『ねぇ、ユリウス。この世界の人たちはどうして、あんなに淋しそうなのかな』 いつか、わたしは無邪気に質問をした。ユリウスは相変わらず作業台に向かっていて、忙しなく動く手は休まることを知らない。その背中に視線だけを向けて、わたしはベッドにごろりと横になっている。彼の部屋には客室と呼べるものはなく、わたしは彼が仕事をしている間に彼のベッドで眠った。ユリウスはほとんど睡眠らしい睡眠をとらないから、悠々とベッドを占領してしまう。 時計塔での仕事は家事一般だったので、よく町にでかけていった。日常の細々としたものやユリウスに頼まれたもの、それとたくさんの食材を買って帰るのが日課で、ユリウスはわたしが両腕に紙袋を抱えて帰ってくると一瞬目を見開いてそれからため息をつく。それと同時に彼の腕はわたしから紙袋を奪うべく伸ばされていて、その腕に半分の荷物を預ける瞬間が好きだった。彼は呆れながらもわたしを受け入れてくれているのだという時間。 その買い物の最中に、ふと疑問に思った。顔なしや役なしと呼ばれる人たちが世界の大半であることなど知っていたけれど、それを受け入れるにはまだわたしの中に前の世界が残りすぎていた。 『淋しい?』 『うん、淋しそう。自分を無意味ですなんて言うのは、淋しいからだもの』 淋しくて孤独で不安だから、口に出さなければ怖いのだ。そうだと言い聞かせて、誰かに納得なり否定なりして欲しい。口に出す言葉というのは、心にとどめて置けないものがうっかり出てきてしまった姿なのだ。 瞳をゆっくり閉じて、同じようにゆっくりとまぶたを開けるとユリウスが立ち上がっていた。わたしは彼を見つめて―――彼のベッドは机の上に設置されているので、寝転がっているわたしと彼の視線は同じくらいなのだ――――、ユリウスの次の言葉を待った。 『お前は…………私達が淋しそうだと言うのか』 『ユリウスを?』 『同じだ。私も顔なしも…………この世界の住人全てに意味などないに等しい』 ベッドの縁に腕を乗せ、神妙に話し込むには不適当だと思われる体勢のわたしの意識はとろとろと揺れている。眠かったのだ。それと同時にとても素直になっていた。 口角を上げて、わたしは頬を緩ます。 『ただいま、ユリウス』 『…………?』 『帰ってきて誰かが待っていてくれるのはいいことだと思わない? だって、それだけでひとりじゃないもの。ただいまって言うのは、その人のために帰ってきたっていう意味なんだよ』 意味なんてものは作ればいいと思っていたし、元いた世界は実際にそうやって自分自身を保っていた。例えば家族の誰かに、友人のひとりに、すれ違う人に聞いてみればわかるだろう。あなたの価値はなんですか、なんて質問をしたとして、明確な答えが出る人などいないに違いない。だって、彼らの大前提として主人公は自分たち自身なのだ。 だからこの世界の住人の指す「無意味」についてわたしはいつも萎縮してしまう。お前の価値を語ってみせろと言われているようだからだ。いつもオマケをしてくれるパン屋の主人も八百屋のお兄さんも、美味しい煮物のレシピを教えてくれた肉屋のおばさんも好きだったけれど―――いくら好きになっても顔など見えなかったのだが―――、みんな一様にひどく怖かった。目に見えないものを形にしようとする人たちは、なんであんなにも淋しそうなのだろう。 『。…………お前は』 ユリウスはあのときなんと答えたのだろうか。否定か、肯定か、それともいつものように終わりの見えないお説教が始まったのだろうか。よく覚えていないのは、きっと眠ってしまったせいだろう。とろとろと沈み込む意識の底で、けれどユリウスは笑っていたように思う。少なくとも淋しそうではなかった。 * * * * * * ―――――――――この暗闇は、眠ったせいだろうか。 わたしは確かに目を開けて、目の前にひろがっているはずの―――あまりにも一面の黒であったので、瞳をあけているのかさえ疑わしい――――暗闇を見据えた。墨のように深く、とろとろとした空間の中で浮いているわたしは、意識だけを持っている。手はあるのか足は動いているのか、そもそも自分自身は形を成しているのか、それさえも曖昧だ。少なくともアリスの言っていたような、星空の中に放り出されたような感覚ではない。上も下も右も左も、わたしを圧迫する黒が広がっている。目を閉じても開いても、そこにはあるのかないのかさえわからない暗闇がある。 ―――――――――これは、あの闇に似ている。 ふと気付いて、わたしはわたしを苛むあの夢を思い出した。アリスには姉が出てくると言っていたが、わたしにとっては『わたし』がそれだった。元の世界に帰らなければと急かすのは、誰でもない自分自身であり、そうでなければ困るのもまた自分だったのだ。卑怯だと罵る自分に対して、わたしは一度も立ち向かったことなどなかった。ただ体を小さく縮ませて、固く目を瞑っていた。 ―――――――――もしかして、最初から誰も居なかったの。 罵る声も誰かがそこにいたかのような気配も、最初からすべてわたしが生み出した幻だとするなら、ここに誰も居ないのも妙に納得の出来る話だった。卑怯だと、責任を放棄するなと思っていたのも言って欲しかったのも自分だった。 ―――――――――じゃあ、どうして。 ここにいるのだろう、とやっと思考が追いついてくる。死んだものだとばかり思っていたのに、わたしの意識はここにある。それとも、考えてもみなかったがワンダーワールドに落とされた人間も天国や地獄に行けるんだろうか。どこのどいつだか知らないがわたしの一生の罪や功績を秤にかけて裁断をくだす輩がいるのだとしたら、わたしはそんなものに従いたくなどない。ユリウスのように他人を支配する絶対的な誰かを、これ以上苦しめたくなかった。 ―――――――――ユリウス。 わたしは思考全体で彼を考え、記憶の底にある全体像を思い描こうとした。いつもつまらなそうな平べったい瞳、長くて綺麗な藍色の髪、まったく運動をしないくせに体つきはしっかりしていて、しなやかに伸ばされる指先がきれいだった。時折かける細い黒縁の眼鏡のつるを直すときの所作が神経質そうに見えると言って拗ねられたのはいつのことだっただろう。珈琲の淹れ方がなっていないと注意されて、彼が手本をみせてくれたのは昼だったのか夜だったのか、それとも夕方だったのか。 ―――――――――ユリウス。 もう一度、彼に会えると信じた。そうでなければ可笑しいのだ。どんなに乱暴な方法をとったとしても―――それは仮に、わたしが死んだとしてもという意味で――――ユリウスにはもう一度会わなければならないはずだった。もしそうでなければ、わたしにはユリウスと会わないかわりにある劇的な変化があるはずだった。 ―――――――――ぜったい、会える。 暗闇に光を見出そうとじっと一点を見据えた。ここがどこかなどもう問題ではない。わたしは彼に会わなくはならず、ここにいるのなら脱出してでも会いにいかなければならない。なぜならあの偏屈は自分から会いたいなどとは言わないだろうし、またそんな手段を用いたりはしないからだ。誰かに依存することを恐れていた彼が、わざわざ自分からそれを露見させるようなことをするとは思えなかった。 『…………帰れないって言ったけど、どこかに行きそうだ』 『どこかって?』 『どこかはどこかだよ…………俺が作れない道の先』 ボリスの声が蘇り、彼の悲しそうな唇の動きまで見える気がした。彼は本能的に察知していたのだ。彼の作れない道の先にわたしが行かなくてはいけないことを、わかっていた。なんて賢い猫だろう。そして、やさしい猫。 わたしはゆっくりと―――できるだけ目と鼻と口があることを意識して―――瞳を閉じる。同じ暗闇の中で、できるだけ詳細にユリウスの塔にあった部屋のドアを思い浮かべる。材質から色、形、ノブの感触、そして一番肝心なその扉にいるはずの人物をわたしは作り出さなければいけない。 ボリスにできないのなら、それをすべきなのはわたしだ。そう教えてくれたのは、間違いなくあの猫だった。 閉じたとき同様に恐ろしくゆっくりと―――徐々に映し出されるだろう扉を意識の中に構築させるのだ―――瞳をひらいた。そしてわたしの瞳がきちんと開いているのなら確かに、そこに先ほどまではなかった扉が出現していた。暗闇にぽっかりと浮かび上がる扉は薄明るい光に包まれている。金メッキの剥げたノブに腕を伸ばそうと試みれば、いつのまにか腕から先の手が暗闇の中から突き出すように現れていた。固くて冷たい、その塔を象徴する主そっくりに情のない感触がわたしの腕から先のすべての器官に伝わった。わたしは何度目かのまばたきの末に扉の前に完全に立つ。足も手も頭も、もちろんすべて正常に機能させた状態でわたしはノブを回す。 暗闇に光が漏れはじめ、ごちゃごちゃとした作業台がいの一番に目に飛び込んできた。知っている匂い、懐かしい気配、体にしっくり馴染んだ時計の音。空気ばかりか温度すらも篭っているこの部屋にわたしは戻ってきたのだ。 一歩部屋に入ると、それだけで背筋を這い上がる違和感に耐えられなかった。ここはすでに、わたしの離れた場所であり無くしたものだった。 「…………」 低く落ち着いた、部屋と同じように馴染み深い声がわたしの意識に吸い込まれる。いつのまにか心臓がうるさく鳴っていた。呼ばれることは想定していたはずなのに、その声に泣きたくなるほどの切なさを覚える。会いたくなかった、会うはずじゃなかった、けれど結局会わなければ終わらないのだ。 わたしはできるだけ上手な笑顔を作ろうと、口角をあげた。 「ただいま、ユリウス」 藍色の髪を揺らした神経質そうなわたしの本物の拾い主は、いつもの仏頂面でわたしを出迎える。 |
目を閉じても無くなる筈がない
(09.08.22)