「まったく、何をやっているんです?」 しばらく無言で歩き続けたわたし達の前に現れたのは、意外なことに真っ白なウサギだった。森を抜けてすぐ待ち受けていた彼は、わたし達がそこから現れることが至極当然のような顔をして腕を組んでいる。まるで待ちくたびれたとでもいうような仕草だ。 「無鉄砲は感心しませんね。他の組織がどうなろうと知ったことではありませんが、あなたはアリスに影響を与えすぎる」 ペーターは組んでいた腕をほどいて、一歩こちらに歩み寄る。アリスがいないときの彼の瞳は氷のように冷たくて、ひどく物足りない顔をする。彼はアリス以外のすべてが不要なのだ、とこういうとき思い知らされる。彼女がいればそれで足りてしまっている。 ピアスがわたしとペーターの間に割って入る。彼の肩越しにペーターが不機嫌そうに眉を潜めた。 「何をしてるんです? 不潔なネズミ風情が」 「だ、駄目だよ! うさちゃん、に何する気?!」 ピアスにその気はまったくないのだが、彼の言葉はペーターの逆鱗に一々触れている。彼はその呼び名さえも雑菌だといいかねないほど、顔を歪めた。これではいつ撃たれてもおかしくない。 「…………これだから、あなたは性質が悪いんですよ。」 「…………」 「弱い上に、きっちりと守られている。脆弱なネズミでも必死に守ろうとする」 ペーターはピアスのことなどまったく視界にいれず、わたしだけを睨みつけた。ペーターの目は、確実にわたしをちっぽけな女に戻してしまう。小さなことでうじうじ悩み、努力もせずに欲しいものだけを望む、自分自身に甘い子どもに戻すのだ。 ペーターは腰に手をあて大きな時計で時間を確認する。 「今の状況を教えてあげましょう。ブラッドは騒ぎを大きくしすぎた。そのせいで会合にて査問にかけられています」 「さ、もん?」 「うちの女王陛下、ならびにホストであるナイトメアが意義を唱えたんですよ。あなたが塔内を逃げまわった姿は多くの顔なしに目撃されている。説明をしろという周囲にあの男は知らぬ存ぜぬを突き通していたが…………いつまで持つか」 どうでもいいというように、ペーターは声の調子をまったく変えずに話す。 わたしは大人しく査問とやらにかけられているブラッドにも驚いたが、ビバルディやナイトメアが少なくともわたしのために――――彼らがどんな思惑を持っていたにしても―――誰かを糾弾しているということが、信じられなかった。実感もなく、問題の中心人物であるはずなのにどこか空虚だ。ただ背中をなでる風がすうすうすると感じた。 「…………まったく、帰るならばさっさと帰ればいいものを」 忌々しげに呟かれた言葉に、体の芯が震えた。たぶん、ペーターの本心だ。彼は他人にまったく気を使わないし正直であるので、第三者から見ればわたしの行動の可笑しさはそれほど目につくということだろう。奇行と言い換えてもいい。帰るというくせにまったくそぶりも見せず、大人しく従っていたかと思えば突然逃げ出すような愚かな女に、彼はまったく正しい意見を言っている。 だから、その正論に傷つけられたと感じるのは不当だ。 「…………ごめん、ね」 「謝るくらいなら逃げ仰せてほしいですね。なんならドアを開けて差し上げましょうか」 「…………ごめん」 帰れない、と言外に含ませれば彼は大きくため息をついた。 「知っていますよ。どっちみち、今のままではあなたはどこへも行けない。行けないのなら、…………選択肢は少ない」 言うなり、彼は自然な動作で銃を握った。腕をあげてピアスの肩越しにひたりと据えられた銃口と目が合うまで、わたしはまばたきをしただけだ。鮮やか過ぎる手腕に、どうして彼はわたしをすぐ殺してしまわないのだろうと場違いな疑いを持った。あなたが腕をあげたと同時に殺してもらえたのなら、知らぬ間に死んでしまえたかもしれないのに。 「うさちゃん、なにして…………!」 「五月蝿い」 唸り声みたいな低い声と同時に、ピアスが横に吹っ飛んだ。ペーターが左足で蹴り飛ばしたのだ。倒れ込んだピアスは咄嗟にわたしの手を離してくれたので、一緒に転ぶことにはならなかった。