ユリウスの夢を見たあとは、なぜかとても心が温かかった。まるで遠い家族に会えたような、安心できる穏やかさだ。胸が高鳴るわけではなく、心の大事な部分が安心したような。 耳の奥で、まだ時計の音は続いている。規則正しく、わたしにすら乱されることなく、リズム感すら感じさせて胸のうちに流れ込んでくるそれらが嬉しかった。 けれど、この音はユリウスとの決定的な記憶ではない気がした。もっと核心的な、具体的なものがあったはずだ。そもそもどうしてこんなにもユリウスに心を開いているのだろうか、という疑問符の答えがあったように感じる。 「どうしたんだ? 」 時計の音に耳を済ませていると、隣を歩くブラッドが気遣わしげな声を出す。この人はわたしが従い始めた日から心配そうな声ばかり出す。あんまり真実味のある声をだすから、うっかり信じてしまいかねない。 わたしは彼の腕にすべらせた自分の手に力を込めて笑った。何でもない、大丈夫だから。わたしの声にはちっとも現実味がない。 時計塔のお膝元にある街を歩いていた。これからブラッドの贔屓にしている店に行くらしい。わたし達は久しぶりに二人きりで、けれど特段の話らしい話もせずに―――ブラッドの紅茶談義を永遠と聞く、いつもと変わらないもの――、その店までの道を歩いた。腕を組んで歩くことが何を示すのかなんてわかっている。周りでざわざわと揺れる顔なしの視線も承知している。けれど女性が落胆した悲鳴をあげる理由がわたしとブラッドにあるという事態が飲み込めない。 レンガ造りのいかにも名店といった風情の店に足を踏み入れ、ブラッドは店員と視線をあわせるだけで席に案内された。思った通りのビップ待遇だ。控えめなピアノが流された店をぐるりと見渡し、わたしは視界の端に映ったものに声をあげた。 ブラッドが怪訝な顔でわたしの視線の先を見つめる。そのときすでにわたしは笑っていた。笑って、相手にわかるように手を振っていた。手を振られた相手はすぐに気付き、すぐにわたしと同じように笑顔になった。 「アリス!」 「!」 同時に叫んだわたし達を、店員が困り気味に見ていた。 会合中はむやみやたらと抗争を起こさないよう協定が設けられている。あくまで出来れば守らなければいけないこと、ではあるけれど今はそれで充分だった。アリスと一緒にいたペーターがブラッドに突然発砲したり、ブラッドが音もなくステッキをマシンガンにするような事態にならずに済んだのは一重に協定のおかげなのだ。 ねぇブラッド、アリスも一緒じゃ駄目?もちろんペーターもって意味だけど。笑顔で頼むわたしはすでにその願いが聞き入れられることを知っていたし、彼も渋々ながらそれを認めた。わたしはブラッドの隣に腰を下ろし、対面するような形で席についている。アリスはわたしを懐かしそうに、そしていつものように心配そうに見つめている。 「元気だった?」 アリスの声は、やっぱり可愛らしい。わたしはそれだけで嬉しくなり、「えぇ」と答えた。それだけ友人に餓えていたのか、と自分でも驚くほどウキウキしていた。テーブルの中で笑っているのはわたしとアリスだけだ。ブラッドは元より、ペーターはすこぶる機嫌が悪い。 「…………まったく、なんで好き好んで貴方なんかとお茶をしなければならないんですか。アリスが言うから仕方がありませんが、大変不愉快です」 「まったく同意権だ。宰相閣下と気が合うなんて気色が悪いがね」 「当たり前です。真似しないでください」 言い合う声を隣で聞きながら、わたしはそれでも微笑む。ブラッドがこんな風に口数が多いのは、最近では珍しかった。わたしの前では殊更会話をしなくなっていた彼は、誰かと憎まれ口を叩くことすらしなくなっていた。 運ばれた紅茶は芳しい香りを放っている。わたしは微笑んで、唇をつける。ペーターは手に持とうとすらしない。 「ですがこれは一体どういうことなんでしょうね。てっきり貴方はそちらの余所者を選んだと思ったのに…………まさか、まだアリスにちょっかいを出す気なんですか?」 「…………なにを言ってるんだ、君は?」 「警告ですよ。優しい僕は、あなたに教えてやってるんです。いくらキャラが被っているからと言ってやっていいことと悪いことがある」 今日の紅茶はアールグレイがベースだな、と思ったところで会話がわたし達に向けられた。