『はじめまして、って言います』 と初めて会った時、彼女はユリウスの隣で落ち着いて笑っていた。エースに話があると城を連れ出され、迷子になること十数時間―――何度ひっぱたいてしまおうと思ったか―――たどり着いたのは時計塔だった。城から時計塔の間にどうして二度もキャンプする羽目になるのかまったくわからない。けれど、アリスは目的地についたと説明するエースに同情と怒りを込めたため息をついた。 中に入ればユリウスが迎えてくれて慰めにもならない労いの言葉を――ーなんだ、意外と早かったじゃないか―――かけてくれた。うんざりする間もなく彼の後ろからひとりの女性が現れ、アリスは目を丸くさせて驚いた。彼女には、顔があったのだ。 『…………アリスさん、だよね? ユリウスさんから色々お話は聞きました。この世界に落ちてきた理由はわからないんだけど…………帰るまでの間、仲良くしてね』 この世界に落ちたばかりのはずなのに、はアリスよりも随分と落ち着いて手を伸ばす。ぐらぐらしながらアリスも握手をするために手を差し出したが、彼女の存在を信じられないと表情が語っていた。あの頃のは全員に「さん」を付けていて、今よりずっとおしとやかだったので、きっと随分無理をしていたのだと思う。 それからが落ちた理由について見当しあったのだが――――ペーターに詰めより、ナイトメアを脅し、彼らがまた結託したのではないかと詮索した――――結局、彼女がこの世界に落ちてしまった原因はわからなかった。番人として秩序を守るべきはずのユリウスにも事情は把握できておらず、難題は丸投げされて宙に浮く形になってしまった。けれどは仕方ないねと笑って、変わらない微笑のままユリウスに尋ねた。わたしが帰るまでここにいてもいい、と。 ユリウスは作業をしながら軽く肩をすくめた。勝手にしろ、と不機嫌ではない声が続き、アリスはふたりの空気がどことなく微妙な温度を持ち始めているのを知った。隣で笑う―――笑っていないときなどないのだが―――エースも、気づいていたに違いない。舞踏会の少し前だった。はそのときすでに帰る瞬間が必ず訪れることを知っていた。 『…………アリス』 いつしか「さん」付けをしなくなっていたは、アリスにとってこれ以上ないくらいの友人になっていた。心のすべてを見せたわけではないし、話していないことなど山のようにあったけれど、すべてを見たいと望んだのなら二人が深く友情を育むことなどなかった。二人とも、触れられたくない場所がとても似ていたのだ。 あの日も、とアリスは思う。何度目かの頭痛の末に訪れた、元の世界に戻るためのチャンスをアリスは受け入れなかった。戻っておいでと光は囁いていたけれど、戻ってはいけないと怯えていたのも事実だった。やりなおせる、と思うくせに、そんなことできやしないとすでに決め付けている自分がいた。 『帰らなかったんだね、アリス』 結局、アリスはルールに縛られ倫理の狂った世界を選んだ。目が覚めたとき、戻る資格を失ったことが肌にあたる風でわかった。細胞のひとつひとつに、違う血が流れ出したみたいだ。わけもわからず泣き出しそうになるアリスの元にはやってきた。時間帯は夜で、こつこつと窓を叩く音の先に彼女はいた。時計塔から急いできたらしいは額にうっすらと汗を滲ませている。アリスは少なくともより困惑していた。見詰め合ったまま動かないアリスには微笑んだ。アリスが選んだことを知っていたのだ。 『…………どうして?』 わかったの、とアリスは言外に含ませる。 『なんでだろう。…………自分でも上手く説明できないけど、アリスの声が聞こえた気がしたから』 外はまだ夜の帳が下りていて、ひんやりとした風が心地よかった。は急いで向かってきたと容易に想像できる簡単な服だけを纏っていた。一刻も早く会いたかったのだと言うは、きっと何も考えずに飛び出したのだろう。 『…………この世界はずるいね』 は眉をハの字につくると、悲しさと嬉しさが半々に詰まったアリスに笑った。表情の上だけの笑顔だとすぐにわかったけれど、が悲しむよりは笑おうとしてくれるのがわかったので、出そうだった涙が戻ってきた。まばたきをするたびに落ちる涙に頬が濡れる。 しばらく泣いているとおもむろにが腕を伸ばしてきたので、アリスは窓枠から体を乗り出した。外にいるは頭ひとつぶん背が低く、アリスはすがりつくように抱きついたつもりなのにの方がそうやっているように見えた。 