綺麗な人だ、と最初に思った。綺麗なくせに人をひどく恐怖させる色を持った人だ、と感想を持ち、わたしはブラッドを『きっと苦手な人』だと決め付けた。わたしにとって美しいものは恐怖に近く、テリトリに入ることなどなかったのだ。
今だってそうだ。わたしは薄暗い部屋の中でブラッドに押し倒されながら考える。いつのまに入ったのか―――きっとナイトメアやアリスたちと会っていることなど当に知っていたのだろう―――ブラッドはベッドに横たわるわたしに跨り、おはようではなくおかえりと言った。わたしは何も答えない。カーテンの閉められた、町の明かりだけが漏れる部屋は完全な影の世界だ。ブラッドはわたしのことを詰ることもせずにしばらくじっとしていた。怒っているのはわかっていたし、それが彼とのルールであったことからも破ればただでは済まされないことも理解していた。主導権は彼にあるのだというふうに、わたしは彼の両腕の間でまばたきすら惜しんで彼を見つめた。


「…………覚悟は出来ているのか?」


笑っていない瞳は真剣そのもので、血のように赤かった。覚悟をしていたのかと言えば、そんなものはしていないと答えるしかない。わたしは所詮、頭の中で理解していただけなのだ。ブラッドを怒らせたのならどうなるか、など考えたって浮かばない。なぜならそれだけわたしはぬるい場所にいた。ぬるい場所で、それを周囲に許されてのうのうと暮らしていた。


「ナイトメアとアリスと会っていたの。二人きりじゃあない」
「だが我々の仲間は誰もいなかった」
「アリス、ではいけなかった?」


ブラッドは瞳を細めて、「お嬢さんは友人だ」と言い捨てた。仲間と友人の境界線をきっちりと持っているらしい彼らに、わたしは完全に降参だった。それにブラッドに告げずに彼らと会っていた時点で、こうなるかもしれないという予想はついていた。


「…………覚悟なんてしてない。あなただって、してないじゃない」


口をついてでた言葉に、自分自身で驚いた。誰かを責める口調がひどくいやらしかったからだ。ブラッドは顔色ひとつ変えず、「覚悟?」と問う。身を結ばない話ばかりしているせいで、わたしは彼のこんな顔ばかり見ている気がした。


「私がしていない覚悟とやらがあるのなら、ぜひご教授願いたいね」
「…………まるで、苦しかったように言うんだね」
「苦しかったように? …………認めたくはないが、苦しかったさ」


答えたブラッドは、表情をわずかだが変化させた。口元を皮肉的に歪ませ、目元もそれと同じように笑みの形は作っているものの苦々しい様子を醸し出してる。いつものように不遜な顔をしていないだけでも珍しいというのに、彼は考えられないくらいに彼らしくなかった。すべてを支配し、手の内で操り、どんなことも押し通して自分の思い通りにしてしまう人が、こんな顔をすることなどなかったに違いない。
わたしは呆気にとられ、一瞬後ろめたくなる。この人以上に、わたしは真剣に向き合っていないのだ。


「君はふらふらと飛び回ってばかりいる。だれのものにもならず、留まろうともしない。前ばかり見て全部捨ててしまえるんだろう」
「…………」
「…………そんな君を見ていると苛々する。どうして私のものにならない? なぜ、掴んだ腕はふりほどかれる」


目の前にいるというのに、ブラッドの問いはわたしを通り抜けていくようだった。わたしはここにいて、彼に簡単に支配されてしまっているというのに、ブラッドはまったくわたしが見えていないのだ。それはなんだか悲しい。ずっと願ってきたことだけれど、いなくなることを前提にしたわたしは幽霊のようだ。諦めてもらうように、徐々に消える存在でなくてはならなかったとしても、では今ここにいるわたしは一体なに。
誰かに価値があると認められるような人物にはなってはいけなかった。けれど、そんなものは建前だ。わたしはこの世界で価値がある「余所者」だと言われたとき素直に嬉しかった。君は特別だといわれるたびに、卑屈な心が甘く溶かされていった。
ブラッドの手がわたしの胸の上に移動する。ちょうど心臓の真上に置かれた手は簡単にそれを覆ってしまう大きさだった。


「君の心臓を抉ってしまいたい。そうすれば、もうどこへも行かず誰とも口を聞くこともない」
「…………それじゃあ、死んじゃう」
「余所者でも死ぬか。それでも、君を手に入れるにはこれしかない」


