暗闇がわたしを満たしている。暗く重く、のしかかるように陰鬱な空気の中でわたしはじっと息を潜めていた。体を小さくさせて、抱えた膝に額をうずめてこれ以上ないほど組んだ腕に力を込める。そうしなければ、この闇の中に自分がほどけていってしまいそうだった。 ―――――――――誰も来ないで、近寄らないで、触らないで。 そう願いながら、けれどどうしようもなく淋しいことも知っていた。わたしは過剰な接触を拒むくせに、どうしたって誰かの目に留まっていたいのだ。誰かの中に自分がいて、そこにいることを認めてくれて、話しかけてくれるだけでよかった。お前はここにいていいのだと言って欲しかった。だって、ここはわたしの世界ではないのだ。 『本当に?』 暗闇の中、空気よりも陰鬱で湿った声が問いかける。わたしは驚かなかった。 声は、わたしを少し高いところから見下ろしているようだった。 『本当に? …………もとの世界でだって、お前は誰かに認めて欲しがってたじゃないか』 世界の問題ではなくて、要はお前の問題なんだよ。声は容赦なくわたしを責める。 わたしは固く組んだ腕の力を強める。この声はどうしたって聞いたことがあった。 『そうやってまた見ない振りを決め込むつもり? 知らない振りをしていればお前は幸せ? 考えたように装っていれば、周りは優しかった?』 くすくすと笑いはじめた声は、わたしの周囲をぐるぐると回っている。ひどく気分が悪くなる。この声はいつもわたしを責めにやってくる。弱い部分を丹念に、けれど迷うことなく一撃で仕留めてくる攻撃はいつも強烈だった。わたしは反論などできない。 なぜなら、この声はわたしだからだ。 『お前はアリスより最低だね。だって彼女の“声”は姉の姿をしていると言ってただろ? だけどお前は違う。誰のためでもなくここに残った葛藤の最たるものはお前自身だ。家族がいるから帰りたい? 違うだろ、全部お前のためだ』 ここにいたいのも、ここから出たいのも、全部全部お前の我侭。 声はくすくすと声高らかに笑う。けれどどんどん湿った声は暗くなっていき、終いには泣いているようにさえ聞こえた。ひどく混濁した空気の中で、わたしはじっとしている。自分にさえ立ち向かえなかった。いつもこうだ。会話などは成り立たず、先に進まない。 声がわたしの前に立つ。ひたり、と頭に何かが乗せられた。手だとわかったのは、その指先があんまりにも冷たかったから。 『私はお前。けど、結局悩むのも決断を下すのもお前だ』 それからパシンと叩かれた。この暗闇で彼女がわたしに手を出したのは初めてだった。 『もういい加減に前を向けよ。自分のことながら苛々する』 わたしだって、と唇が動き掛ける。わたしだって、進みたい。 けれど進むということは、今までないがしろにしてきたものに目を向けなおさなければいけない。それはとても辛いことだ。わかっていて、知らない振りをしてきたものたち。 考えている振りをし続けただけで、本当は何もわかってなどいなかった。ただ笑っていただけで、周囲の視線を気にして合わせていたにすぎない。矮小な自分に何度ともなく嫌気が差した。そのたびに、『声』はいつもわたしを蔑みにくる。そう考えると、あの『声』さえもわたしがわたしを保つために必要なものなのかもしれない。 おずおずと顔をあげる。けれどそこに声の主はどこにもいなかった。 声の主の代わりにわたしの視界を覆ったのは、安らかな寝息をたてる自称眠りネズミだった。わたしは二、三度瞳をぱちぱちと開け閉めする。何がなんだかわからずに、彼の顔を凝視した。ピアスはわたしが怪訝そうに見ていることなどお構いなしに、天下泰平な顔をして眠っている。いつも眠ったら死ぬ、と言っている割には健やかな眠りのようだった。 とりあえず手を動かそう、と思ったのだがわたしはまったく動けなかった。ここが彼の家であることはわかったが―――彼が安心して眠れる場所はそこしかない――――ベッドの中にいつまでもいるわけにはいかない。けれどわたしの腕は体ごと目の前のネズミにすっぽりと抱かれていて、抜け出せなかった。まるで人形を抱いて眠る子どものようだ。 わたしはため息をひとつして、どうにも気が進まなかったけれど―――だって、気を失ったわたしを運んでくれたのは彼のはずなのだ―――最良の方法でピアスを起こすことにした。出来るだけ似せるように、彼の耳に確実に届くように囁く。 「にゃおん」 「ぴっっっ!!! にゃんこ?!」 素晴らしい反応!