尚且つ不穏な雲行きになりそうなところで、あまりにも素っ頓狂な会話が飛び出す。わたしは驚いて紅茶のカップに口をつけたまま固まった。 まさか宰相閣下の口から「キャラ」なんて言葉がでてくるなんて思わなかったし、被ってるなんて業界的な言い回しをするウサギだとも思えなかった。けれど視線の先でやれやれと肩を下ろす彼はまったく正常だ。アリスすら目を丸くさせているというのに。 「私が…………被ってる?」 「そうです。被っています。…………あぁ、本当に不愉快だ。アリスが貴方を気にするのも、僕に似た部分を重ねているからなんですよね」 「いや、どこを重ねろって言うのよ!」 「どこもかしこも、全部ですよ。全部!…………あぁっ、こんなにも似ているなんて僕は僕までも恨めしく思ってしまいそうです…………!」 いち早く我を取り戻したアリスが突っ込むが、頭のいいはずのウサギさんはお花畑から帰ってこない。わたしは熱くなってしまった唇からようやくカップを離した。ブラッドは呆気に取られ、自分の分の紅茶に手をつけてすらいない。 わたしは遠慮がちに尋ねた。 「あのペーター? わたしもどこが被っているのかわからないんだけど」 「…………はぁ。これだから貴女は鈍いんです。被りまくっているじゃないですか。もしかして、貴女の目は節穴なんですか?」 「の目は至って正常だ。私も宰相閣下と似ている部分など全くないと思うがね」 全く、という部分に力を込めてブラッドは言う。明らかに不快指数があがったのがわかった。わたしとアリスは視線を合わせる。まずい。 「そうよ、ペーター。どこが被っているっていうの?」 「あぁアリス…………!認めたくはないのはわかりますが、僕は甘んじてその屈辱を受けましょう!たとえこの男と似ていても、貴女に愛してもらえるんだったらそれを試練とします!」 「いや受け止めなくていいから。そんなわけのわからない試練を与えたつもりもないし」 「あぁ愛おしい人!優しいんですね…………!」 「いやいやいやいや…………」 お花畑だ。わたしは思って、目の前で始まった口論とすら呼べない言い合いに首を傾げる。ペーターがアリスと一緒にいる場合やアリスのことを話す場合は、軸をはずすこともある。けれど、こんなふうに元から違うというのは珍しかった。わたしはちょっと笑いたくなる。ブラッドは苛々し始め、アリスは混乱を極め、ペーターはトリップしているそんな食卓は実は意外と楽しい。 「…………私もじっくり聞きたいものだ。いったい、どこが、似ているんだ?」 「僕は話すことなんて何一つありませんよ。声を聞いているのだって嫌なんですから。協定があるからその顔を潰せもしない」 「…………ねぇペーター。私も聞きたいわ。一体どこが似ているの?」 「お嬢さんもそう言ってるんだ。…………じっくり、出来れば具体的に、話してくれないか」 アリスとブラッドはこのトリップしたウサギさんに何とか歩み寄ろうと必死だ。あくまでウサギひとりのトリップなら問題ないだろうけれど、彼の発言はブラッドもアリスも巻き込んでいた。わたしはひとり、わくわくとした面持ちで話の展開を見守る。 ペーターは片眉を跳ね上げ、やれやれといった表情をブラッドに向けたあと嘆息した。 「仕方がありませんね。アリスが望むから話してあげます。…………アリスが昔付き合っていた男と貴方は似ている。そっくりとも言えるくらい」 「…………」 わたしは横目でブラッドが明らかにむっとしたことを理解する。肌にぴりっと刺さる感触が、アリスにも伝わったはずだ。彼は誰かに似ていると言われるのを常人の感覚よりもひどく嫌悪している。 ウサギは続ける。 「だから僕とキャラが被ってる。…………まったく許しがたいことです」 「は?」 「…………大分、いろいろなことが省略されたと思うんだが」 ブラッドは彼らしくもないくらい忍耐力を発揮していた。アリスも首をかしげている。 アリスが好きだった人がブラッドと似ているという話は聞いたことがあるが、だからといってペーターに似ているはずもない。どこをどう繋げればそうなると言うんだろう。 まったく理解できないわたし達にペーターは心底呆れているような視線を向けた。 「まだ理解できないんですか? あなたはアリスの好きな人と似ている、だから僕とも似ている。