エースが狂ってしまったのはわたしのせいだろう。
元々狂っていた彼の、最後の螺子をはずさせたのは紛れもなく自分だという確信があった。わたしは今、引っ越しのとき弾かれた瞬間とは立場を別にしている。わかっていなかった―――わかろうとしてさえいなかった――愚かなわたしを、きっとエースは苛々しながら見つめていたことだろう。彼はユリウスがいないだけであんなに参っていたというのに、わたしはもう次のことで頭が一杯だったのだ。
会議室の扉を開けた瞬間にすぐにエースとブラッドを見つけた。本来ぶつかり合うべきではない二人の刃が合わさっており、広間は怒号と耳をつんざくような爆発音でパンク寸前だった。脊髄反射のように唇から零れ出た名前の意味が、わたしにはわからない。けれど呼んだ相手はわたしを見つけてくれて、あまつさえ混乱した男の凶刃から守ってくれた。エースは普段の彼から考えられないほどの乱暴さで、わたしに背中を向けている。


「エース」


誰を殺そうか、だなんてリクエストに答えられるわけがないでしょう。
何度呼んでも答えてくれないエースの背中に、ペーターからもらった銃口をあててわたしは言う。少なくとも今度は話を聞いてくれているようだった。力任せに剣を振るうより、ただひたすらに話し続ける彼のほうがよっぽど怖い。エースはわたしがひとつでも否定すれば間違いなく切り捨てていたに違いない。これ以上、彼を否定するようなことをすれば、きっと耐えられなかった。


「…………ごめんね」


いつのまにか広間は静まり返っていた。エースがどんな顔をしているのか見える彼らは一様に黙り込んでいる。わたしの話を聞こうとしてくれているのかどうかはわからない。
ごめんね。謝ったのに、謝った途端後悔した。必要な言葉だと思ったのに、全部を認めたわたしは必然的に悪者になった気がした。


「…………何を謝るんだい」


心なしか、エースの声が傷ついて聞こえたのは罪悪感のせいだと思う。わたしは彼の瞳を見られなくてよかったと思った。もし前のように責められたら、今のわたしはもう我慢できないだろう。謝るほかに道はないことなど、もう知っていた。


「あなたとユリウス、そしてみんなに」
「…………へぇ。どうして?」
「勘違いしていたから。わたし、ずっと中途半端だったのね」


どこにでも行けたわたしは、初めからどこにも行けなかったのだ。鞄ひとつで領土を渡り歩いたというのに、その実どこにも心を置いていけなかったのがいい証拠だ。踏みしめて歩いたはずの道に、わたしの足あとはなかった。
そしてそれを初めから知っていたエースはずっと不満だったに違いない。ユリウスの不在に参っていた彼に、わたしは同調するべきだったのだ。彼の不在をわたしが少しでも不安がれば―――例えば怯えたり淋しがったり、泣いたりすれば――――彼はわずかでも救われた。
彼に向けている銃はずしりと重たくて、わたしは片手で持っていたそれにもう片方の腕を添える。まるで撃つ瞬間のようで、その可笑しさに笑った。わたしは自分の言葉ひとつ聞いてもらうために、銃口を向けなければいけないのだ。
例えばそれが大切な人の友人だとしても。


「…………ずっと、エースは知っていたんだね」


きっと彼の言っていることは大方筋があっているに違いない。わたしの持っている真実と、彼の持っている真実は似通っている部分が多々―――それぞれの願望が含まれているとしても―――見える。わたしが帰らないのではなく帰れない意味も、なぜかという理由も、その光景さえもどうにかして得ているのだ。
だとすれば、ずっと気付かずに自由でいられたわたしは奇跡だ。彼に突きつけられた毒が、わたしを致死にまで至らしめなかったのはそのせいだった。
エースがちらりと笑った気がした。


「知っていたさ。君にはユリウスが必要だ」
「そう。…………わたしをこの世界ではじめて受け入れてくれた人だもの」
「それだけじゃない。君はいろいろなことを教わったろ。この世界の意味も、成り立ちも、ユリウスがどんな仕事をしているのかも」
「…………えぇ」
「それに他のやつらとの付き合い方だって教えられていたはずだ。付かず離れずにいろってね。それなのに」
「近づいたのは、どうしてか?」