彼は飛び起きて急いで周囲を見渡した。あまりにも機敏な動作だ。けれどいくら見渡したところで周りには猫の子一匹いやしない。おろおろと落ちつかない様子で怯える彼にわたしは手を振る。 「にゃおん。おはよう、ピアス」 「?! びびびびっびっくりしたぁ!」 食べられるかと思っちゃったよ!と彼は元気よく脱力した。 わたしは半身を起こしてベッドから這い出ながら、ごめんごめんと謝った。這い出たはいいものの、カーペットの上でわたしは立ち上がることができない。力が入らないのだ。 彼は力が出ずに床にへたり込むわたしにさっさと薄い布をかけて、手馴れた動作で珈琲を淹れてくれる。両手に収まったカップを覗きながら、こんなにも普通な彼は始めてだと思った。彼の家だからかもしれない。ここにあるものは全部彼の味方だった。 「でも、どうしてあんなところにいたの? いきなり倒れるからすごく驚いたよ」 驚いてどうしたらいいかわからなかったから、とりあえずうちに連れてきたんだ。 にっこりして彼は誇らしげに語る。わたしは森の中にある扉のひとつの前で倒れたらしい。その場合病院に連れていくか、他の人を呼ぶ方が懸命だと思われるのだけれど、彼はあまつさえ病人であるわたしと一緒に寝てしまうようなネズミだ。わたしは笑顔を取り繕って、ありがとうと言う。彼の発言から、まだ帽子屋ファミリーの手は回っていないことが知れただけでもよかった。 温かなカップに口をつける。紅茶ばかり飲んでいるけれど、元の世界ではもっぱら珈琲ばかり飲んでいたので懐かしい。 「あれ? でもは今、僕らの誰かと一緒にいなきゃいけないんでしょう?」 エリーちゃんに聞いたんだけどなぁ、と心底不思議そうな声を出すピアスにわたしはむせそうになる。ちゃんと知っていたわけだ。彼を甘く見すぎていた。 どうして、という顔でピアスはわたしの顔を覗きこんでくる。 「…………どうしてだと思う?」 「え、えー? 俺に聞くの?」 「…………じゃあ、わたしが逃げてきたんだって言ったらピアスはどうする?」 彼を見据えて言葉を選ぶ。ピアスはちょっと悲しげに俯いた。 「に、逃げてきたの? だって、ボスと一緒だったでしょう」 「うん。だから、ブラッドから逃げてきたの」 「…………ほ、本当に? でもそしたら、俺は仕事をしなくちゃ」 言うが早いか、その手にはサバイバルナイフが握られている。血錆びのついたそれは、間違いなく使われた跡があった。わたしはボリスの早撃ちを思い出す。彼もいつ銃を抜いたかわからない動作で獲物を出した。 「そのナイフで、わたしをどうするの?」 「と、とりあえず動かないようにするよ。そうしなきゃ、いけない。だってボスはを手放すつもりなんてないんだ。帰す気なんてないって、エリーちゃんが言ってた」 エリーちゃんが、言ってた。 真意のほどは定かではないが、帽子屋ファミリー全員が全力でわたしを止めに入ってるのがわかった。彼のように実力行使に訴えてでも、という意味で。 わたしはぞっとしたけれど、やっぱり目の前の臆病なネズミを怖がることなどできない。 「そのナイフ、いつも使ってるの?」 「ぴ? …………えぇと、ときどきだよ。お掃除するときはナイフよりもノコギリのほうが便利だ。切断して持ち運びをするから、ノコギリの方が得意」 切断、持ち運び、お掃除。三つの単語で、彼の仕事内容は大体把握した。いつかアリスが真っ青な顔をしてピアスの仕事現場だけはもう見たくないと言っていたけれどこのためだったのか。掃除屋とは、本当に掃除をする人のことだった。 わたしはサバイバルナイフを持って悲しそうにこちらを見つめるピアスに微笑む。きっと彼にとって葛藤するのは大変な負担になっているはずだ。 「あのね、わたしボスに嫌われちゃったの」 「き、嫌われたの? が?」 「そう。汚いことをするから嫌われちゃった」 微笑んで言うと、彼はへなへなと座り込んで信じられないという風に目を真ん丸くさせる。 「どうして? だってを嫌いになるなんてありえないよ!」 「どうしたもこうしたも、そういうこと。わたし、汚いから」 考えが浅ましい、とわたしは頭の中で付け足す。ピアスはぶんぶん首を振った。 「違うよ! は綺麗だ! 俺みたいに、ネズミみたいに汚くない!」 「ピアス?」 「お、俺、ネズミだから考えなしだし、馬鹿だから嫌われる。汚い仕事をするから嫌われちゃう。役持ちだって、顔なしだって、俺のこと嫌ってるやつ多いんだ」 それに、と彼はわたしを申し訳なさそうに見る。 