役割を与えられると安心する。ボスのお怒りを受けてから会合が始まるまで、はただ本当に聞き分けのいい子を演じきった。ドレスの試着から寸法あわせ、一通りのマナーなどを急ピッチで叩き込まれたというのに、それがほとんど苦痛ではなかったのは、それ以上の苦痛がブラッドから与えられると思っていたからかもしれない。ブラッドは一晩で上辺だけの淑女を作り上げた。もちろん、わたしのことだ。長く話せばボロが出るし、本質は何も変えられていない。 それから自分たち以外楽しませるなという命令―――あまりにも自分勝手だが、これも自業自得な命令――――も、よくよく考えれば二人きりでいなければいいというわけだし、贔屓目に見ればボスは意外と寛大なのかもしれないとさえ思う。 それに、わたしよりもわたしの周辺の方が慌しかった。前回の会合では持っていかなかった武器弾薬まで準備している彼らにわたしは薄ら寒いものを感じた。いったい何が始まるというのだ。 会合に参加したときもそうだった。三度目の会合だからといくらか気を抜いて―――もちろんブラッドの言うようにマナーを守り、彼の腕をとって―――――いたのに、あのざわめきと動揺の嵐はなんなのだろう。決して慌てたりしてはいけないというので、瞳を伏せてやり過ごし周囲を見ないことで心を落ち着けたのだが、なかなか会合は始まらなかった。 「…………君が美しいから、皆見てるんだ」 ひそひそとブラッドが小声で囁く。わたしは皮肉めいて唇が持ち上がるのを見られないようにして手袋で覆う。 「まさか」 まったく信用していないわたしに、ブラッドは小さく肩を竦めただけだった。 やはり、ブラッドに手を引かれたのがまずかったと考えるのが妥当だろう。彼は忘れてしまいがちだがマフィアのボスでこの世界では数えるほどしか居ない役持ちなのだ。その彼に手を引かれ、あまつさえ椅を引いてもらった女性などいないに違いない。いや、本当はそんな女性もいるんじゃないかと―――実際、ブラッドはモテるのだからそんな人もいたかもしれないと―――考えてしまった自分が悪い。彼は公私混同しない人だ。いくら他でモテていたとしても、公の場であんなことはしない人なのだ。 退屈な会合が始まり、だらだらと長い口上をナイトメアが読み上げている最中も、ブラッドの隣だと思うと背筋がしゃんとした。この人は怒らせるともちろん怖いけれど、怒らせなければさほどは怖くないのだ。話題も豊富であるし、会合の最中もたびたびわたしに意見を求め、体調を気遣った。 あんなに怖い目にあったというのに――――夕暮れのブラッドには二度と会いたくないほどの恐怖だ―――この人は上手に恐ろしさを使い分ける。 「?」 「うん? じゃなくて、はい。ブラッド」 「よろしい。会合は終了だ。…………行こうか」 いつのまにか今日の集まりは終わっていたらしい。わたしは目を瞬かせ、彼の出した手があまりにも自然だったので思わず掴んでしまった。掴んでから、しまったと思う。掴まなければブラッドの機嫌を損ねていただろうが、掴んでしまった今、また注目を集める結果になってしまったことだろう。そう思うと居たたまれない。わたしはすっと瞳を伏せて、来たとおり戻るしかなくなった。 「ねぇ、ブラッド」 本当はボスと呼ぶべきなのかもしれないのに、彼にはそれも「禁止」させられている。 そして彼も今回から「お嬢さん」と呼ばなくなった。 「なんだ、」 彼の腕に捕まっているのでいつもよりヒールの高い靴を履いている。今回一番気に入っているのはこのハイヒールだ。誰も見ていなかったかもしれないが―――背の馬鹿高い連中ばかりが回りに居ては見えない―――かかとの部分があみこみのようになり、ワンポイントに薔薇が添えられた漆黒のこの靴がわたしは一目で好きになった。ハートの城ではビバルディよりもヒールの高い靴は履けないし、森は論外、クローバーの塔に至っては部下は上司を支えることに四苦八苦しているのでわたしを構っている暇などない。だから、この靴は帽子屋屋敷でしか履かれない。その靴を履き、ちゃんとリードしてくれるのは、きっとその中でもブラッドだけなのだ。 「みんな、驚いてたよね」 「あぁ、驚いていたな」 「どうしてだと思う?」 「さぁ、君はどうしてだと思うんだ?」 意味のないやりとりをして、わたしとブラッドは同時に微笑んだ。なぜかなど関係なく、わたしもブラッドも驚いてる人々を見るのが楽しかったらしい。嫌なやつだ。 わたしはブラッドの怒りに触れてからというもの、以前から機能していないと感じていた部分が―――あるいは壊れつつあったものが――――完全に停止してしまったことを知った。それが何か、などというのはまさに秩序だ。わたしの中の、わたしのルール。壊してはいけなかった、それはユリウスとわたしで作り上げてきたものだった。 それが破綻してしまったわたしは、だからブラッドの隣でも平気でいられる。壊れていなければこの人の隣で平静でいられるわけがない。とっくに逃げ出しているに決まっている。けれどそれが壊れたということが、以前よりもはっきりとわたしの意識の中にルールを浮き彫りにした。 しばらく歩き、わたしに宛がわれた部屋の前で止まる。それから彼はゆっくりとわたしを見た。 「しばらく休んでいるといい。用のあるときは呼ぶ」 「えぇ。