彼の質問を受け入れて、わたしは自分でその問いを返す。エースは無言だったので、肯定と受け取った。広間は静まり返っていたので、わたしの声もエースの声もよく通る。まるで公開処刑のようだ。首が落ちる瞬間まで、わたしは人目に晒される。


「忘れていたの」


きっと彼の気に入らない、わたしだって消したい答えを口にする。唇が変な形に歪んで、笑ったのがわかった。きっと自分への嘲りだと、覚醒した脳で考える。


「忘れてた…………?」
「そう。忘れていた。ユリウスと約束をしたあの日を、その詳細を、忘れていたの」
「そんなことできるはず」
「できたの。してしまったの。気付いたとき愕然とした。わたし、本当に大切なことだったのに」


大切でかけがえのない、だからこそ残酷なあの日のことを忘れていたなんて。
鼓動が早まり、わたしは無意味な自分自身に笑いたくなる。あんまりにお粗末な最後だ。目の前にあるものしか信じられなかったわたしは、だから昔を忘れてばかりだった。


「あんまりにもこの世界が眩しくて」


眩しくて愛おしくて、優しくしてくれるから甘えていた。わたしは涙が出そうになるのを堪えてエースの体ごしにブラッドを見る。彼は静かに傍観してくれていた。手に持ったマシンガンはいつのまにか杖に戻っている。エースに助けられる前に彼がわたしを呼んでくれたことはわかった。助けようとしてくれたことも。
優しい人なのだ。それをわかるまでにたくさんの時間と勘違いを犠牲にしてきたけれど。


「居心地がよかったから…………あのときの恐怖を忘れていたの」


落ちたばかりのわたしがどれだけ絶望したのか、もう思い出したくない。
ささやかに培ってきたすべてを無くした。家族も友人も学校も、習ってきたすべてと共有してきた思い出、慣れ親しんだ土地をすべて取り上げられたわたしは打ち上げられた魚のように無力だった。死んでいくしか道などないようにさえ、思った。
本当は、死んでいくのが正しかったのだ。魚は陸上では生きられない。人間は海では暮らせない。そこで生きてしまえばルールが崩れてしまう。世界を保つために、わたしは死ぬべきだった。


「…………ごめんね」


何度謝ろうと、どんな謝罪をしようと届かない。エースは知っていた。わたしがユリウスに依存していたことを、わかっていた。それなのにわたしは知ろうともしなかった。
差し出したのは自分であったというのに、忘れていたなんて無責任だ。
突きつけていた銃をそっとはずす。ペーターの声が脳でリフレインした。
弾は入ってます。安全装置もはずしてある。あとは、あなたの使い方次第ですよ。
わたしのウサギでもないのに、彼は最後に随分やさしいことをしてくれた。


「…………?」


銃口の気配が消えたことにいぶかしんでエースが振り返ったときすでに、わたしは自分の頭にそれをあてがっていた。片手ではずいぶん重い銃をこめかみにあてて、わたしは笑う。
わたしはエースをまっすぐに見た。彼も、彼らしくない様子でわたしを見ている。笑っていない彼は、真摯だ。


「さよなら」


とっさに伸ばされたエースの腕など届くはずもなく、わたしは自分自身に引き金をひいた。
死ぬべきだったのだ。この世界のルールを崩してしまったあの日に、わたしは殺されるべきだった。なのにのうのうと生きているわたしが引き起こしてしまったものはすべて、責任をとらなければならない。
意識の外で銃声が響いた。ひどく遠く、あまりにも大きく、フィナーレを飾るにはいささか乱暴な、銃声だった。
目を閉じる瞬間、きっとアリスだけは泣いてくれるだろうと思って優しい彼女に想いを馳せた。


!!!!」


優しい世界に呼ばれたけれど、わたしは振り返らなかった。





























Who killed Juliet?





(09,07.20)