後悔というものが自分の欲望の結果生み出されるものだとすればそんなものをしたことはこれまでに一度もない。ブラッドは広々とした会議室の中央をひたりと見据えながら考える。自分が思っていた通りに行動していて間違ったことなどなかったし、欲しいものはすべて手の内に収まってきた。それを結果とするのなら、自分は欲望のままに動き後悔をなどしたことはない成功者だと言える。 けれど、の瞳をあんなに恐怖に染めるつもりはなかったと言い訳じみた考えが浮かぶのもまた事実だった。白兎とアリスに会ったカフェで、がなんらかの約束をしたことはわかっていた。それが彼女たちなりの連絡方法だというのも、理解していた。けれど止めたり牽制したりしなかったのは、どこかでがまだ自分に従順であることを示すかもしれないと期待していたからだ。腕をとって歩き、自分の伴侶として振舞うを見る限り、約束を簡単に破るとも思えなかった。 しかし彼女の意識はナイトメアに運ばれ、アリスと密会し、ブラッドを裏切った。所詮は女同士の会話だし、ナイトメアにを奪うような甲斐性などないのに、ブラッドは瞳を閉じて眠るを前にしてひどく苛立った。裏切られた事実とそれに動揺している自分について、を憎んですらいた。彼女の体に馬乗りになり、ナイトメアの領分から彼女を引き上げるのは容易いことではなかったが、一刻早く彼女の瞳に自分を写さなければ彼女の首をしめかねないとさえ思った。ようやくまぶたを上げた彼女に安堵と共に同じようで違う―――子どもの癇癪に似た爆発的な――――苛立ちがこみ上げて、言い合いの末に唇を奪ったことについて、後悔などしていない。ただ、そのあとに見た彼女の傷ついた顔を見た瞬間に頭が冷えたのだ。 「…………ハ」 思い出すと自嘲が漏れた。エリオットが不思議そうにこちらを見たが知らぬ振りをする。 ひとりの女のためにあれだけの騒ぎをし―――部屋を出た彼女を追わせ、手助けをしたボリスを取り逃がした―――自分が議題にあげられるなど笑い話以外のなんなのだろう。もアリスも自分の所有物だと思っている女王の怒りを買い、普段まったく役にたたないナイトメアさえ自分に牙を向いている。その牙がいくら弱く脆弱だからと言って、今までそんなことをする輩がいれば役持ちだろうと叩き潰してきたはずなのに、今はそんな気にならなかった。 彼女の顔が視界の奥でちらちらと瞬いて、力が入らない。従順な部下たちは何も言わずとも背後に控え、主の号令を待っている。けれど戦争など仕掛ける気にもなれなかった。 視線を一点に集中させ、訪れる退屈な非難の嵐を待つ。休憩など、とってもとらなくとも同じだ。 「…………随分、大人しいものだな。そんなにを失ったことが堪えておるのか」 厭らしい笑いを抑えようともせずに発せられた声に、ブラッドは眉すら動かさない。 対面する形ではないが比較的遠くに配置された椅子に座るビバルディが自分を見ているのはわかっていた。その横でおろおろとしたキングが、彼女を諌めようか宥めようか迷っている。 「…………くだらんな」 「ほぉ。そのくだらん問題の主役はお前だ。…………の何がお前にそうさせるのか、わらわは是非聞いてみたい」 「くだらん、と言っている」 いくら言葉を駆使したところで、自分が彼女にこだわるかなど知られるわけがない。 普通の女だった。どこにでもいる、役のない顔なし同様に個性を見せない余所者を、どうして気になったのかなどわからない。ただアリスと共に屋敷を訪れたはどこかしら堂々として、自分を恐れずに笑った。あの笑みさえなければ、ブラッドは彼女を取り立てて覚えようなどと思わなかった。 「…………わらわが当ててやろうか」 べらべらと五月蝿い女王を無視し、視線を動かさずにいると楽しげに会話が重ねられる。