『奪うなら、すべて奪ってくれればいいのに』 か細く聞こえたの声は、アリスよりも濡れているようだった。アリスにはの言いたいことがわかった。この世界はアリスやから元の世界を奪ったくせに最後には選ばせる。残るか帰るか、そんな選択をさせるくらいなら奪わないで欲しい。自由を奪って縛ったくせに慣れ始めたとなると選ばせるなんて馬鹿げている。 けれどがそういうふうに言ってくれたのはアリスの為であって、彼女自身の心境の変化があっただなんて考えなかった。アリスはあのとき聞くべきだったのだ。もし奪ってもらえたのなら、あなたは仕方がないからと言い訳をしながらでもこの世界に留まってくれていたの、と。 ユリウスがここにいれば。アリスは何度でも考える。ユリウスがここにいれば、どうしてを手放したりしたの、と問いただすつもりだ。ユリウスがちゃんと捕まえていないから、は彼がいなくなったあとも変わらない庇護があるようにふわふわと軽く自由に飛び回り、あげく他の男に捕まえられてしまった。今は自分で逃げ出しているけれど、アリスにいわせればそれでも遅いくらいだ。 「アリス」 思考に熱中していた意識を戻し、アリスは自分の名前を呼んだ友人を見た。彼はいつものように堅苦しいスーツを着込み、腕やら腰にナイフをちらつかせている。 「グレイ」 「…………その様子だと、はまだのようだな」 「えぇ。グレイは?」 別室の、会議室をのぞける特別な部屋でアリスは尋ねる。先ほどまで思考に専念していたせいで、せっかく会議室をのぞけるというのに見えていなかった。 グレイはゆるく肩を竦め、呆れたように息を吐く。 「休憩だ。…………帽子屋は相変わらずのらりくらりと言葉を交わす」 「…………そう」 「協定など破っても構わないとでも思っているのだろう。あいつらはこちらが武器を向ければ躊躇わず撃ってくるぞ」 テーブルと椅子、最小限に抑えられた調度を大またで過ぎ去り、グレイは壁に寄る。壁にはカーテンがかけられており、耳をすませばざわざわと人の声が聞こえた。天井が高くとられた会議室の壁、その中ほどにかかった絵の裏側にその部屋はある。 ざっとカーテンをグレイがはずせば、人々の声はより明瞭になった。もれる光はのぞき穴だ。 「開けていた方が聞き取りやすいだろう」 「そうね。…………ねぇ、エースはいるの?」 おずおずと聞いたアリスは、心配そうにグレイを仰ぐ。エースはこの会合が始まってすぐにいつものように迷子になり、未だ行方知れずのままだ。どこに行っているのか、何をしているのかわからない。がブラッドの隣を歩いたあの日から、エースの行動はますます奇怪になっていた。 グレイは瞳を伏せて首を振る。 「いや、現れてはいない」 「そう。…………じゃあ、ビバルディは一人なのね」 を探しに行くと言うアリスに成り代わりペーターが飛び出し、エースが不在の今となってしまえばビバルディは城の代表としてひとりきりでそこにいるはずだった。キングはいるはずだけれど、のことでムキになるビバルディをよく思っていないことなど容易に想像がつく。 「女王はひとりでも充分だ。エースやペーターがいたらと思うとそちらの方が厄介だろう」 「そう、ね。そうかもしれないけど」 「あぁ、それにボリスやピアスも不在だ。役持ちは少ない方がいい」 よくも悪くも力を持ってしまっている役持ちたちは誰にも抑制されない。 を逃がしたとされるボリスは帽子屋ファミリーからの逃走劇によって姿をくらましてしまったし、ピアスは元々会合などサボりがちだった。アリスはちらりとカーテンの取り払われた壁を見つめる。その先にはブラッドたち帽子屋ファミリーとビバルディと城の一団、それにナイトメアがいるはずだ。休憩と言われたとしても多くが動くことはなく、きっと帽子屋ファミリーは誰一人として微動だにしないに違いない。ブラッドを信じ貫くことしか是としない人々の集まりなのだ。 アリスは椅子に座り、テーブルの上で自分の手を見つめる。夢の中に誘ったのは自分だった。それを承諾したのがであったとしても、結果ブラッドの不況を買った原因はアリスにもある。だから会合には出ぬようにとビバルディから固く言い渡され、ペーターには外出禁止をくらっている。 「あのね、グレイ、前に私に聞いたことがあったでしょう」 自分の手を見つめていた視線をはずしてグレイを見上げる。