は急いで隠し部屋を後にし、壁に阻まれた短い階段を出来るだけ早く―――かつ慎重に――――降りる。高い塔から落ちるように急な階段だったので、両手を壁につき自分を支えるようにして足を進めた。こうするとは何かから逃げているようなのに真実は問題に向かっているなんて、少し滑稽だ。 のぞき穴から見たエースの顔は忘れもしない、時計塔での彼だった。ユリウスの友人であると思い込んでいた、懐かしく愚かしい自分がまだ存在したとき、彼は単なる不気味に爽やかな人だった。ユリウスに友人がいるなんて思わなかったし、エースのように厄介そうな男がそうであることも意外だった。ユリウス自身もがエースを友人扱いすると嫌そうな顔を隠そうともしないものだから、何度か注進――――友人の大切さとその何でも顔に出す態度を何とかしたら、ということについて―――――したことがある。 けれどある夜、ユリウスの不在にエースが尋ねてきたことがあった。おおよそありえない塔の主の不在に、普段では考えられない人物の訪問だった。エースは常の彼とはまったく違う装いで、の前に現れた。重たく固いマントを羽織り、全身黒ずくめのくせにところどころを赤く濡らした、表情の読めない仮面を被った姿で。 『…………あれ? ユリウス、いないのか』 扉を開けたまま固まるに、口調だけはいつもの調子でエースは言った。その声がエース自身だとわかったは、それでも体の緊張をほどくことができない。部屋全体が奇妙に強張って、の張り詰めた心の味方をした。 エースはそんなの様子に気付いたのかそうでないのか、部屋には入ってこようとしなかった。いつものなら了承も得ずにずかずかと入り込んで椅子に座るのに、そうしようともせず扉の前で立っている。厚ぼったいマントから、何かの液体がぽたりと落ちて染みを作った。 『どうしたんだ? 、顔が青いぜ』 『…………』 表情の読めない仮面越しに、エースがこちらを見ている。答えようと開いた口は喉の奥が張り付いて声にならなかった。何か答えなければと心ばかりが急いて、どうしてエースだとわかっているのに体が小刻みに震えているのかわからなかった。 ただ、仮面を被っているはずなのに彼の瞳が恐ろしく冷え切っていることを知っていた。笑ってなどいないから、彼は仮面をはずせないのだ。 『…………何をしているんだ、エース』 『ユリウス』 待ってたぜ、とエースが言い、は縋るようにユリウスを見た。 それですべて合点したのかユリウスは呆れたようにため息をついた。それから中にいるとエースを遮るように間に割って入り、珈琲を淹れるように頼んでエースと話すと言って扉を閉めてくれる。はそこでようやく薄かった空気が濃くなって、肺の中に収まるのを感じた。しゃっくりみたいに息を吸う自分が呼吸すら忘れていたことに驚いた。 ただユリウスが帰ってきてくれたこの部屋は安全で、もう怯えなくてもいいことだけはしっかりとわかった。震えていた腕をさすって彼の望みどおり珈琲を淹れに奥に引っ込む。計量スプーンで粉を測りながら、ただあのエースの瞳だけは忘れないと思った。いくら安全な場所であっても、あんな冷たく凍りついた目に怯えない自信はない。アリスに聞いた切り裂きジャックと言う通り魔に似ているかもしれない。 「…………あの目」 ブラッドを見ていた彼の目は、まさにあのときの彼だった。ユリウスは彼が仕事上の部下でもあるのだと説明し―――時計の回収作業というのは、つまりは心臓の回収作業なのだ―――、驚かせたことを詫びていたと申し訳程度に添えてくれたけれど、その口ぶりはこれから先も同じことがたびたび起きることを示唆していた。 階段を降りきって、隠し扉を開けるとそこは使われていない客室のクローゼットと繋がっている。暗闇から抜け出すと、平和な風景のままの寝室があった。この塔のどこかの会議室で剣を振り回す無法者がいるなんて思えないほどの静寂さだ。靴を履きなおし―――ピアスの部屋にあった、彼のコレクションの一部―――、視線を上げた先で自分を見つけた。縁取りの芸術的な鏡台の中で、白いワンピース、白い靴、化粧もせず顔を青くした女が心細そうに立っている。エースを止めるなんて出来そうにもない哀れな女に、は笑ってやった。ポケットに入った硬い感触だけが、自分を支えてくれる。こんなものを使うなんて思えないけれど、誰かを守る力を持っていることは大事だった。 「行かない方がいいぜ」 客室を出ようと鏡から視線をはずしたときだった。わたしは思いがけない人物の声を聞く。 目を見開いた先にいたのは、出口の前で尻尾を揺らすボリスだった。 「ボリス!」 無事だったの、と駆け寄ると、まぁね、と瞳を細めて笑った。 目測でどこも怪我がないことを確認し、彼の無事を心から喜んだ。 「よかった。心配したよ。わたしのせいでごめんなさい」 「謝るなよ。