ブラッドの「用事」はなかなか始まらなかった。わたしは言われた通り宛がわれた部屋でお茶を飲みながら彼に呼ばれるのを待っていた。ソファに座り、持ってきていた文庫本を読みながら、けれどどうしても集中などできずに同じ行を何度も何度も読んでしまう。好きな作家の本だというのにまったく読み進むことが出来ない。 だからといって、本を読まずにいることなどできなかった。この部屋には今、エリオットとメイドの二人がいる。メイドは部屋の壁側に立っており―――座ったら、と言ったら「これも仕事ですので」と断られた――――エリオットは熱心に銃の手入れをしている。その中でわたしがいっそ物思いにふけろうものなら―――考え事をするとき、わたしは目を瞑ったり一点を見つめたりしてしまう。ひとつのことにしか集中できないのだ―――彼らに声をかけられ、嫌でも思考を中断せねばならない。 わたしは文庫本に隠れてそっとため息をつく。エリオットはなぜ、あんなことを言ったのだろう。 ―――――――――諦めない、だなんて。 わたしはとっくの昔に帰ることを決めているのに、どうして彼らが今になってわたしの決心を覆すことが出来るのだろう。わたしが流されやすい人種だからと言って、そこまで従順ではない。それに、わたしの問題であるこれらについて、どうして彼らが「諦めない」という言葉を使用してしまえるんだろう。まるで一度は諦めたことがあるように聞こえるのは、なんだかずるい。わたしよりも苦しんでいたのは彼らみたいな言い回しじゃないか。 わたしはちらりとエリオットを見た。彼に聞いてみたいことは山ほどある。特にブラッドについて、本当に彼がわたしについて「諦めない」などと言ったのかどうかを。あの自分のしたいことしかしない傍若無人を体現した彼が、わたしについて何かを「諦め」て「許し」ていたというのなら、どうして今になって心変わりをしてしまったのだろう。 視線を感じたのかエリオットが耳と一緒に顔をあげる。優しげに「どうした?」と笑うと、わたしは彼に何でも許せてしまいそうになる。ウサギは得だ。 わたしはいくらか迷って―――このウサギでもあり犬でもある大男が正直に口を割るか否か―――、結局口をつぐんだ。自分の求める答えは得られないような、嫌な予感がした。 こんこん。ノックの音が響き、メイドが返事をする。エリオットが立ち上がり、に手を差し出した。 「なに?」 「――――――ブラッドの用事だろ」 立ち上がったわたしはメイドがエリオットに目配せしたのを見る。本当に、犬みたいなウサギだ。 エリオットの腕をとって歩き出す。履きなれないハイヒールに、つま先が痛み出していた。 呼ばれた場所は、クローバーの塔にある小さなホールだった。洒落た椅子とテーブルが並べられ、カードゲームに勤しめるようになっているそこは、けれどゲームに興じる場と言うよりは喫煙所と言えるほど白く包まれている。なんだってこう、ギャンブルに通じる男は煙草が好きなんだろうか。 わたしは一番いい位置に陣取っているブラッドたちの輪の中に、エリオットと一緒に入り込む。わたしが近づいてブラッドの隣に座るのを、カードを握りしめ輪になる男たちにじろじろと見られたが気にしないふりをして笑っておいた。こういうとき、文化は違えどぶすっとしているのは好感をもたれない。 連れてきてくれたエリオットにお礼を言って、ブラッドに瞳をあわせる。彼は葉巻を吸っていた。煙たいのは一緒のくせに、煙草よりも甘いにおいがする。 「…………呼んだ? ブラッド」 「あぁ。どうだ、君も混ざるか」 「いい。そういう気分じゃないの」 わたしは笑ったまま彼の差し出した手札を断る。カードゲームは好きだったけれど、こういった場所で―――知らない男たちにじろじろ見られながら―――集中できるとは思えない。煙草の煙が頭をふらふらさせるのも、原因のひとつだった。 わたしは彼の隣で、それからいくつかゲームを観賞した。ブラッドは予想通りに強く、理不尽に強引な押しの強さがあった。交わされる会話はわたしのことを露骨にたずねないものの、その本質はわたしだとしか思えないものばかりで、げんなりした。参加しないゲームも、加われない会話も面白くない。ブラッドはのらりくらりと言葉を交わしながら、わたしのことはオブラートに包んではっきりとした名言は避けている。そのくせ、わたしのことはいちいちと気遣うものだから――――煙たくないか、気分は悪くないか、何か飲み物でも持ってこさせるか――――彼らしくもない言動の数々に驚かざるを得ず、けれど淑女らしく微笑んで断るしかできないのがもどかしかった。