「…………泣いていたの、」 「泣いてたよ。…………あんまり恥ずかしい記憶だから、自分でも忘れようとしていたんだけど」 言って、唇を無理やりあげて笑う格好をしてみた。この世界に落ちてきたとき、の目の前にいたのは優しくなる前の男であって、正義のヒーローでも白馬の王子様でもなかった。寒々しい群青色の瞳は見たこともない冷たさで見つめてきたから、ひどく怯えた。それなのに一通りの説明を受けたあと、みっともなく大粒の涙を流した。優しくない男だし薄情であることも理屈主義であることも、ものの数分で理解できたというのにそんな他人の目の前では無防備に泣き腫らした。 「…………それでね、わかったの。わたし、ユリウスに――――」 思い出したことを全部吐き出そうと口を開けば、それよりも大きなざわめきが聞こえた。部屋にいた全員が壁際を見て、向こう側の会議室で何事かが起きたことを知る。 はじめに動いたのはグレイで、次にが走ってところどころ空いた穴のひとつに顔を近づけた。アリスも駆け寄り小さなのぞき穴の中で出会った人物に息を呑む。一目でわかるほどの毒々しい赤色を纏った男が、そこにいた。騒いでいるのは顔なしたちだけで、その音のせいで男の――――エースの口が動いたのに音までは聞き取れない。けれど彼が発するオーラの禍々しさには異常な気迫が感じられ、場を圧迫する容赦のない殺気が放たれているのがわかった。 「グレイ!」 のぞき穴から顔を離したが小さく叫ぶ。 「戻って! ナイトメアの傍に!」 が言うが早いか頷いたグレイはすぐさま部屋を出て行った。 はカタカタと小さく震えながら両手で口元を押さえて壁を――――その先にいるたぶんエースを―――見つめている。確かに今の彼は恐ろしいが、の怯え方は異常だ。アリスはに触れようとそっと手を伸ばしたけれど、かちあった瞳にそのまま静止するしかなかった。 「、どうしたの」 「…………エースの、目、が」 目が。 唇からそれ以上の言葉は作り出されず、はじっと耐えるように口元を押さえて体を小さくさせた。ぎゅっと目を瞑って数秒、意を決したように開いた瞳はうっすら湿っている。アリスはもう一度のぞき穴をのぞこうか迷い、とそれを交互に見た。彼女はエースの瞳に何を見たというのだろう。城にいたときだって刺客に襲われ無感動に切り殺していくエースをアリスは目撃している。けれど今の彼はそんなものよりずっと狂っていた。 はなんとか口を覆っていた手をはずし、何事かを伝えようと必死に壁の穴を見つめる。 「…………あれは不味いですね」 いつのまに傍にきたのか、ペーターがアリスの隣でのぞき穴に顔を近づけ言った。淡々と放たれた言葉と冷静さにアリスは白兎を仰ぎ見る。その瞳があんまりにも不安そうだったのか、「大丈夫、アリスだけは僕が守りますから」などと見当違いの約束をくれた。の右腕にはピアスが彼女を窺うように張り付いており、壁の外側のことよりも彼女のことが大事だというように心配そうな顔をしている。 何が不味いの、とアリスがペーターに問おうとした瞬間―――――はびくりと肩を揺らし、ピアスは悲鳴をあげ、ペーターはすぐにアリスの手を握った―――甲高い金属音が響いた。誰かが切り結んだのだ。すぐにはわからず、頭上近くでペーターがため息をついたのがいやに大きく聞こえた。 「これだから単細胞は…………。エース君は本気ですよ、」 「…………」 「たぶん、受けたのは帽子屋でしょう。さぁ、どうするんです」 まったく笑っていない声はを責めているようで勘に触った。けれどはペーターの言葉に神妙に頷いたあと、しっかりとアリスを見据えた。 「言ってくるね、アリス」 「? 駄目よ、危ないわ」 「ううん…………行かなきゃ。だって」 は眉をきゅっと下げてひどく幼い子供のように笑ったあと、小さく呟いた。懺悔のように苦しそうな声のあと、彼女はピアスの手をやんわりほどいて部屋を出て行く。ピアスも行っちゃ駄目だよと必死で食い下がったけれど、一度決めた彼女を止めることなどできない。 「ねぇ、ペーター」 「なんです、アリス」 相変わらず自分の手を握る白兎を仰ぎ見る。彼は会議室での喧騒など知らぬような顔をして笑った。その間にも剣が弾かれるやかましい音は止まない。 「…………エースは、何がしたいの」 握られた手に力を込めれば、ペーターは測りかねるといった様子で肩を竦めた。 の言葉だけが、アリスの耳には残っている。 「行かなきゃ…………だって、エースはわたしの為に戦ってる」 |
反り返った花は空を仰いだ
(09.07.05)