俺が逃げろって言ったんだし、はちゃんと逃げた。戻ってきてるのはいただけないけど」 せっかく逃がしてくれたというのに戻ってきてしまっていることについてボリスが不平を漏らしてくれたので、は素直に謝ることができた。ごめんなさい、と言うとボリスはすぐに平気な顔で笑ってくれる。彼の空気は穏やかで優しい。 「で?」 穏やかな雰囲気に真剣みが混じった。綺麗な三日月の入った猫の目が細められる。 わたしはその質問の答えを彼が望まないことをわかっている。 「…………行くよ」 ごめんね、と呟けば、綺麗な紫の瞳を一度閉じてため息をついた。 「そういうと思った。アンタ、見て見ぬふりができないよな」 「そんなにいい子じゃないよ。元の世界では、厄介ごとに首は突っ込まなかった」 「じゃあ今回もそうするのは? 俺と逃げて、ほとぼりが冷めるのを待つ。みんなはが帰ったって思うかもしれない」 提案してくれるボリスはいたって真面目だ。猫の突拍子もない発言に、は驚いたけれどすぐに笑った。眉だけは困ったように下げるのを忘れなかった。 「無理なの。エースはわたしが帰れないことを知ってる」 「…………帰れない?」 「そう。帰れないの。…………ペーターも、知っていた」 すぐにでも帰ると主張していたくせに、今のわたしの状態ときたらまったく別物だった。 帰れない。それはもう揺るがしようのない事実だった。アリスも薄々気付き始めているだろうが、タイミングはすでに来ていたのだ。砂時計はとっくに落ちきり、もういつでもチャンスを与えられてしかるべきなのに、には何の異変もない。 これではもう帰らないのではなく、帰れないの間違いだ。 「ボリスには感謝してる。いつも、道を作ってくれて」 「チェシャ猫だからね。道を作るのも消すのも趣味みたいなもんさ」 「でも、わたしは救われてた。だから、ありがとう」 言って微笑めば、ボリスは眉を潜めた。すぐ傍にあったわたしの右腕を、彼の左腕が捕まえる。 「ボリス?」 「…………帰れないって言ったけど、どこかに行きそうだ」 「どこかって?」 「どこかはどこかだよ…………俺が作れない道の先」 ボリスは呆けた様子での右手の中指の爪にキスをした。 「…………もう一度聞く。俺はあそこに行ってほしくない。騎士は様子が可笑しいし、今度帽子屋たちに捕まったらどうなるかわからないだろ」 「うん。…………でもここに落ちてきたときから、どうなるかなんてわからなかったから」 不安なのも立ち向かうのも、本当はいつもひとりきりでしなければいけなかった作業だ。 アリスやユリウス、それにボリスが助けてくれたから甘えていたけれど、弱くなってしまったのはそのせいかもしれない。 「…………ねぇ、ボリス。ありがとう。本当に、わたしにあなたみたいな友達がいてくれたことは奇跡かもしれない」 「…………」 「でも行かなくちゃならないの。…………わたしの為に、扉を開けてくれない?」 掴まれたままの手を握り返し訴えると切実そうに聞こえた。 ボリスは眉を寄せてやっぱり嫌そうな顔をしていたけれど、しばらくした後ゆっくりとまばたきを繰り返して手の力を緩めてくれる。その手がドアノブに掛けられるのを、は言葉そのままに奇跡みたいな面持ちで見ていた。ボリスは優しく賢い猫だ。 「ここを開けたら、アンタは嘘でも必ず帰るとは言ってくれないよな」 「…………うん」 その問いかけで傷つくのは誰でもないボリスのはずなのに、彼は言ったあとで苦笑に近い笑い声をあげた。子どもみたいに泣けない大人の笑い方だ、と思った。泣くよりは笑うほうがずっといいと知っている大人の笑顔。 「じゃあ、違う約束をしようぜ。例えばそうだな…………がこの世界に戻ったら、一緒にネズミを追い掛け回すとかさ」 「ピアスを?」 「そうそう。それで疲れたら一緒に昼寝してさ。オレのファーに包まって、手を繋いで、双子を混ぜてもいいし、が望むならピアスだって加えてもいい」 あんまりにも優しくて残酷な、夢ばかりの理想だ。ボリスは口に出しながら夢特有の違和感に苛まれている。わたしは彼の夢に肯定を示すことが、今の自分に出来る精一杯の答えだとわかった。 「うん、そうだね。…………みんなでお昼寝、したいな」 叶わない約束の儚さと愚かさを知っている二人ではあったのだけれど、そのときはそれが唯一の現実でよかった。希望を話せば―――ボリスが『戻ったら』と意識的に言ったことをは気付いた―――、少なくとも扉の先に訪れる未来に期待が持てる気がしたのだ。 ボリスもも二人きりで寂しく笑った。笑ったまま、彼はのために扉を開けてくれる。扉の向こうには会議室があるだろう。阿鼻叫喚の、エースが剣を抜き放ちブラッドが応戦する考えたくはない混乱ぶりに違いない。 がちゃりと開いた扉はボリスの能力に反応して一瞬魔法みたいな光を放った。 |
ドアを隔てた天国
(09.07.20)