夢で会いましょう。
こんな台詞を言われたら、相手が自分に気があることは百パーセント確実だと言ってもいい。もちろん紳士的に、真面目な顔をして言われたらの場合だ。銃口を向けられながら浮かれてはいけない。けれどわたしに言ってくれたのは男性でも意中の相手でもなく、アリスだった。であれば、その言葉はそっくりそのままの意味だ。
夢の中で、会いましょう。


「…………本当に、呼んだら入れちゃうんだー」


無感動に発した言葉はもちろん、目の前で浮遊する男に向けられている。わたしはベッドに横たわり、ナイトメアの名前を繰り返して呼んだ。今日だけは許してあげるから、どうか夢の中に入れて。その後途切れた意識は、ここで再構築される。


「…………は、入りたいといったのはだろう!」
「うん。そうなんだけど、入りたいって言えば入れちゃうんだなぁって再確認したの」
「それはそうだ。私は夢魔だからな!」


妙なところで胸を張る、自称夢魔。わたしは「問題はどこでわたしの呼びかけを聞いていたのか、ということはプライバシーなんてないんじゃないのか。そこんところは訴えたら勝てるんじゃないかっていうところなんだけど」と問いただしたかったけれど、精神的に弱いこの夢魔が機嫌を損ねたら大変なので黙っておいた。
ほどなくして、ナイトメアがアリスを連れてきた。お待たせ、と微笑む彼女は水色のエプロンドレス姿だ。


「2時間帯ぶり。アリス」
「ホント、よく笑ったわね」


ごめんなさい、と笑いながら謝った。
あんなに笑ったのは久しぶりだ。正確に言えば、ハートの城に滞在したころ以来。わたしはアリスとペーターのやりとりにしばしば呼吸困難になりそうなほどの幸福な笑いを感じる。常識をはずれた場所から心臓を一突きにされるあの瞬間は、何度体験しても鮮やかにわたしを打つ。
アリスは視線を平らかにしながら、それでも最後には肩を落としてやれやれと微笑んだ。


「思ったより、元気そうで安心したわ」
「元気だよ。わたしは虐げられているわけじゃないもの」
「でも、閉じ込められているでしょう」


アリスは、彼女にしては性急に話を確信に触れさせた。わたしは口元だけは笑顔のままで彼女を見る。アリスは聡明で優しい。自分自身を傷つけながらも、ちゃんと相手のことを考えている。たぶん、彼女の求めているものをわたしは持っている。
ナイトメアがそわそわとした面持ちで間に立っていた。


「閉じ込められている、というのはわたしが逃げ出す余地がない場合を言うと思うんだけど」
「…………違うの?」
「アリス。昔、アリスが言ったことを覚えている? わたしがブラッドもエースも苦手だって言ったとき、あなたが言ったこと」


ナイトメアがこちらを向いて、ちょっと首を傾げる仕草をした。わたしの心の置くまでは覗けないこの夢魔が、必死に目を凝らしているのがわかる。
アリスはわたしの目をまっすぐに見ている。まっすぐに、瞳の奥でわたしを捕らえている。こちらのほうがよっぽど窮屈だ。
わたしは臆病者だったので、瞳を伏せた。


「『もっと本質に触れてみればいい。もっと会話をしてみたら、印象なんて変わるかもしれない』…………アリス、あなたは気付いていないかもしれないけどこの世界で一番変わったのはあなただと思う」
「…………?」


アリスの過去を、わたしは詳しく知らない。もうすでに彼女の中でも断片的に強烈な思い出が残っているくらいだろう。けれど、わたしは確信を持って告げる。


「止まった世界であなたは変化した。アリスだけが進もうとしている。進んでるって、わかる速度なの。同じ余所者のわたしだから、わかることだと思うけれど」


伏せた瞳をあげて、アリスを見る。たぶん、わたしは今ひどく惨めだ。
彼女が進んでいることを知っていたし、それがとても羨ましかったことも自覚していた。わたしは自分が立ち止まっているのを知っていたから、それを望んでやっていることもわかっていたから、立ち上がって歩いていく彼女の後姿が眩しかったのだ。わたしはまだここにいなきゃならないのに。
感化されるな。ユリウスの嗜める声が遠い気がする。


「ねぇ、アリス。ナイトメア」


声に出して二人の名前を呼んだとき、わたしは少し怯えてしまった。これから自分が言うことは、たぶん、ルール違反だと思う。わたしとこの世界の約束。そしてなにより、わたしとユリウスとの約束。
けれど心のどこかが早くしゃべってしまえと急いた。本能的に悟ったことに説明などできない。


「わたしは早く帰りたかった。戻りたかった。わたしの居場所がささやかだけれど確実に存在する世界に、逃げたかった」
「…………なぜ」
「だってこのままじゃあ、失ってしまうって思ったの。間違ったものを選んでしまうって」
「…………間違い?」
「そうだよ、アリス。わたしの間違いは、この世界を一瞬でも好きだと思ってしまったこと」


