はちゃんと屋敷に戻れたのだろうか。
ハートの城で赤いメイド服に身を包んだアリスは、ぼんやりと空を見上げながらそう思う。天気は晴れだ。そして晴れの日がいつもそうであるように、爽やかな陽射しと気持ちのいい青空が広がっている。
あの日――二人でナイトメアの見舞いにいった日だ――本当はを帰すことが怖かった。
理由を問われれば明確な回答はできないが、それでもあのときはひどく不安定そうだったし、常の彼女ではないように思えた。すぐにどこかに行かなければと焦っているくせにその「どこか」を自分でも測りかねているようだった。けれど帰る場所は今、帽子屋屋敷だけだ。そのためにそこに帰る―――――そのように見えた。そして常の彼女でなければ、いつもやり過ごしてきた様々なものが彼女を襲うかもしれないという懸念もあった。
――――――ブラッドが。
を尋ねて帽子屋屋敷を訪ねたとき、ブラッドはひどく苛々していた。お茶を用意してくれたけれど、そのくせお茶になど感心はなさそうだった。あのブラッドが、だ。


『…………は、なんだってあの騎士なんか待っていたんだ?』


何気なさを装って、けれど話の核心はそこにあるのだとわからせるようにブラッドは言った。アリスは紅茶のカップを片手に考える。ブラッドに、がエースに送った伝言を話すべきかどうかについて。


『…………知らないわ。でも、何か言いたいことがあったみたい』


逡巡してから、アリスは答えた。その一瞬の間は、ブラッドに隠し事をしたと雄弁に語っていただろう。けれど、それをわざわざ話させるようなことをブラッドはしない。
ブラッドに言ってもどうにもならないだろうとアリスは思っていた。はエース同様にブラッドを苦手としている節がある。同じでなくとも、好んでいるわけではない、と言った感じに。アリスに言わせれば、それはが二人の本質を知らないだけなのだ。もっと話をしてみたり、近づいてみたりすれば理解し合えるのに、は上辺や肩書きだけで恐れてしまっている。
ブラッドは、そのことにも苛々しているようだった。彼女は自分を避けないようにしているが、それが返って自分から彼女を避けさせている、と苦々しく語った。ブラッドは、多分、正しい。はやんわりと―――けれどはっきりと――――拒絶する。


「どうしたんです? アリス」


ぼうっとしていると、声をかけられた。もう何度も呼ばれている声は、聞きなれすぎてしまったものだ。
ペーターはいつものように仕事を放り出して、自分の元にきている。キスを許したというのに、彼はそれを「アリスが自分を好きだから」という理由なしに納得してしまっていた。だから、関係は以前と同じままだ。甘やかな雰囲気になどならない。


「…………のことを考えていたのよ」
「またですか。あの余所者はどうしてあなたに迷惑ばかりかけるんでしょうね」


いっそ殺したいけど、そんなことをしたらアリスは僕のことを嫌いになっちゃうでしょう?
まったく悪気などなく、ペーターは続ける。彼は何気なく―――それこそ息をするのと同じ風に――――人を殺せてしまう。アリス以外だったら、すべて同じなのだ。余所者だからといって、をアリスのように崇めることをしない。ただアリスにだけ注がれる情熱を、随分うっとおしいと感じたこともあった。けれど今は、その特別が少しだけ嬉しいと感じ始めている。


「えぇ。を殺したら、ペーターを嫌いになるわ。それだけじゃなく、このお城からも出て行くし、出来るんなら元の世界にも帰る」


まったく出来るなどとは思わなかったけれど、アリスに出来る精一杯で彼に脅しをかける。自分を代償にするやり方でしか、アリスもも取引できない。何も持っていない余所者は、だからこういったときとても不便だと思った。
けれどこのウサギにはとても有効な手段だ。彼は「わかりました」と素直に肩を竦める。こうなってしまえば、ペーターがに危害を加える心配だけはせずに済む。それだけこのウサギは自分に従順なのだ。


「…………アリス?」
「なに?ペーター」
「あなたは、あの余所者が好きなんですか? …………その、帰ってしまったら寂しいと思います?」


不意に心細そうにペーターが尋ねる。
アリスはもうすでにこのウサギにある程度心を許してしまっていたので、その問いに深読みはしなかった。睫毛を伏せ、少し遠くをみる。


「…………寂しいと思うわ」
「そう、ですか」
「でも、が帰る前に何かに巻き込まれて死んでしまうのはもっと悲しい。結局私とはどこか似ているのよ」


この世界に呼ばれた彼女は―――彼女自身はまったくの手違いだと主張するが――――けれど、意味があったからこそ呼ばれたのだとアリスは思っていた。そんな宅急便の届け間違いみたいな形で、あっさりと落ちてしまっていい場所などではない。
白兎がアリスを呼ぶ。もうすぐ会合です、行きましょう。アリスがペーターに感じる好意を知ろうともしない、哀れで愛しいウサギだ。
アリスは少し微笑む。もうそろそろ、自分ももお互いに隠し事などせず話し合えるような仲になりたい。それは好きな相手が出来たからこその余裕なのかもしれなかったけれど、アリスはただとても気持ちが晴れ晴れとしていたので、憂鬱な会合に赴く足どりもいつもより軽かった。


―――――――――だからとても驚いたのだ。が会合にあんなふうに現れたことに対して、とても驚いた。そしてとても、苦しかった。






























(08.12.13)