ナイトメアは黙って傍観をする姿勢らしく、休憩に入るなり出て行ったグレイはまだ戻ってこない。女王の発言にエリオットも双子も耳を澄ましているのだろう。もし彼女が彼らの―――特にエリオットの―――許容以上の暴言を吐けば、ブラッドの号令など待たずともここは戦場と化すだろう。 視線すら向けていないというのに、ビバルディのくっきりとした唇の赤が笑った気がした。 「…………恐怖、したろう」 ざわり。凪いでいた精神が逆立って、体中に不快を伝える。 思わず視線をくれてやれば、得たりと笑う女王の口元の赤に更に苛立った。 ビバルディは何を、と言わなかった。ただの恐怖、だ。についてとも、彼女の何についてとも言っていない。けれどそれに反応してしまった自分が、その恐怖について充分知っていることを知らせてしまった。 恐怖。に感じたあれは、紛れもない恐怖そのものだった。 「帽子屋、お前は―――――」 「五月蝿い」 女王の声が煩わしくて声をあげれば、存外不機嫌に響いて自分で驚いた。ブラッドは視線を険しくさせる。気を抜けば、あの情景が思い出されてしまいそうだ。 なんのことはないあの昼時を、思い出すなんて吐き気がする。 「帽子屋」 興味などなかったのに近づいてしまったあの瞬間、すでに自分は手遅れだったに違いない。 太陽の光が鬱陶しい昼の陽気の中、気まぐれに屋敷の庭を歩いた先で見つけたは眠っていた。ごくごく小さく上下する体で、ようやく彼女が生きているのだとわかった。そうでなければ、綺麗な死体だとすら思えた。木の幹に体を預け、足を投げ出しながら眠る彼女はおそらく淑女に程遠く、それなのに随分儚げで見ているこちらが居たたまれなかった。木漏れ日がまぶたを縁取るまつげに色をつけ、ふと、彼女が呼吸を止めた気がした。 刹那、自分を襲った直感を恐怖以外の言葉で探すのは難しい。 「ブラッド? どうしたんだ、顔色が」 「黙っていろ」 エリオットに言い捨て、思い出すのを止めようとしてみたところで記憶の蓋は閉まりきらなかった。木漏れ日と温かい風、自分と彼女の間にあったはっきりとした距離さえも鮮明に現れてくる。 消えてしまうかと思っただなんて、どうして誰かに言えるだろう。 「あれー? なんだか楽しいことやってるんだな」 場違いに明るい声を出して、会議室の扉が開いた。そこにいたのは赤い男だ。全身趣味のいいとは言えない赤服で、それなのにちっとも違和感を出さない不思議な男はがちゃがちゃと剣を鳴らして歩く。 エース、と誰かが呼んだ気がした。ビバルディだったのかもしれないし、キングだったのかもしれないが、ブラッドはどうでもよかった。エースは入ったときからブラッドだけを見ていた。口だけは笑っている、ぎらぎらした殺人者みたいな顔で。 「よかった。やっと帽子屋さんに会えたぜ。俺って、ツイてなくてさー」 「…………」 「会合が始まってすぐ探したっていうのに、随分遅れちゃったよな。うん。でもいいや。あのさ、帽子屋さん、頼みがあるんだけどさぁ」 ずんずん近寄るエースはよどみのない口調で喋り続けている。控えたエリオットが腰に手をかけたので小さく制した。けれどまばたきの間に振ってきた切っ先の重さに、同時に構えた杖が激しく鳴いた。ブラッドでなければ真っ二つにされていただろう剣筋に、周囲の空気が張り詰めた。 随分近くなった距離で相変わらず笑い続けるエースの目があまりにも空虚で寒気がする。 「死んでくれよ」 こんな状態だというのに爽やかに、底抜けに明るい声を出す。近づいた彼は血の匂いしかしなかった。笑ったままの口から、呪詛のように紡がれる言葉たち。 「ユリウスとと……………………オレの為にさ」 |
運命の砕ける音が聴こえるか?
(09.07.05)