世界が一瞬にして覚めるような色を持ち始めたのだと言ったなら、大半の人が『この人に何かとても大変なことが起きたのかもしれない』と思うだろうし、少数の人が『きっと久々に眼鏡を綺麗に拭いたんじゃないか』という上手いジョークを言うだろう。けれど、わたしはどちらでもなかった。わたしの目の前で起きている世界の変革は、何か大変なことが起きた結果でもなければ何かのせいでもなかった。わたしの見方や考え方がちょっとずれただけに過ぎない。テーブルから立ち上がったり、影から出た瞬間のような、たった一歩の距離を少し移動しただけの、ごくわずかな変化にこんなにも戸惑っているのだ。 けれど、その変化はわたしに劇的な効果をもたらした。すべての輪郭がはっきりとし始め、同時に濃い影を落とし始めている。 「どうしたの、お姉さん」 あまりにもはっきりとし始めた―――もちろん、わたしの中でのみ限定だろう―――町並みを見ていると、双子が両脇で不思議そうに尋ねた。彼らは大人の姿だった。随分背が高くなった彼らは―――それでもエリオットより小さいとぼやいているのだけれど――わたしの両脇をボディガードよろしくがっちりと固めている。彼らはわたしの護衛をブラッドに頼まれたのだと誇らしげに主張した。だからお姉さん、僕らから離れちゃいけないよ。今の僕らにはお姉さん以上に大切なものなんてないんだから。彼らはまったく照れずにそう言った台詞を言い放つ。 「大丈夫だから、ディー」 「そう? ちょっと休憩しようか。お姉さんのヒールは高すぎるよ」 「そうだよ。兄弟の言うとおりだ。お姉さんの足はとっても綺麗だけど、そのヒールは高すぎる」 二人の腕を取りながらでもなければ歩けないヒールを指して、二人はため息をついた。散歩をしたいと言えば、ブラッドは渋ることなく許可してくれた。けれど靴を替えようと提案する双子に、それだけは許さなかった。の靴は、それでいい。お前たちが手を貸してやればいいだろう。 歩けないほどではないにしろ、このピンヒールはゆうに8センチはある。歩くにしては高すぎるし、散歩なんて絶対に向かない。普段のわたしならとっくにスニーカーなりパンプスなりに替えているだろうけど、今はそうとはいかなかった。わたしは笑って、「わかった」とブラッドに微笑むしかない。 ディーが近くのカフェテラスの一角にわたしを導いて座らせた。痛み始めた足は、それだけでほっと安堵の息を吐く。前日よりはよほどマシだが、まだ慣れない靴はわたしに厳しかった。 「痛い? お姉さん。塔に戻ろうか?」 「そうだよ。別に町なんかに出なくても、中で僕らと遊んだ方が楽しいよ」 「…………ううん。違うの。中じゃ意味がないのよ、二人とも」 わたしは小さく頭を振って、彼らを交互に見た。赤と青の瞳、長さの違う髪、背が高く若々しい彼らは素直な瞳でこちらを見返している。それらはきっと前回の会合時と何一つ変わらないのだろう。だから、彼らのことをこんなにも新鮮に見つめるわたし自身が可笑しいのだ。 立体になり始めている、と頭の隅で考えた。今までずっと平面だったものが現実味を持って輪郭を現し、浮き上がろうとしている。 「ディーもダムも遊びたいのにごめんね。歩けもしないのに、散歩に行きたいなんて言って」 「そんなことないよ、お姉さん」 「そうだよ。僕たち、心配してたんだ。だからお姉さんが無事でとても嬉しいんだよ」 「…………無事?」 驚いて見せてから、あぁ彼らの目にもブラッドは相当お怒りに見えるのだなぁとぼんやり考えた。せっかく世界がクリアになったというのに、自分に対する危機感だけは相変わらず薄いと自嘲する。 「無事だよ。ブラッドはそんなにひどい人じゃあないもの」 「…………ひ、ひどい人じゃない?」 「…………そりゃ、お姉さんにはそうかもしれないけど」 双子の頬が引きつって、心もち微妙な表情をする。