナイトメアは左目をわたしの心に据えようとでもするように、ただひたすらに見つめる。


「君は時計屋と離れてから感情的になってる。徐々にだがね」


ユリウスと離れてから、感情的になっている?
わたしはナイトメアの瞳を見返しながら、意味がよくわからないという顔をした。実際、よくわからなかった。無感動に生きてきたつもりはない。けれど、ユリウスと一緒にいたときナイトメアの言葉に動揺したことなどなかった。


―――――――代わりなのね。


アリスの声が蘇る。あの淋しそうな声は、いったい誰に向けられていたのだろう。ナイトメアの言っていることも、アリスのぽつりと漏らした言葉も、それを瞬間的にはちっとも理解できなかったのは、わたしがそれまで放ったらかしにしていたからなのかもしれない。




















憐れにも足掻くあなたは愛しい





(08.12.01)