好きだと思ってしまった途端に身震いがした。捨ててしまう世界が、突然わたしを呼び止めた。君はそちらに行くべきじゃあないよと声がしたのだ。振り返れば、なんとも懐かしいものが記憶から溢れていた。当たり前にあった大切なものたちが、わたしを見ていた。家族も友人もかけがえのない思い出も、どうでもいい悩みさえ愛おしく思えた。
幸せを秤にかけるなんて、できるわけがない。それなのにわたしはあのとき重さを推し量ったのだ。ユリウスのいるあの場所で、わたしは人知れず選択を迫られていた。


「…………ユリウスに、何を言ったの」


突然、静かな声でアリスが尋ねた。尋ねるというよりは、その先にある答えを聞かなければという義務的な聞き方だった。けれどアリスの瞳が真面目に悲しそうな光を宿そうとしていたので、あぁ、ユリウスはこの子にとっても友人であったのだ、と理解した。あの孤独まみれの時計屋は、実は友人が多い。
わたしは、わたしが彼に言った言葉を答えるべきかどうか悩んだ。言ってしまえばそれだけなのに、その先にあるものはきっと違ってしまう。だから、わたしはアリスの問いに答えなかった。


「…………ひとところに留まれば、この世界はお前を留めようとするだろう」


代わりにわたしが彼に言われたことを反芻させる。あの時計塔の最上階で、わたしとユリウスがあんなふうに向き合ったのははじめてだった。重苦しいのではなく、二人いるのにひとりで取り残されているような孤独ばかりが胸を締めた。


「ユリウスが教えてくれたのは、この世界との接し方だったの。どうすれば、距離を保っていられるか」


縮めてはいけない距離は、もうすでに自分ではどうしようもない位置まで来ていた。ユリウスはそんなわたしに対処法を教えてくれただけだ。彼なりの親切であり、優しさだったに違いない。
わたしはアリスに視線を合わせて、あわせた瞬間に驚愕した。彼女は音も立てずに泣いていたのだ。ナイトメアさえ今気付いたようだった。


「あ、ありす?!どうして泣いて――――」
「どうして?」


声音が泣いていない。怯えてなどいない声は、彼女の意識が弱くなったわけではないことを物語っている。涙をはらはらと流しながら、アリスはわたしをきつく睨んだ。こんな目で見られたのは始めてだ。


「私はがどんなふうに聞いたのか知らない。どんな思いでユリウスが答えたかわからない。だから決め付けたように言えない。でも、でもね、それは…………それはあんまりだわ」


あんまり、という響きにわたしの罪悪感が首をもたげる。アリスは誰のために泣いているのだろう。ユリウスのためだろうか。けれどそれだけではない気がした。
わたしは慰める言葉も質問も唇にのぼらせることができない。何か言おうと思うのに、全部が喉元で弾かれて戻ってくる。辛うじて言えたのは、多分、一番聞きたかったことだった。


「…………それは、残酷、ということ?」


言ってしまってからそれこそ残酷だと後悔した。アリスの顔がまた悲しげに歪む。わたしはその瞬間に泣きたくなった。どうしてわたしはこの子を泣かせてしまっているんだろう。
…………ぐん!
突然、何かに両腕ごと体を包まれた気がした。自由がきかなくなる。下も上もない夢の空間のはずなのに、地に足が着いていないような浮遊感にわたしは恐怖した。


?!…………帽子屋か!」


ナイトメアが誰もいない中空を睨んでそう言ったけれど、そのときすでにわたしの耳は彼の声を遠く感じていた。五感すべてが支配される。
見るな聞くな話すな触るな、感じるな。圧迫感のある空気が体をしめつける。わたしは必死に抵抗しながら、目を開いているのに閉じていく視界でアリスを見続けた。泣いているアリス、泣かせてしまったアリス、きっとわたしのためにさえ泣いてくれていたアリス。


「…………!」


後ろに引っ張られ、足の先から闇に溶けて行く。強制的な夢からの送還だった。わたしが最後に見たのは、泣きながら名前を呼んでくれる友人の姿だ。アリスはわたしに手を伸ばしてくれた。その手を握って上げられなかったことが、とても悔しい。
わたしはいつもこうだ。失くしたり間違ったりしたときはわからないくせに、誰かが傷つくとこんなにも後悔する。わたしが間違ったのに、どうして誰かが傷つくんだろう。どうしてわたしだけが傷つく選択肢がないのだろう。


「…………おかえり、


奪われた視界が戻ってきたとき、わたしは彼がそこにいることを知っていた。ベッドに寝ているわたしに覆いかぶさるようにして組み伏せていたのはブラッドだ。
彼は闇の中でひどく不機嫌そうだった。見上げているはずなのに、瞳ばかりしか見えてこない。顔の両側にある手が、硬く握られている。わたしは驚きもしなければ、言い訳もしなかった。この結果は知っていたのだ。
わたしは彼との約束を破った。その結果が、招いたことなど知っている






















望んで堕ちる実の月



(09.04.25)