しばらくして、医者の話を聞き終えたアリスとグレイが戻ってきた。わたしは彼らとの話もそこそこに切り上げて帽子屋屋敷に戻ることを告げる。とても混乱していたので落ち着かなくてはいけないと思ったし、それは帰る道順や屋敷の部屋の中にあるのかもしれないと考えていたからだ。 グレイが心配そうに送っていこうと申し出てくれたけれど断り、もうすぐ会合だから注意して、というアリスの言葉に頷きわたしはもくもくと歩いた。 自分に起きている変化が――それが他人から見ればあからさまなのだということが――さっぱりわからないというのは、不安だった。 「おかえり、」 歩くことに集中しすぎていて、その人がいることにさえ気づかなかった。顔をあげるとそこには門番よろしく佇むブラッドがいた。双子の姿は見えない。時間帯は、いつのまにか夕方になっていた。 「た、だいま。ブラッド」 夕暮れの赤の中で、彼は貼り付けた笑みを浮かべてわたしを見ている。ぞくり、と悪寒が走る。怖いなんて思う暇はなかった。圧倒的で単純な恐怖が、脳で理解するよりも早く体の深い部分に伝わる。本能は逃げろと叫んでいた。けれど、体は恐怖に従順だ。 「お嬢さん。そろそろ会合だ。退屈で無意味な集会」 何度も聞いたことのある口上が彼の唇からすべらかに流れる。笑ってなど居ないのに、まるで嘲笑するかのように聞こえた。暗く深く、赤に染まった笑顔。 「しかも、唯一退屈を紛らわせてくれるはずの君は実に人気者ときている。――――そこでだ」 ふっと、ブラッドの口元が見事な三日月になる。悪魔の口みたいだ、と回らない頭で思った。ステッキがくるり、ぱしん、と彼の手の中に収まった。赤い赤い夕暮れに彩られた真っ黒なブラッド。 「たった今から会合が終わるまで、お嬢さんは屋敷の者以外と二人きりで会うのを禁止する。君は短い間だが、私達のお客人だ。他の誰の機嫌など取らずとも、私たちだけを楽しませればいい。…………わかったね?」 彼は尋ねているのではない。理解したかと問うている。 わたしはなんとか頷いて、頷いた自分自身が何について理解したのかまったくわからなかった。ただ目の前の人を、臨界点突破まで不機嫌にさせたのは自分であることだけわかっていた。アリスの危惧していた通り、彼はわたしが出歩くことをよく思っていなかったのだ。 混乱することばかりで頭がついてゆかなかった。どうして、とも、なぜ、ともわたしは誰かに問うことが出来ない。投げ出すのならもっと早くにそうすべきだった。 ブラッドはわたしに背を向けて屋敷に戻っていく。背中にさえ殺気を漂わせたボスは、けれどわたしに傷ひとつ付けなかった。それは多分、奇跡に近いできごと。 「………」 夕暮れに染まる空を見上げ目を閉じた。遠くでクジラが鳴いている。海の生物である彼らが、どうして陸にいるのかは未だに理解できない。けれど、その様子はわたしのようで同情してしまう。まったくの手違いで、わたしは資格もないのにこの世界にいる。 ユリウスの声を思い出そうと一生懸命考えたけれど、混乱する頭ではうまく思い描けなかった。 記憶が遠くなる。わたしはどれだけ間違いを犯してしまったのだろう。 |
徹底的に
深く傷付かなければ分からない
(08.12.01)