わかった」 「護衛をつけよう…………エリオット」 静かに呼ぶと、それまで黙っていたエリオットがわたしの隣に立った。 「彼女を守れ。敵は殺せ」 「…………あぁ。了解したぜ、ブラッド」 にやっと笑ったエリオットはウサギ耳が見えないせいでただのマフィアだった。 わたしは部屋に通され、エリオットがあぶなっかしく座らせてくれるのを楽しみながら―――彼はまるでわたしを脆い飴細工のように扱う―――メイドの淹れてくれたお茶を飲んだ。ブラッドが居ないので、今回はエリオットの好きなにんじん茶だ。わたしはこのお茶が、存外好きだった。 「…………エリオット、お仕事はいいの?わたしの護衛なんかじゃなく」 温かなカップに口をつけながら言うと、彼はさも可笑しがるように笑う。大きな口で笑うものだから、わたしはそのたびに少し嬉しくなる。彼は嬉しがることも、ちゃんと素直だ。 「何言ってるんだ? これは立派な仕事だぜ!なにせブラッドに任せられた仕事だからな!」 「…………そ、そう」 「それに。今は本当に危ねぇんだから、ブラッドでも俺でも双子でも―――ピアスは頼りねぇけど―――誰でもいいから、俺らの仲間から離れないでくれよ」 「あぶない?」 わたしは瞳を大きくさせる。どこかとの抗争でも始まるのだろうか。 けれどウサギ耳のナンバー2は、違うと首を振る。 「…………アンタをあんなふうに紹介したから、良くも悪くも目立っちまったろ? だから、これからアンタは狙われるかもしれねぇ」 「紹介って…………。わたしは誰にも挨拶していないのに?」 「は? あれだけ注目集めりゃ充分紹介だろ」 ウサギさんはあっけらかんと言い、にんじん茶を啜っている。 マフィアの常識を一般人であるわたしに―――しかも異世界から飛ばされてきた人間に―――当てはめないで欲しい。彼が言うにも全員が集まる、ああいった場所で振舞ったことはすべて周知の事実として受け入れられるらしい。それが例え帰ると豪語していた余所者だとしても。 わたしは目眩を覚え、椅子の肘起きにくたりと横になる。 「お、おい。大丈夫か、?」 「大丈夫じゃない。それじゃあ、なに? わたしはブラッドに手を引かれるくらいの人物ってことになってしまっているわけなの」 わたしがキッと睨みつけると、嘘が上手ではないエリオットはそっぽを向いて「あ〜ま〜」などと言っている。わたしは頭を抱えた。考えの及ばなかったわたしも馬鹿だが、そんなことを考えて行動するブラッドも馬鹿だ。 わたしはため息をつく。重苦しい胸のうちが少しでも晴れるように。 「…………本当は何にもないのに、そう言ったジェスチャーをするのね」 事実などなくとも、ポーズをとれば周囲は認める。認めてしまえば、否応なく当てはめられてしまう。それが風評というものだ。 例えばそれがありえないことでも――――マフィアの妻だが愛人だかが、こんな小娘だとしても―――それと認められる事実さえあれば、認められてしまうのだ。 「けど」 けど、とは思う。夕暮れ時のブラッドは本当に怖かった。わたしを縛り付けた恐怖は未だに忘れられない。しかし、恐怖が去った後に残った感情は後悔だった。 信じられないことだがわたしは、ブラッドにあんな顔させたくなかったのに、という後悔をしていた。 「けど、これがブラッドのしたいことなら、そう動くしかないのね」 なにより、わたしはあのとき頷いてしまっている。断るべきときは過ぎ去ってしまったのだ。 わたしのあまりの落胆ぶりにエリオットは少し気まずそうにはしたけれど、存外穏やかで嬉しい口調で言う。 「でもよ、俺はブラッドのしてることに賛成だぜ。アンタってすぐに帰るって言うだろ? 何かにつけて。だけど、それだって縛っちまえば帰れねぇ」 縛るつもりなの、とわたしは頭の中で考える。 「あ、もちろん物理的にってことじゃあねぇよ。アンタにそんなことしねぇ。でも心を縛ればどこにだって行けねぇだろ。アンタがマフィアに馴染んで…………つーのはあんまりないと思うけどよ。それでも俺らをもっと知って、捨てていくには惜しいってくらいにでかい存在になればって俺は思うぜ」 捨てる、と言ったときのエリオットは自分で自分をひどく傷つけた笑顔を見せた。馬鹿な人だ。わたしは駆け寄って引っぱたいてやりたくなる。けれど、それはエリオットがわたしの手を取ったので出来はしなかった。 「アンタが俺らを捨てるのは仕方のないことだと思ってた。アンタの幸せを願えば仕方ネェって。でも、ブラッドは諦めたりしてねぇ。主人が諦めねぇなら、犬の俺が諦めたりしていいわけないよな」 照れくさそうに笑う彼は、年甲斐もなく可愛らしい。わたしは右手を引かれたまま、宙ぶらりんのそれを見ていた。真っ黒な手袋越しにエリオットが口付けるのを、ただじっと見ているしかなかった。 「絶対に帰さねぇ。だから覚悟しとけよ、」 わたしは目眩よりも何よりも、目の前の男性が誰かがわからなくなった。遅れて心臓が鳴り出し、警報がわんわんと五月蝿く鳴り響く。 壊れてしまったルールがもっと形をなくそうとするので、わたしは必死に内容を思い出そうとする。戻ってきて、ユリウス。あまりにも身勝手にもわたしは願う。けれどそれがあまりにも切実なので、心の中で自分をあざ笑った。 戻らなくていい、ユリウス。後始末は、わたしがつけなくちゃあならない。 |
覚悟以上の決意が必要なら
(08.12.13)