先ほどからエリオットは、唇の端をあげるだけの笑いを浮かべている。まるで、自分までも誇らしいというように。 「ブラッド」 「…………ん?」 「……………………なんでもない」 二、三度口を開きかけてやめた。問いかけるために口を開いたつもりだった。どうしてこんなことをするの、と誰が見ているのも憚らずに言うつもりでもあった。もちろんわたしにはその権利があると思ったし、無謀さを兼ね備えた勇気だってあった。 ブラッドの横顔はいつもどおりだ。少しだけ笑った顔が、珍しいように思う意外は特段変わらない。けれどわたしの質問は喉から先に進めない。彼はボスで、わたしは寄る辺のない余所者だ。この輪の中で、帰る場所を持たないのはわたしだけ。そして、責任も重圧もこの世界で持っていないのもわたしだけなのだ。だからわたしはそれだけで不躾だと考える問いをできないでいる。 「?」 頭の隅、考えなければいけないものが麻痺して動かない。考えたくない、と思うし、それは逃げだと思う声も確かにある。 ブラッドがカードを持ったまま、わたしの顔を覗く。その瞳が正しいか正しくないか、もしくは嘘を映しているのか真実を宿しているのか、なんてことをわたしはもう考えられない。ブラッドのターンだったのか、輪の中の全員がわたしを見ていた。 「…………ごめんなさい。少し疲れたみたい」 瞳を伏せる。わたしにはないものを全て持っているくせに、無意味な彼らは気付かない。 ここにいる意味を持たないのはわたしなのに、ブラッドもエリオットも理由付けをしようとしているみたいだ。例えば、こんなふうに強引なやり方で。 「大丈夫か?…………気分が悪いなら医者を」 「いい。疲れただけなの」 「…………そうか。ではエリオットに送らせる」 ブラッドが目配せすると、エリオットが近づいてわたしの傍で膝を折った。その腕につかまり、輪を囲む顔なしの面々に一礼をし、わたしは背を向ける。ブラッドはそれ以上なにも言わず、わたしも何もいえなかった。 たぶん、彼はわたしの言いたいことも言えないこともわかっているに違いない。全てとは言わないけれど、その根本的な卑屈さを知っている。わたしとアリスはよく似ていて、それでいて全く違うので、それさえ理解すれば容易く解けていくだろう。わたしという人間の底は驚くほど浅い。 エリオットの腕に半ば寄りかかるようにして部屋まで歩き、ようやくベッドに腰掛けると、じんじんと悲鳴をあげる足をさすった。10センチもあるピンヒールはさすがに慣れていなければ難しい。彼はそんなわたしを面白そうに見て、あいさつをしてブラッドのところへ戻った。彼はどこまでも忠実で健気な、わたしの思い通りにはいかないウサギだ。 もう今日はベッドで休もう。ヒールを脱ぎ、シャワーを浴びようと立ち上がって初めて部屋の隅にいるメイドに気付いた。もちろん彼女はファミリーの一員だ。構成員らしくスーツに身を包む彼女に、わたしは曖昧に笑う。気付かなかったこちらも悪いけれど、エリオットが出て行ったのだから彼女も出て行ってほしかった。 「ごめん。わたし、あなたに何か頼みごとをした? ブラッドはわたしに何も言わなかったから、もう戻ってもいいと思うんだけど」 「いいえ。お傍を離れるなとご命令を受けておりますので」 「は?」 目を見開き、同時に彼の声が蘇る。 これから会合が終わるまで、屋敷のもの以外と二人きりで会うのを禁止する。 彼がそのための手段も方法もわたしには教えなかったことを、今更ながらに理解した。二人きりで会わないことを確認するためにはどうすればいいか。そんなことは簡単だ。四六時中傍に張り付いて監視すればいい。誰と会い、どんな会話をし、一々の反応や対応を知るのにこんなにいい方法はないだろう。 わたしはただ呆然とメイドであり同僚であり、たった今わたしの檻となった彼女を見る。あんまり見るものだから困惑した顔をさせてしまい、とうとう謝らせてしまったのだけれど――――どうしました、お嬢様。私なにか粗相をしたのでしょうか――――それでもわたしは自分の愚かさに呆然とするばかりだった。 いつまでたっても考えが甘いのだ。自分が傷つけられない保障も自信もないくせに。 視線をはずしてわたしはひっそりと笑った。赤くなったつま先から、いっそ血が出てしまえばいいのにと思う。 |
どれほど巧妙に角や爪を隠すのでしょうか
(09.02.17)