残虐無比なブラッディツインズにこんな顔をさせるのは帽子屋屋敷の主くらいだろう。双子の悪さを許しているブラッドは、だからそれ以上のことをしていると考えてもおかしくはないのにどうしてか忘れてしまう。 「そうね。少なくともわたしにとっては、そんなに悪い人じゃあないだけかもね」 例え他の誰も楽しませるなと言われたところで、望まない待遇を与えられようとしたところで、結局彼を憎みきることができない。ブラッドは不思議な人だった。 考えれば考えるだけ、物事がはっきりとしてくる。形を持ち、歴史を持ち、意味を持つすべてのものたち。わたしが決めてきたすべてのルールが、それらに並んでようやく見えてきた気がした。どうしてそんな「ルール」を作ってしまったかということも、ちゃんと思い出さなければいけない。 なぜわたしはあんなにも帰りたかったのだろう。そしてどうして今、そんなことすらちゃんと考えようとしている自分がいるのだろう。 「ねぇ、ディー。ダム」 なぁに、お姉さん。 二人は違う瞳で同じように純粋な部分を向けてくれる。その瞳を見た途端に、自分が何を言いたいのかわからなくなってしまった。彼らはここにいることに疑問などなく、斧を振り上げることも振り下ろすことも躊躇なくやってのけてしまうだろう。こうやって散歩をすることすら「どうして」と考えてしまうわたしとは大違いだ。 「…………逃げたい、と思うことはある?」 「逃げたい? そんなこと思ったことないよ。いつも逃げたいと思うのは僕らと戦うやつらだろうし」 「そうだね。兄弟の言うとおり、逃げたいなんて考えたこともない」 「じゃあ、不安に思うことは?」 「どうだろ。いきなり質問するんだね、お姉さん」 「でも僕らは大人だからちゃんと答えてあげるよ。不安、不安、不安…………給料がちゃんと振り込まれているかはときどき不安になるよ」 「それと休日!次の時間帯が休みで、だけどすごく短く終わっちゃうんじゃないかって不安!」 「休日は大事だよね。お姉さんとも遊べなくなっちゃうし、罠も仕掛けられない」 「ひよこウサギを馬鹿にして遊ぶだけじゃつまらないよ。やっぱりお姉さんと遊んだりしなきゃ、楽しくない」 ぽんぽんと返される言葉をちゃんと彼らが『考えているかどうか』は疑わしかったけれど『生きている』ことに間違いはなかった。彼らもブラッド同様、わたしの瞳の奥限定でやっとこの世に生まれ出でたのだ。両手を使ってあれやこれやと言い合う二人を見て、わたしはひっそりと笑った。その光景が微笑ましかった。彼らは無邪気な分だけ元気なので疲れるけれど、一緒にいると知らず癒してくれる。 次第に質問の路線を変えていく二人に、「何か飲み物を買ってくるから」と言い置いて立ち上がる。足休めだけに使っては悪い。大分足も回復してきたからと余裕で立ち上がったわたしは、けれど双子に背を向けた数歩の距離で足首からがくんと力をなくしてしまった。 「「お姉さん?!」」 二人の綺麗なハーモニー。わたしは体が右斜めに急激に倒れていくのを感じてはいたものの、もう片方のピンヒールでは踏ん張ることも体制を立て直すこともできなかった。せめて受身だけでもと手を伸ばす。しかし、それらはすべて柔らかな動作で受け止められた。 くるはずだった衝撃が訪れず恐る恐る瞳を開くと、不恰好に突っ張った腕ごとわたしを支えてくれていたのはグレイだった。 「大丈夫か、」 なぜここに、なんて言葉は出てこなかった。随分びっくりしたわたしは彼の胸に全体重を預けたまま、「え、あ、うん」と間抜けな返事をした。ヒールが高すぎて体制を立て直すにしてもどうしたらいいのかわからないのだ。くっついた彼の胸から、心臓とは明らかに違う別の音が聞こえた。 「立てるか?」 「いや、ちょっと無理、かも。足元が見えなくて…………」 「では少し我慢してくれ。