彼は壁によりかかり、常よりもずっと鋭い視線でこちらを見返す。 「は時計屋の女だったのか、って」 「…………あぁ」 「その答えをずっと探してたの。でもね、私とは誰かを特別愛することについて話し合ったことがないって気付いちゃって」 驚いたことに恋愛のあれこれをこの世界の住人に当てはめて話したことがなかった。 他に共鳴する部分を探すことに忙しく、または元から明るい性格であったことも手伝ってアリスは彼女が閉ざした部分には触れずにいれた。アリスだって触れられたくなかったものがあったのだ。 けれど、ユリウスとの間に友情以上の熱があったというのならば、どうして他の滞在先に移ることを許したのだろう。アリスの思考はいつもそこにたどり着く。心が広いとはお世辞にも言えないユリウスのことだ。もしを愛したのなら外の空気になど触れさせなかったに違いない。けれど、その考えはのあの言葉によって別の輪郭を表し始めていた。 「…………ね、言ったのよ。『わたしの間違いは、この世界を一瞬でも好きだと思ってしまったこと』って」 「この世界を…………?」 「そう。は一度受け入れたの、自分自身で自覚できるほどに」 受け入れたはずなのに、それと同じくらい強く拒絶した。の言葉は単純に素直な感想を述べていたにすぎない。好きになったことで失うものに怯えて、だから突き放して見ない振りをし続けてきたのだろう。ナイトメアとアリスの前で語ったは、嘘をついていなかったように思う。 「世界がユリウスを表すのかはわからない。でも、は私なんかよりずっと正直だわ」 この世界自体を夢だと誤魔化し続け、優しくされることに違和感を覚えつつ溶かされていったアリスは言う。その瞳が痛々しく細められたので、グレイは視線をはずすことができない。慰めの言葉をかけようにも彼の中には余所者にしか持ち得ない悩みについて、共感することも同情することもできなかった。 ようやく当たり障りのない文句を思いついたグレイが口を開く前に、隠されているはずの扉の外側に気配を感じて身構えた。 「…………グレイ?」 なの、とアリスが視線で問う。グレイは唇のまえで人差し指をたてる仕草をしたあと、すらりとナイフを抜いた。やがてノックもなしに開いたドアの先にいたのは、頼りない小さな影だ。 「!」 隠れ部屋であることを考慮して声だけはごくごく抑えたけれど、嬉しさは顔中に現れていたに違いない。は薄い白のワンピース姿で、まぶしいものを見るみたいな顔でこちらを見た。その一瞬あとで綺麗な笑顔をつくる。 アリス、とが名前を呼ぶ前に、駆け寄って彼女の体を抱きしめた。 「…………アリ、ス」 「…………」 「…………………大丈夫だよ、アリス」 抱きしめたまま顔を隠すアリスには穏やかな声と共に、ゆっくりと背を撫でる。何が大丈夫なの、とアリスは頭にきたけれど、の中でひとつでも「大丈夫」なものがあるのならそれでもいいと思った。 出そうになる涙を堪えてアリスは顔をあげる。の後ろに控えていたペーターと目が合って、彼が不機嫌そうな悲しそうな顔をしていることを知った。視線だけで感謝を述べれば、彼は渋々了承する。 「…………ねぇ、」 ゆっくりと体を離し、まっすぐに彼女と向き合った。たった一歩の距離は、と自分の間にある実際の長さのようで果てしない。 は目だけで笑い、なに、と言葉を促す。 「この世界の何を、はそんなに愛したの?」 間違ったと思うほど、彼女は何を受け入れたのだろう。アリスもも周囲に対して臆病だったので、手が伸ばされなければそれ以上の干渉などしないに違いなかった。だとすればが何かを受け入れたのは、あちらからすでに「受け入れられていた」ということに他ならない。 その海より深い愛情を、彼女はいったいどんなものから感じたというのだろう。あるいは、誰か、という意味で。 「アリス…………」 「教えて。私たち、今までずっと触れあわない会話ばかりしてきたけれど」 今更だと、は笑うだろうか。ずっと避けてきたものたちによって苦しんでいるのに、それを今になって正しさを求めるように言うのは卑怯だろうか。 「…………が受け入れたのは、」 臆病な彼女が飛び込んでしまえたのは、いったい、 「好きだったのは、だれ?」 |
どうせ痛むなら
嘘より真実を突き付け合って
(09.07.05)