カチカチカチカチカチ。
頭の中はすっかりその音で埋め尽くされていた。クローバーの塔に戻り、双子たちと昼ごはんを食べて、彼らがエリオットに呼ばれていくまでずっと、音はわたしの体全体に響いている。まるで体をめぐる血液から、音が滲みできているみたいだった。
ベッドの端に腰掛け、まったく動かずにわたしは目を閉じる。もっと音が聞きたかった。その音がわたしのどんな記憶から漏れ出しているのかということを、思い出したかった。その音は確かに懐かしく、親しいもののように思えた。けれどはっきりとした記憶がない。この音をどこで誰と聞いたのか、どうしてこんなにも懐かしく穏やかな気持ちにさせてくれるのか。わたしはわたしに問いかける。ねぇ、どうやったらこの音がこんなに染み入ってしまう体になれるの。


「…………」


瞳を開けて、緑と黒を基調とした格子柄の天井を吸い込む。黙っていると、記憶どころか意識さえもどこかに飛んでいってみつけだせなくなってしまいそうだ。髪型をきっちりと結い上げているせいで寝そべることさえもできないのが辛い。
部屋の隅では黒服を着込んだマフィアのメイドが静かに控えている。もう彼女たちの仕事には口を挟まないことにしていたので、出て行ってほしいと思うことすらしなくなっていた。彼女たちが傍にいるということは、なによりわたしの安全に他ならないのだ。
室内に二人でいるというのに、一人よりも孤独だった。言葉が通じないわけではなく、知らないもの同士でもないのに、こんなふうに生活しているのは可笑しい。まるで動物園みたいだ。同種の動物を、同じ檻にいれたような違和感が伝わらない情景。


(ねぇ、あなたの胸にも時計があるんでしょう?)


心の中だけで呟いて、わたしはそんなことも口にだせない自分の臆病さを笑う。
この世界の住人がわたしとは違う生き方をしているのは最初からわかっていたけれど―――顔なし、だなんて非人間的なものがあるくらいだ―――ユリウスの仕事にくっついてエースのもう一つの顔を知ってしまった今はあの頃よりずっと落ち着いて受け止められている。ユリウスは昼も夜も夕方も、もちろんそれらが何度繰り返しても時計を直し続けていた。彼が直していたのがわたしで言うところの心臓であるというならば、彼は随分この世界を愛していたのだろう。ユリウスに言ったなら、とても嫌そうな顔をして否定される言葉だけれど―――始めに正気かといわれ、仕事だと論理的に説明された後、勝手にしろと突き放されるに違いない―――わたしにはそうとしか思えない。この世界を終わらせることも出来る彼は、痛々しいほどの繊細さで世界を維持している。根暗でも、外に出ることが嫌いでも、もちろん人嫌いであってもこの世界を心のどこかで愛していなければできない作業だ。


カチカチカチカチカチカチカチ。


ユリウスの部屋は、いつも時計の音しかしていなかった。特に話すこともなかったので、わたしは彼との時間を多くの時計と共有していた。無音で無言であることは滅多になく、いつも時計の音がしていた。彼に直されて息を吹き返し、いつのまにかどこかに消えていく時計たち。わたしは機械油にまみれた彼の指先を見つめ、その時計はいったい誰になるのだろうと思いを馳せた。たぶん、わたしには認識できない顔なしの誰かになるのだけれど、その表情をユリウスは見ることがあるのだろうか。わたしになど見えなくとも、彼は自分が必死で直した誰かが生きているこの世界で生きている。
それはなんて残酷で滑稽な、慈しむべき世界なのだろう。ユリウスが内に籠もる理由もわかる気がする。自分が作り出した人々の世界は、自分を受け入れてなどくれない。だって彼らは当然のように生まれて、顔なしであろうとなかろうと誰も憎んだりすることがない。けれど、ユリウスは当然のように誰かに恨まれる。誰かを生き返らせることができるというのは、最後に誰かの息を引き取らせるのも彼だからだ。
生と死しか、彼の目には映っていない。彼にとっての世界は重苦しいもので覆われている。


『ユリウスは塔から滅多に出ない根暗だし、君はそんなユリウスを外に連れ出そうとしなかった。塔の中で完結してたからね。誰も二人の関係なんて知らない』


前回の会合でエースに言われた毒を含んだ台詞。けれど、わたしはユリウスを外になんて連れ出したくなんてなかった。外に連れ出して、自分を受け入れていない世界を再確認させて何になるだろう。わたしはそんな彼を前に向かせられるような魔法を知らない。誰か知っているなら教えてほしかった。彼が自然に外に出て、新鮮な空気を吸って太陽の光に目を細め、風の温かさを肌で感じ取れる穏やかな場所で二人きりでいられる方法を教えて欲しかった。
塔の中で完結していたと言われるなら、わたしは彼を守れていたのだろうか。アリスは彼を外に出すべきだと忠告してくれていたが、わたしが外に出ようと誘ったことは一度たりともない。出たいときは一人で出たし、帰りたくなれば帰ってきた。わたしの我侭で彼の心情をいちいち乱すことはない。


『でも、それは君が他のヤツラに興味を持ったからだよ。今みたいに、君は誰も選ぼうとしなかったくせに他のヤツラとひどく仲がよかった。ユリウスは根暗だし嫉妬深いから、君に本音なんて言わなかったんだ』


じゃあ、その本音とやらを聞いて上げられたなら彼は幸せになれたっていうの。
わたしはエースにそう聞いてやりたい。彼が根暗なことは知っていたし、他の滞在先にいくのをよく思っていないこともわかっていた。けれど、わたしは「帰りたいわたし」を裏付けるためにその行動を必要としていた。何より彼はいつも自虐的に―――他の場所にいけばいい。そうすれば、どうしたって帰りたくなるだろう―――言うものだから、そうする他なかった。わたしは彼に従順に見えて、実はとても反発していたのかもしれない。


「ねぇ」


考えて行くうちにどんどん心は澄んでいき、わたしはいっそ清々しくひとりで笑った。今までずっとひとりだったメイドを突然こちら側に召還するように呼んだわたしは、もう孤独ではなかった。
なんですか、と傍に寄るメイドに「もう寝ることにするから」と言う。お風呂に入って寝てしまうから、それをブラッドに伝えて。もう今日はどこにも行かないという意思表示をすると、メイドは恭しく頭を下げ「畏まりました」と返事をした。
バスタブにお湯を張りにいった彼女を見送り、わたしは結い上げた髪をおろす。解放された頭皮が、じんじんと麻痺したように痛んだ。たっぷりとしたお湯に体を沈めて、ひねりそうになった足を揉んで、まだ頭の中で鳴る時計の音に耳を澄まそう。この音はわたしを拒絶しない。
しばらくぶりにぐっすりと眠ったわたしは、奇妙な夢を見た。わたしとユリウスがあの時計塔で二人きりでいる夢だ。草原も暖かな風もないけれど、二人きりの狭苦しい部屋の中でわたしもユリウスも穏やかな顔をしていた。会話はなく、二人の間を満たすものはやはり時計音だった。カチカチカチ、と彼の手の平の中で産声をあげる時計をわたしは愛おしいと思う。

























悲しみを口移しに刻んで



(09.04.25)