すぐだ」 言うなり、グレイはわたしの突っ張った腕も転び損ねて絡んだ足もすんなり抱き上げた。すぐ近くで二人がぎゃあぎゃあ喚いている。離せよトカゲ男!お姉さんが嫌がってるだろ! しかしグレイは顔色一つ変えずに元いた場所にわたしを恭しく座らせた。さすがに毎日病人と過ごしているだけはある。人の扱いに手馴れている動作だった。 「すまない。こうするのが手っ取り早そうだった」 「あ、うん…………わたしの方こそ」 ごめんなさい、と言い切らないうちにジャキン!とわたしの目の前で斧が交差した。 そう広くもないカフェの真っ只中で双子が斧を抜いたのだ。グレイが瞳を細めた。 「…………何のつもりだ?」 「それはこっちの台詞だよ。どうしてお前がここにいるんだ。兄弟、さっきまでここにはこいつの気配なんてしなかったよね」 「うん、しなかった。コイツどころか役持ちのヤツがいる気配なんてなかった。…………なのにどうしてこんなところにいるんだ。もしかしてお姉さんを狙ってるの」 双子たちの瞳から笑みが消え、代わりに闇が覆う。本気だ、と思ったのは向かい合ってもいないのに殺気がひしひしと感じられたからだ。周囲の顔なしの人々がざわざわと引いていく。けれどグレイは双子たちの剣幕にちっとも同様していなかった。ナイフを抜くことすらしない。 「俺はナイトメア様の部下だ。気配どころか感情も消していなければ務まらない」 「そんなことしらないよ」 「そうそう、肝心なのはどうしてお前がここにいるかってことだ」 「それなら話は早い。ナイトメア様が店の前で急に気分を悪くされたんだ。歩けないというから置いてきたが、ジュースが飲みたいなどと言われるので買いに来た。……………………これで満足か?」 グレイは自分でも心底呆れているといった表情でため息をつき、すいと指先を走らせる。その先には紛れもなくナイトメアが真っ青な顔で店の前のベンチに座っていた。営業妨害も甚だしいと思われるほどぐったりしている。 けれど双子たちは殺気を微塵も抑えようとしなかった。今にも動き出しそうな斧の威力をわたしは間近で見たことがある。それがここで行使されるということが、怖かった。 「ディー!ダム!」 気付いたら、叫んでいた。二人は弾かれるように体を開いて、顔をわたしに向ける。斧だけはグレイに向けているのですぐにでも飛び込めるようにしているのだろう。けれどわたしはこちらに向けられた二人の顔に表情が戻っていることに安堵していた。 「やめて。グレイはわたしを助けてくれたの。それだけでしょ」 「でも」 「でもじゃない。第一わたしはそんなこと望んでないし、戦う理由だってない。お願いだから………………やめなさい」 いっそ悲痛な面持ちで命令するわたしに双子は渋々斧を下ろした。グレイはそんな二人を見ながら、肩を上下させる。もし双子が斧を振り上げようものならグレイは応戦していたろう。彼はナイフを操ればエースに匹敵するといわれている。双子は強いけれど、エースには勝てたことがないのだ。わたしは彼らが怪我をするのも悔しい思いをするのも嫌だった。 「グレイ、ごめんなさい。それに助けてくれてありがとう」 「いや、いい。俺こそ驚かせて悪かった」 「ううん、わたしが足元をよく見てなかったから…………」 「……………」 「……………………グレイ?」 黄土色よりは黄色がかった瞳がわたしをじっと見つめている。けれどそれも数秒で、すぐに彼は「それじゃ、俺はこれで」と言い置いて背を向けた。 去っていく後姿に双子は何がしかの禁止ワードを投げつけていたけれど、わたしはそれどころじゃなかった。支えられたとき、あの胸の奥から聞こえた音が耳から離れない。心臓ではない、心臓音よりも規則正しい音がまだこだましているようだった。あの音をわたしは随分懐かしいと感じた。胸から聞こえたあの音が、ひどく懐かしい。 |
流星痕
(09.04.25)