扉を閉めたあと、熱が目元に集まりそうになったけれど唇を噛んで耐えた。考えることなどしないようにすぐに走り出したわたしを屋敷のメイドが呼び止めたけれど知らないふりをする。


様?!」
「ついてこないで!」


答えられたのは最初のメイドだけだった。
大きく多くなる声も音も恐怖でしかなく、それらがどうにも言葉になどならなかった―――お待ちください様、どうかされたんですか、おいどうしたんだ、お姉さんどうしたの、どこへいくの――――――耳が壊れてしまったのかもしれない。
わたしはただがむしゃらに走り続ける。心臓がやけに五月蝿くて目眩がした。角を何度も曲がって階段をいくつも下りたりのぼったりを繰り返し、呼吸もままならなくなったわたしはようやく自分の足が痛むのを知った。ちらりと見れば裸足の足のつま先から血がにじんでいる。それでもわたしは走り続ける。立ち止まってもどうにもならないことなど知っていたし、戻されるのなんて御免だった。ブラッドの顔などすぐには見たくない。今度は足どころか手だって出てしまうに違いないのだ。
自分の限界以上に走ったわたしは、ようやくふらふらと立ち止まった。それでも膝をつくことがなかったのは、帽子屋ファミリーだと思われる音の集合体がすぐに追いつくかもしれないと思ったからだ。荒く呼吸をしながら周囲を見渡すと、そこは見慣れた場所だった。
―――――――――扉たちの、場所。
高さなど見えない天井へ続く螺旋階段、縦横無尽に配置された数々の扉が明かりもないのに変に冴えた世界で浮き上がっているそこは、わたしがクローバーの塔でナイトメアを捜し歩いたときに迷い込んだ場所だった。重力など無視した扉たちがわたしを上下左右から監視している。けれど、今日は誰もわたしに話しかけてこなかった。こちらにおいで、の決まり文句さえない。ただ鎮座する扉は普段よりも異様だ。
――――――――帰りたい。
誘われないというのに強く願ってしまったのは、わたしのほうだった。呼びかけたのではなく、ただひたすらに願ったのは初めてだった。帰りたい、もどして、わたしがいてもいいことがないの。千切れるような痛みの中で、わたしは思う。足の痛みなどではなく、脳裏に焼きついて離れないブラッドの顔のせいだった。走っている間中、わたしを苛んだのは彼だった。


「…………」


吸い込まれるように手近にあった扉に近寄り―――その扉は深い藍色で、ノブは赤銅色をしていた―――手を伸ばした。願いを叶えてくれるという扉の効力をまるっきり信じているわけではなかったけれど、それでも自分自身で現状を変えていくのは困難だったのだ。助けて、と声にならない叫びを上げた。


「…………駄目だ、


ノブにかけた手がやんわりと包み込まれた。ついで、ぴったりと背後に誰かが寄り添う感触。わたしは大げさにびくりとして、体を硬くする。
するりと後ろから伸ばされた腕が腹部ごとわたしを抱きしめた。


「扉を開いちゃ駄目だ。今以上に迷うことになる」


優しく甘く、どこか捻くれたような声。わたしはいっきに力が抜ける。


「ぼ、りす?」
「うん、そう。大丈夫だから落ち着いて。…………ノブは握ったままでもいいから」


耳元に顔を寄せられて話されるので、余計にボリスとの距離は近かった。わたしは突然脱力して、くたりと膝に力が入らなくなる。自然、ボリスに寄りかかるようになってしまったけれど、彼は意外に頼もしくわたしの体を受け止めた。背中全体で彼の体温を感じながら、急激な血の逆流に目眩を覚えた。


「よし、いい子だ。…………大丈夫、そのまま俺に寄りかかってて」
「…………ごめん」
「うん? …………いいよ。アンタが扉を開けなくてよかった」


ずる、とノブから手が離れる。わたしよりも一回り大きくて細いボリスの手のひらがすっぽりと覆ってくれている。怖くてぐしゃぐしゃになった心ごと、彼が覆ってくれているようだった。
どうしたんだ、とボリスは問わなかった。裸足で、辛うじて寝巻きではないものの薄着のわたしは彼の目には不審に映ったことだろう。けれど、わたしを抱きとめる彼は大丈夫だからと繰り返す。精神科のお医者様みたいだ。