たったこれだけじゃあないですか」 「…………私の認識では、君は宰相で、人格は崩壊しているが頭はだけはよかったはずなんだが」 「僕は正常ですよ。貴方に人格が崩壊しているだなんて言われたくありません。…………まったく」 ペーターはさも面倒だというように顔を歪めた。 「つまり、アリスは貴方のような男がタイプだということです。好みだと言ってもいい」 「ほう…………それは光栄だな」 「だからアリスに現在好かれている僕も、貴方に似ているということになるんです。貴方のような男だということに!」 「?!」 「?!」 「?!」 あっち! 声がして、アリスが紅茶を零しているのが見えた。ブラッドも同じく動揺をしている。二人はまさしく呆然としながら、まだ色々と捲くし立てるペーターを見ていた。 彼曰く、好かれているのだから自分はアリスのタイプのはずで、つまりブラッドとも似ているという。わたしはこの短絡的な思考が、いたく気に入った。ペーターにとって人間は同種のものしか好きになれないものだとでも思っているに違いない。そんなことなんてないのに。 重ねて、ペーターは似ていることが侮辱だとかそれでも耐えてみせますとか、アリス愛していますというような言動を叫び倒した。軽く部屋中に響き渡りそうな叫びだ。アリスはすでに突っ込む気力すら失せている。わたしの隣からも苛立ちが消えた。 「宰相殿…………君は」 変わりに満たすのは憐憫と、アリスに向けられる同情だ。 「聞きしに勝る…………電波だな」 ブラッドがやれやれといった表情でそんなことを言うので、わたしはもう耐えられなかった。 ふっふふ!つとめて淑女らしく振舞おうとするけれど、手の間から零れた笑いはどんどん漏れ出す。 「…………ふっふふふ!ははははっ」 「…………?」 「ちょ、どうしたの?」 駄目だ駄目だ。どうしてこの二人はこんなにも落ち着いていられるのだろう! わたしはもう堪え切れなかった。なんて愉快なウサギさん!自分を犬だと思っている彼よりも、ずっとずっと思い込みが激しく自己認識が足りていない! わたしはもう止まらなかった。笑い続け、呼吸困難に陥りそうになり、激しく息を吸う。 「ご、めんなさっ。ちょっと…………お、手洗いに」 慌てて立ち上がり奥に向かった。止まらない上に楽しい。後ろでアリスが私も行くわ、と言った気がした。わたしは狭い通路のドアを開き、共有になっている洗面台の前にたつ。 あっはは!はははははっ!!!!! 遅れてアリスが入ってきたのだけれど、わたしが腰を折り曲げて笑っている姿に一瞬ぎょっとした。でもわたしは愉快すぎてそれどころじゃなかった。好きだから似ている、本当は嫌だけれど好かれているなら我慢する。したいことしかしない、この世界の住人のくせにウサギは従順だ。 涙さえ浮かべてわたしは笑った。久しぶりに笑った気がする。この前こんなに笑ったのは、やっぱりペーターとアリスの会話だった。愛があるから殴られたいのだという、偏った愛情がツボにハマった。この二人は本当に、なんて奇跡的な二人なんだろう。 「…………大丈夫?」 「ふふふふふ」 「大丈夫じゃないみたいね…………」 アリスは呆れながらも背中をさすってくれた。柔らかな手が背骨を上下する。 わたしは堪えるように下を向いて、顔を覆って笑った。もうほとんど収まり始めていたけれど、アリスの手が心地よくてもっとこのままでいたかった。 「ねぇ、」 やがてアリスが囁くようにそっと耳打ちした。わたしは笑い続けることは継続して、頭を傾ける。彼女は、ひどく深刻そうな声だった。 「…………夢で会いましょう?」 夢。聞き入れた瞬間に思い出したのは時計の音とユリウス。穏やかなのに狭苦しく、懐かしかったあの空間。 了承のつもりで頷くと、アリスは「先に戻っているから」と言い置いて先に出て行く。彼女はわたしの置かれている状況をわかってくれているに違いなかった。 夢というのは、たぶんナイトメアとのことだ。あの男は他人の夢にもずかずかと乗り込んでくる。わたしは顔を覆っていた手をはずして、鏡の中の自分と対峙する。 理解したいことをまだ抱えている顔は、けれど昨日よりもすっきりとして見えた。 |
銃口のフレンチ・キス
(09.04.25)