力が込められ、肺を圧迫したので呼吸が苦しい。わたしは彼の瞳と腕と手を見ながら、先日の目覚めを思った。この人だって、わたしから見れば「生きている」人なのだ。生きていて、言葉を交わした、誰にも代わることのできない人物。それなのに、この世界の住人は聞き入れようとしない。疑って迷って諦めて、結局自己完結してしまう。


「…………ユリウスと一緒なのね」


彼も同じだった。わたしはずっと一緒にいたのだし、彼の傍で二人だけの時間だって随分あった。それなのに、彼はわたしを見ていなかった。「いなくなる」わたしばかりを見て、今のわたしを見てくれようともしなかった。
捨てていく側の身勝手な願いだとはわかっていたのに、それでもわたしはずっと淋しかったのだ。少なくとも、あなたの前に座っているわたしはどこにも行かないよと言いたかった。


「…………一緒?」
「?!」


声色が、怒気を含んで冷たくなる。瞳が冷静さを欠いたように思えた。次の瞬間に憎々しげに歪められた目元が、わたしを蔑んでいた。驚いて大きく目を見開いたわたしは、自分の浅はかさを呪った。思ったことを口に出すのがいつも最良じゃないなんて、小さい子どもでも知っている。


「私がユリウス・モンレーと一緒、ねぇ」
「ち、ちが…………そういう意味じゃ」
「どういう意味でも、君はそう思ったんだろう?」


どんどん気温が下がっていくように感じた。肌にぴりぴりとした苛立ちを感じて、彼が先程より段違いで気分を害したのがわかる。息が詰まるような怒りに押しつぶされそうだった。それなのにブラッドは表情だけは緩やかに微笑み、随分愉快そうだ。赤い目だけが冷たく固まっている。


「君を捕らえることもできず、思いを伝えることもせず、しまいには引き剥がされた臆病者…………時計屋と私が同一だというのは笑えない話だ」
「…………やめ、て。ユリウスは」
「聞きたくないな。…………しばらく黙っていたまえ」


言い訳を紡ごうとした唇が酸素ごと奪われる。ぎしり、とスプリングが軋んだのはわたしがわずかばかりの抵抗をしたからだ。反射に近かったその行為はブラッドを更に煽ってしまったらしい。経験の少ないわたしは唇から舌が差し込まれた場合の対処方法も、どのようにすれば息ができるのかもわからなかった。ぐるぐると混乱する頭の中ではっきり見開いた目がブラッドを写す。咥内を犯されているくせに、彼の表情をはっきりと脳に焼き付けた。息が苦しい。この世界に落とされて始めての、あからさまな暴力だった。
ようやく唇を離され、ひどく咳き込んだ。酸素がわたしの拘束をほどき、金縛りを解く。目じりに涙を浮かべながらブラッドを睨むと、彼は唇の端を手の甲で拭っていた。どうやらわたしは意識すらせずに彼の唇を噛み切っていたらしい。そういえば、鉄の味が残っている。


「…………どうした? 何を驚いている」


拭ったあとには傷さえも残っているように見えない口元を笑みの形にさせて、ブラッドは言う。


「時計屋はこんなに乱暴なキスはしなかったのか。それとも、君の場合は戻るなと乞うように抱きしめた方が効果があるのかもしれないな」


体中の血が煮えくり返るかと思った。自分がされた暴力などではなく、彼の言葉の方がわたしを罵倒し傷つけたのだ。頭の中でチカチカと星が瞬き、わたしは考えるまでもなく足を胸の辺りに曲げると思い切り彼の腹部を蹴り上げた。女の力では跳ね飛ばすことまではできなかったが、それでもわたしに跨る男を退けることはできた。ブラッドは驚いたように瞳を瞬かせている。精神的なダメージの方が大きいらしい。
わたしはさっさとベッドを降りた。靴など履かず、素足のまま絨毯の上を転がるようにして扉に向かう。怖かったのにひどく腹がたっていて、もうこんな密閉空間にはいたくなかった。どんどん崩れていく心と体が、お互いを蝕んでいくのだとしか思えなかった。


!」


ノブに手をかけたときブラッドがわたしの名前を呼んだ。それが制止の声だったのか、それとも謝罪の声だったのか、はたまた継続する怒りからのものだったのかだなんて、わたしにはもうわからなかった。一度だけ振り返ったけれど、わたしはベッドの上で呆気にとられるブラッドと視線をあわせてすぐに扉を開け放った。二人とも悲惨な顔をしていたと思う。裏切ったのも裏切られたのも、同じ比率でわたし達は傷ついたのだ。




























(09.06.13)