どうしてなんて聞くのはすでに諦めていたし、諦めることに関してわたしはとてもあっさりとしていたので、帽子屋ファミリーに入ることさえ受け入れてしまえとやけになりながら思っていたことは事実だ。けれど実際にはそんなことは無理だった。入ることや出ること、つまりは参加することは完全にタブーだ。この世界の全員が持っている権利を、けれどわたしは行使してはならない。しないのではなく、してはならないのなら、それはどうしたって覆してはいけないことだった。 「様、起きてください。そろそろ会合のお時間です」 目を覚ますと、昨日と同じ服―――喪服のように黒く、ブラッドのように赤く、マフィアを象徴するように挑発的なドレス――ーに、着替えるようメイドが促した。屋敷では誰も彼もが仕事のできる人であったために、わたしは顔の見えない彼女にすべて身を委ねていればまもなく準備は整ってしまった。鏡にうつるのは見事なお人形だ。皺の流れさえも職人技を思わせる、現実味をもたせようと苦心した人形。わたしはくっきりと赤くなった唇を持ち上げて笑ってみせる。笑顔の練習をしないと、どこか欠けたように生気のないものになりそうだった。 ブラッドはわたしを会合に呼びたいのだろうか。また先日と同じように、隣に据え置いて周囲に何かしらの間違った情報を植えつけたいのだろうか。そんなことをしても彼には何のメリットもないはずなのに、わざわざ周囲の不況を買いにいくには相当の理由が―――絶対的な、認めざるを得ないもの―――あるのだろうか。リボンの位置を直すメイドを視線の端で捕らえながら、わたしは質問したくなる。きっと彼女だって知らない、帽子屋屋敷を統率する男の心理を、口にだして問いただしたい。 「…………どうされました? 様」 視線に気付いたのか、メイドが顔をあげた。じっと見つめるけれど、彼女の顔はやはり見えない。アリスは、「それでも長く付き合えば見えてくるものよ」と言ったけれど、わたしにはこの世界で顔なしの表情というものにお目にかかったことはなかった。長く滞在をしないからだ、と理由付けはすでに済んでいる。けれどわたし自身が望んでいないからだなどという不都合な本音は、いったい誰が詰ってくれるのだろう。 顔の見えないメイドは、わたしの無言に戸惑っているようだった。 「…………なんでもない。あなた、寝ていないでしょう? だから大丈夫かなって」 嘘をつくことが悪いことだなんて思わなかったので、わたしは上手にそう言いのけた。 メイドはその見えない目元を赤くさせ、「いいえ」と手を振り慌てた。いいえいいえ、様に心配していただくようなことはございません―――――答えながら、嬉しそうに「でもありがとうございます」などというものだから、わたしは本当に胸が痛んだ。嘘をついたことなどではなく、自分が彼女にとって価値のある人物になってしまっていることが悲しかった。随分傲慢な思い上がりではあるのだけれど、わたしは彼女であれ誰であれ、大切だと思われることが恐ろしくなってしまっていたのだ。 「大丈夫ならいい。ありがとう」 早口で言い、わたしは彼女と目をあわせないように一瞬瞳をつむった。その一瞬で彼女がわたしを、わたしが彼女を、瞳を捕らえながら話すということをしなくてよくなることを知っていた。息が詰まるのは、わたしが未だに誰の期待も裏切れないからだ。裏切るくせに、わたしは誰にでも優しいふりをする。 考えよう、考えなければいけない。どうしてこうなってしまったのか。どうしてわたしはここでこんなふうに迷って、傷つけて、そのくせ立ち止まったまま動かないのか。ユリウスと一緒にいたときのわたしは少なくとも冷静に物事を見定められていたのだし、誰にも罪悪感を抱くことなどなかった。わたしは帰る、あなたたちは残る。それがすべてで正しかった。もちろんアリスさえも置いていくわたしは、どうしてあんなにも清々しくその瞬間を待っていられたのだろう。正しいことは姿を変えてなどいないはずなのに。 ユリウスと離れてクローバーの世界を歩いた時間の中に、わたしを変える為に誰かが何かをしたという覚えはない。だとすれば、変えたのは紛れもなくわたし自身だ。 「さぁ、行こうか。」 やがて訪れたブラッドは、いつものように奇妙な服を見事に着こなし、綺麗な顔で笑っていた。わたしは椅子に座り、彼が差し出してくれた手を見る。指先から腕を見る。流れるように視線を動かし、彼の細部をよくよく眺めた。上から下まで見つめたあと、あまりにも可笑しな話なのだけれどわたしはやっと納得した。感覚的なことで、もちろんそんなことを考えながら生活などしていないから今までずっと気付かなかったのだけれど、彼はちゃんとここに「存在」していた。 わたしの前、たった一歩の距離、形のいい指を向けて、彼は存在する。 「どうした、」 「…………」 「……………………どこか可笑しなところでもあるのか? あるなら言ってくれ。黙っていては直しようがない」 「…………」 全部、と言いたくなってやめた。ひとつも、と言おうとしてこれもやめた。 わたしは一度瞳を閉じ、すぐに開けて彼の指に自分のものをすべりこませた。ブラッドとは随分違う、女性らしいと言えなくもない貧相な指だ。きゅっと握ると彼の指は意外に固く、存外に力強かった。男の人の手はこんな感じだったっけ、とわたしは遠くにいる自分に問いかける。 「…………温かい」 「そうか? 平熱だろう。…………それに」 ゆっくりと引き上げられ、腰が浮く。ブラッドと目線が近くなり、彼の瞳のまたたきや揺らめきに自分が映し出されているのが見えた。わたしがここにいることを、ブラッドは認識している。手を引かれているわたしを、彼のやっていることを何ひとつ尋ねないわたしを見ている。思っていることなんて分からないけれど、この男が微笑んでわたしを見ているのは紛れもない事実だ。 大きくて少しばかり硬い手で、わたしの手を握ったままのブラッドは今まで見たどんな彼よりも鮮やかだった。 「の方が温かいだろう」 お前はここにいる、と言われた気がした。もちろんブラッドにそんなつもりはないと思うし、思い込みであるとはわかっているのだけれど、それは直感みたいなものだったので信じるほかになかった。熱の問題などではなく、わたしの脳が手足をかけ離れた場所にあったのだ。心と体がうまく並んで歩いていなかった、と言い換えてもいい。それはわたしにしかわからないことだ。今までずっと精神を手放していたわたしにしかわからないこと。 ブラッドに手を引かれ、会合に向かったわたしは毅然と顔をあげていた。周囲を見渡すために目をしっかり開きブラッドの腕にしっかりと捕まり、ひとりひとりの顔をよく確かめた。視線をずらすたびにわたしの視線はひとりひとりと絡み合い、相手の瞳を吸い込んでいく。随分違う瞳たちばかりで、素直に驚いた。心が洗われるというのはこういうことかもしれない。大量の水をかけられたびしょ濡れのわたしは、やっと周囲の人の熱を感じ取れた。新鮮な空気にわたしは泣きたくなって、ぐっと堪えた。嬉しいとか悲しいとか、そんな心の機微ではなくて単純に、わたしは泣きたかった。赤ん坊のように無防備な姿で泣きたかった。水を大量にかけられただけじゃ、洗い流せない部分を綺麗にするために。 だからわたしは代わりに笑った。これが世界かと笑ってやった。今までに見たものも感じたものもなんだったのかと思って、けれど不足があったわけではないことを感じて、戻ってきたわたしの大切な五感は正常に働きだす。 |
空ろな心臓の所有者
(09.04.26)