けれどわたしは声がだせない。ピアスを気遣う声も、ペーターに何事かを問うことも、できずにわたしは澄んだ赤い目と対峙する。ピアスが咳き込むのが聞こえた。 彼の握った銃は愛用のピンクのものではなく鉛色をしている。 「死ねば、帰る帰らないの話はなくなる。アリスは悲しむでしょうが、いつか忘れるでしょう。僕が精一杯あなたを忘れさせる努力をすればいい」 アリス、という言葉にだけ彼の感情が滲んでいるようだった。もし彼がわたしを殺すつもりなら、それをアリスに悟られないでほしいと言いたくなった。あなたを愛しているアリスの、その想いをちゃんと受け取る前に壊さないでほしかった。どんな理由があるにせよ、わたしを殺せばアリスはその淡い想いを継続させることなどできない。きっと彼がどんな言葉をつくそうと努力しようと、ペーターを憎んでしまうだろう。 想像した世界があまりにも悲しくて、わたしの心はぎゅっと小さくなる。 「…………やめて。きっと、アリスはあなたを許さない」 「さぁ、それはどうでしょう。死んだあとのことなんて、あなたは知らなくてもいいことですよ」 「でも責任は持つべきだわ。お願い。わたし、あなたもアリスも好きだから」 好きだった。アリスを好きなペーターの愛情は過剰なくせにズレていて、こうやって憎まれてもいいからアリスの憂いをなくそうとする。他人にそこまで陶酔できるのは、もはや特技だ。好きという感情があるのなら、自分に対する欲のようなもの―――愛して欲しいと見返りを期待する心―――がでてくるはずなのに、ペーターにはなかった。そしてアリスが徐々にだが確実に、彼の愛情を受け取っていく姿は微笑ましい。変わって欲しいと望める関係が羨ましかった。 ペーターはわたしを胡乱げに見つめている。 「僕はあなたが嫌いです」 「うん」 「アリスに好かれて、すぐに僕よりも親しくなった。それなのに今はアリスを悲しませてる」 彼がひどく痛々しい顔をしたので、アリスがどれほど心配してくれているのかわかった。 わたしは唇を引き結び、気を抜くとうっかり泣いてしまいそうになっている自分を諫めた。 「アリスの元に連れて行って。ペーター」 「…………」 「自分でしたことだもの。ちゃんと、決着をつけるよ。もう逃げたりしないから」 相変わらず銃を向けたままのペーターはまっすぐにわたしを見る。ナイトメアと向かい合っているよりもよっぽど心を見透かされそうだった。人の感情に疎いうウサギの方が、わたしに近いのかもしれない。 しばらく赤い瞳と見詰め合うと、ペーターは銃をくるりと回転させた。持ち手がわたしに向けられる。 「あげます」 「え?」 「決着をつけるなら必要でしょう。あなたは弱いくせに、丸腰で何をしようというんです?」 早くとれといわんばかりに銃を握らされる。小型の銃はそれでもずしりと重い。両手に染みる冷たさが、腕を伝って体中にのしかかってくるようだった。 「弾は入ってます。安全装置もはずしてある」 あとは、あなたの使い方次第ですよ。 言って、ペーターはさっさと踵を返した。わたしはその後姿に淋しさが微かに残っているのがわかって、彼の変化に目を細める。ピアスが立ち上がって近寄り、「大丈夫」と不安そうに尋ねた。わたしは何も言えず頷いて、ペーターの背中を追うべく歩き出す。 「ペーター」 「…………なんです」 「ありがとう。探してくれたの、二度目だから」 ありったけの感謝を込めたけれど「あなたの為じゃありませんから」と突っ返された。 ポケットに銃を丁重にしまって、歩き出したわたしは上を向く。クローバーの塔は変わらずそこにあった。ただ不気味な静けさが塔全体を覆っているように見える。雰囲気に気圧されたのかピアスがおどおどと服のすそを掴んだので、前を向いたまま「大丈夫だから」と呟いた。わたしと彼、そして待っていてくれているアリスと会合にいるすべての人たちに向けて、わたしは言う。 大丈夫。もう、終焉はそこまで来ているのだから。 |
舌に銃口
(09.06.13)