「それに、時計屋さんにだって嫌われてた」 いつかの彼の告白を、繰り返す。確かに彼の仕事はユリウスの邪魔にしかならないだろう。迅速に時計を回収しなければならないユリウスと、少しでも時間を稼がなければいけない掃除屋のピアス。両者の仕事はまったくもって食い違っている。目的は全然別のところにあるというのに。 わたしはしゅんとしてしまったネズミの頭を撫でる。 「それは仕方ないよ。だって二人ともお仕事だもの」 「で、でも…………くらいだよ。俺のこと、嫌ったりしないの」 「それは…………前にも言ったけど、わたし優しくないから」 優しくなんてないわたしは、自分ばかりにとことん優しい。わたしを蔑むあの声は、ずっとそう言い続けていた。お前は思い通りにならないと叫ぶけれど、ずっと我侭を押し通してきただろう、と。 「。もしかして、、淋しい?」 「え?」 「なら、俺は傍にいていいよね。淋しいときは傍にいてって、言ってたでしょ」 言うなり、ピアスはサバイバルナイフを床に放り投げてわたしを抱きすくめた。一瞬で胸に収まるわたしはすっかり彼のペースに乗せられていて、なんのことかわからない。たしかに傍にいてと言ったけれど―――そして驚くことにそんなことを言ったのは始めてだったのだけれど―――今、わたしは淋しそうだったのだろうか。 押し付けられた胸から、カチ、カチ、カチ、と音が聞こえる。規則正しくなり続ける、この世界の心臓。わたしは懸命に耳を澄ませた。この音が、わたしを正しい方向に導いてくれそうな気がした。そっと自分からも腕を回す。ピアスは子どものように体温が高かった。 「…………あのね、ピアス。わたし、ユリウスと約束していたことがあるの」 遠い約束。わたしがこの世界に投げ出されたときすぐにした約束だ。わたしはあのときとても不安定で、脆かった。誰も知っている人のいない世界は、決して生易しいものに思えなかった。加えて、あの偏屈は決して優しくなかった。最初、ひどく打ちのめされたのを覚えている。 カチカチカチカチカチカチ、カチ。 あぁ、でもそうか。わたしはようやく理解する。遠い約束の意味と、彼の意図を。 「それって、なに?」 待ちきれなくなったように、ピアスが聞く。わたしは彼の胸に顔を押し付けたまま、泣きそうに笑った。あぁ、どうして今まで気づかなかったのだろう。時計の音を聞くたびに思い出さなければいけない事柄だったのに、あまりにもこの世界が眩しくて目がくらんでいたのかもしれない。 「まだ、アリスにだって話していなかったこと。約束は、破ってしまったけれど」 くすくすと笑うわたしに、ピアスはきょとんとした顔のまま笑う。 「なんかよくわかんないや。でも、が嬉しそうならいいよ。が嬉しそうだと、俺も嬉しい」 ね、ちゅーしていい? いつもの調子で彼が尋ねる。わたしはブラッドを思い出したけれど平静を装って笑ったまま、意地悪そうに彼の唇に人差し指で触れる。 「だめ。それは大事な人だけにって言ったでしょう?」 「でも俺が大事だよ。すごく大事だ。ボスもが大事かもしれないけど、それに負けないくらい大事」 ピアスがまっすぐに言うので―――この子はいつも純粋だ。駆け引きを知らない―――わたしはちょっと困る。ブラッドよりも、だなんて思い切ったことを言ったものだ。先ほどまでボスの命令だからサバイバルナイフで『とりあえず動けなくしなくちゃ』と言っていたのに。 頭が悪いけれど、このネズミと一緒にいるといつも癒された。それはたぶん、自分を汚いと言っているところが似ていたからだと思う。わたしも自分が嫌いだ。でも認めて欲しかった。本当に、彼と同じ。 「わたしも、ピアスが大事だよ」 「それじゃあ!」 「でもキスは駄目。…………それより外に出なきゃ。きっと、大変なことになってるの」 帽子屋ファミリーの面々は血眼でわたしを捜しているだろうし、ボリスの行方も気になる。どうしたって、いつのまにか消えている存在ではいられなくなってしまったのだ。わたしはきっちりと落とし前をつけなければいけない。 ユリウス。ねぇ、ようやくわかったことがあるの。 ピアスの胸の鼓動を聞きながら、わたしは記憶の中の彼に語りかける。ひどく弱かった昔の自分がしたことは残酷だった。残酷だったけれど、わたしは本気だったのだ。ピアスのように頭の悪かったわたしの精一杯を受け入れてくれた彼はなんて優しかったのだろう。 |
蒼褪めた手の福音
(09.06.13)