「なんとなく予想はつくよ。帽子屋のヤツラがすっげぇ五月蝿いし。を探してる」
「…………」
「でも逃げるのに最良なのはその扉じゃない。いくら願っていたって今のじゃ戻るのは無理だ」


耳をくすぐるボリスの声だけを聞いていた。彼の耳には聞こえているという、帽子屋ファミリーの声を聞きたくなかった。ボリスはわたしの肩に顎を置き、抱きしめる腕に力を込める。


「逃げていい。けど、扉は俺が開ける。…………わかった?」
「でも、それじゃ」
「帽子屋のヤツラ? それなら大丈夫。なんてったって俺はチェシャ猫だぜ」


姿をくらますのも化かすのもお手のもんさ、とボリスはおどける。
わたしはふらふらの足になんとか力を込めた。心地よい腕の中にいつまでもいるわけにはいかない。離れようとするわたしから、ボリスは名残惜しそうに手を離す。


「…………目が赤い」


向き合うと、ボリスは顔をしかめた。わたしは自分の目も顔もどんな状態かわからない。恥ずかしくて隠そうと顔を逸らすと、ボリスの腕が頭を固定させた。両手で耳の上を支えられたわたしは、彼がすばやく両目に口付けるのに反応できない。ただただ優しいそのキスは、気持ちが良かった。


「俺、アンタのことが好きだよ。だから無傷でいてほしい。無傷っつーのは無理っぽいけど、俺が癒せるくらいの軽傷でさ」
「…………うん」
「本当は他のヤツに傷つけられたってだけで頭キテんだけどね。でも、アンタがちゃんと逃げてくれたからよかった。これで、守ってやれる」


唇同士が触れそうな距離でボリスは笑う。にっと笑ったあと、頭を支えていた手を肩においてくるりとわたしは回れ右させられた。それから彼は機敏な動作で扉を開く。よどみなく開かれた扉の先は光に包まれていた。
背後でざわめきが大きくなる。聞き覚えのある声が混じったそれに、ぞくりと悪寒が走った。


「行きなよ。俺は大丈夫だから」
「…………でも!」
「…………。俺ってこれでも結構強いんだぜ? 頼りにしてよ」


とん、と軽く押されたわたしが振り返りざまに見たのは銃を従えた黒いスーツの集団だった。明るく笑うボリスは扉を閉めながら、その手にすでに銃を握っている。ばたん、と目の前でしまったドアを急いで開けようとしたけれど、もう動かなかった。わたしはその場にへたり込む。ボリスがいくら強くても、相手は大人数だ。役持ちであるエリオットや双子たちがいれば、力関係も変わってくるに違いない。そんな場所にひとり置いてきてしまえばどうなるかなんて、考えたくもない。
がん。無意味に成り下がった扉を力なく叩く。何度も何度も、自分の手を打ち付けた。ボリスはどうして笑ってくれたんだろう。逃がすほどの価値などわたしにはないのに。


「…………?」


しばらくそうしていると、わたしを呼ぶ声。もうすでに腕の痛みは感じなかった。規則的に叩いていた腕を止め、わたしはそちらを見る。


「あ、やっぱりだ! うわぁ、どうしたの? こんなところで!」


栗色の髪、大きな丸い耳、人懐っこい笑顔を向けて歩み寄ってきたのはピアスだった。わたしは朦朧とする意識の中、彼の名前を呼ぶ。けれどそれが音になったかはわからない。
ぐらりと脳を揺らす波が襲って、そのまま倒れたからだ。支える腕はなく、わたしは青々とした草の匂いに包まれて意識を失った。意識を失う前、ピアスが何事か叫んでいたけれどわからない。ただ、もうたくさんのことが上手くいかなくなっていることだけがわかっていた。何も必要ではないのだと嘘をついていた報いだ。向き合ってこなかったわたしは、もう立ち向かう足さえもなくしている。




























(09.06.13)